3、豚さん
俺はその場に立ち尽くした。
目の前にいるそれは、二足歩行する豚のようだった。
あくまでも似ているだけ、だ。
ブヨブヨと弛んで見えるピンク色の肌は豚そのものだが、しかし、口の端から上向きに伸びた二本の牙と言い、その凶悪な顔つきはイノシシと思った方が正しいかもしれない。
今、ゆっくりと開いていく大きく避けた口元と、そこに並んだ乱雑な牙の群れだけを見ればワニの方が近い気もする。
子供程度の大きさだったゴブリンとは違い、三メートルくらいはあるだろうか、人間の大人よりも一回り以上に大きい巨体だ。
とにかく、そんなバケモノ。
モンスターと呼ぶに相応しい本物のバケモノ。
豚のバケモノは大口を開けて、目の前に倒れてる人影を食らおうとしている。
うつ伏せに倒れていてその人影の素顔は見えないが、金色の長い髪と、柔らかな曲線を持った細身の体躯から察するに、幼い少女だろうと思う。
少女が生きているのか、死んでいるのかもわからない。
いや、もし生きていたとしても、こんな【木の棒】一つであんなバケモノを倒せるワケがない。
俺に何とかできる状況ではない。
だったら、例え死んでいたとしても人が食われる場面などわざわざ見たくはない。
それに少女が食われたら、次は俺が餌に選ばれる番かも知れないじゃないか。
俺はここへ駆け付けてしまった事を悔やみながら、静かに後ずさり、バケモノに気付かれる前にその場から逃げる事に決めた。
なのに、少女から目が離せなかった。
俺は何かを探している。
ピクリとも動かぬ少女の姿に、何かを期待している気がした。
この少女も、俺と同じようにチュートリアルをクリアしたばかりなのだろうか。
後ろ姿しか見えないが白い下着姿のようだ。
ちゃんと全裸を卒業している。
ブラジャーも付けているようだが、もしかしたら女子だから上下セットだったのだろうか。
だとしたら少しアンフェアな気もする。
男子だって乳首は感じるんだぞ。
いや、そうじゃない。
思考が混乱する。
今は、逃げなければ。
少女の食われる姿など見たくはない。
だから、だから俺は、なのに、少女から目が離せなくて、そして、その少女の肩が、ほんの僅かに上下している事に気が付いてしまった。
途端、弾けるように駆けだしていた。
俺は、少女に期待していた。
少女が、まだ生きている事を。
気絶しているだけなのなら、それを救うためならば、例え命を捨ててでも戦う価値があるじゃないかと。
強烈な意思が俺の体を突き動かす。
同時、それに反するような死への恐怖が、足を掬う。
「……あれっ?」
足を絡めた俺はそのまま前のめりに倒れ込み、とっさに地面に手をついた。
持っていた【木の棒】が手の平からすり抜けて地面に引っ張られていき、コーンと間抜けた音を立てる。
ビクリとバケモノの動きが止まった。
ギョロリと、バケモノの視線が俺を捉えた。
「…………ッ!!」
恐怖で悲鳴すら上がらなかった。
喉が縮こまり、呼吸すら疎かになる。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!
そう脳内が危険信号を最大音量で発し続けるが、俺の体は石化でもしたみたいに硬直して指一本動かせない。
まさに蛇に睨まれた蛙という奴だ。
なんて考える思考も麻痺していく。
豚のバケモノは俺を睨みつけたまま、何かを思案するように頭を動かした。
そして立ち上がると、ゴリラのように太い腕で少女を掴み上げ……
肛門に、ぶち込んだ。
何を言っているか分からないと思うが、そのままの意味だ。
気絶してる少女を自らの肛門にぶち込んだのだ。
角度的に肛門が見えたわけではないが、生物も構造的にそういう位置だった。
バケモノは少女の体がしっかりと奥まで入り込んだのを確認して、満足気に鼻息を一つ。
そして俺に向きなおると、雄叫びを上げて駆けだしてきた。
「ブホオオオオオオ!!」
「うわあぁぁぁああ!?」
バケモノの意味不明な行動のおかげで力が抜けたせいか、今度は体が動いた。
背を向けて、全速力で逃げ出した。
なんだよ、今のは。
そう思う自分がいる。
バケモノの行動が、ではない。
俺自身の行動に対してだ。
自分でも意味がわからない。
なんで見ず知らずの他人を助けるために命を懸けようとしていたんだ?
恐怖で混乱していたのだろうか。
それにしては意識はハッキリと冴えていた気がする。
なんですぐに逃げ出さなかったのだろう。
自分の行動を悔やみながらも全力で手足を動かす。
逃げる最中、例の紙テープが目の前にヒラリと舞い落ちてきた。
「それどころじゃねぇってのに……!」
毒吐きながらも俺はそれを掴み取り、尚も走って逃げた。
それでも背後からはドスドスと重たい足音が近づいて……ん? こないぞ。
振り返ると、確かに豚のバケモノは駆け寄ってきている。
フンフンと鼻息も荒く、威嚇するように雄叫びを上げながら追ってきている。
……のだが、めちゃくちゃ遅い。
思わず「おっそ!!」と口に出してしまったくらいだ。
豚は本来、走ればかなり速いのだが、このバケモノは二足歩行だ。
加えて、巨体に比べて足が悲しいほどの短い。
素早く動けなくても仕方がない。
これならば普通に走っていれば余裕で振り切れる。
俺はそのままいくつかの分岐を経て、バケモノの姿が見えない所まで逃げ延びた。
ドスドスという足音もここまでは聞こえてこない。
「はぁ……はぁ……。……ふぅー」
荒れる呼吸を整えて、冷たい床に腰をおろす。
背を壁に預けると、その冷たさが気持ちよかった。
どこをどう走ったのかも覚えていないが、もともと道など分かっていなかったのだから考えても仕方がない。
ただ、空腹と疲労感はかなり加速した感じがある。
「くっそー……なんであんな事を……いや、考えても仕方がないか……」
俺は手に握られて潰れていた紙テープを伸ばし、中身を確認する。
『オークはボスです。各エリアにダンジョンのボスはボスです。とてもボスは強いです。あなたは選ぶことができますボスを逃げる事を。あなたは選ぶことができますボスと戦う事を』
いつもの内容だ。
わかるようなわからないようなヒントらしきもの。
とりあえず間違いないと分かるのは、オークというボスがいるという事。
「オーク……あの豚がこのエリアのボスって事か?」
逃げる事と戦う事を選べるって事は、別に倒さなくても先には進めるという事だろうか。
というか、あの巨体のバケモノとまともに戦っても勝てる気がまるでしない。
そもそも俺の武器はただの【木の棒】だけだし……
「あっ」
そこでやっと気がついた。
逃げるのに夢中で、その唯一の武器を失ってしまった事に。