別れ
ねぇ聞こえる?
あなたに大事な話があるの。
返事をしないなら私が一方的に話すからそのまま聞いてて。
あなたはいつまで私の中に居続ける気?私ね。決めたの。あなたと決別するって。
今に抱いた事じゃないわ。あなたがいると何かと面倒なの。私はこれ以上大切な人達を傷つけたくない。だから、少し話し合わない?
私は開いている感覚があったが実際は閉じられた目をゆっくり開くとすごく浅い水面が私の足元から広がっていた。その私の足元の水面は少し動いただけで揺れて私の顔をひどく歪ませた。前を見ると私の姿をした人間らしきものが目の前に立っていた。周りにはその人間以外何も無い。だだっ広く果てしない風景が私たちの存在を虚しくさせている。
ねぇ。私は今まで自分の中にある恐怖心に勝つためにあなたを利用していたと思う。でも本当は恐怖になんて勝ててなかった。最近になって気づいたんだけどね。本当はあなただったんでしょ?あなたが私の恐怖の具現化した姿。ご丁寧に会話まで出来るなんて驚いたわ。ただ、恐怖が形になったから本来の私とは正反対の人格が出来てしまった。利用されていたのは私の方。あなたの存在意義は私の体無くしては成立しないものね。だからでしょ?私の心が極限まで動揺した時にだけ出てきていたのは。だってその方が人格を奪いやすいし、体を乗っ取りやすいからね。
「やっと気づいたみたいだな」
私の目の前にいる人間らしきそれはやっとその口を開いた。閉じられていた瞼を持ち上げて真っ直ぐ私を見つめてきた。
「お前が自分から気づくのを私はずっと待っていた。私が何者であるのか、それは私から伝えたとしたら何の意味もない。ただ、そういう者が自分の中に存在しているんだなという漠然とした理解のまま何の解決にもならずに処理してしまうからな」
私は黙ってその者の話を聞いている。その者の声は周りの空間に反響してより鋭く私の耳に届いてきた。その者は表情を変えようとしない。
「お前は私の正体をもっと早く知るべきだった。いや、私の存在をか。そうすればあらゆる人を傷付けずに済んだ。私はお前の臆病心が、恐怖心が生み出した紛い物だ。本来、お前が必要とすべきものではなかったはずだ」
じゃあ、どうして?
私は反射的に疑問を相手にぶつけた。相手は初めて訝しそうに表情を崩した。
あなたはそう言っておきながら私の心身を乗っ取ろうとした。だってそれがあなたの存在意義だものね。でも今のあなたの言い方だと自らの存在意義を無くしてくれって言っているように聞こえるの。あなたはこの世に存在したかったんじゃなかったの?
今度は相手の方が黙り込んだ。表情は先程までと同じように無表情のままである。静寂の持つ独特な騒がしさがこの空間一帯を支配していく。私は相手から目を話そうとはしなかった。無機質な眼差しには当然光など宿ってはいなく、見ているとその闇に吸い込まれそうだった。それなのに私は目を逸らすことをしなかった。
「最初のうちは私もお前の心身を乗っ取るのに躍起になっていた。お前の精神世界の中でその機会を窺っていたのだからな。ただ、あの日以来、私がお前の姉を殺そうとした時、果たしてこれが私の存在する意味なのか疑問に思ったんだ。私はこれまでお前の身体を使ってあらゆる人を傷つけてきた。しかし、それは存在意義とは違うような気がするんだ。お前は自分自身を守るために私を作り出した。私は本来、保守的な意味で創られたものだったんだよ。だから、私の存在意義は誰かを傷つけることでもましてやお前の心身を乗っ取ることでもない。お前を守ることだったんだ。今漸く、それに気づけた」
私の頬は知らぬ間に濡れていた。悲しくなんかないのに溢れ出る涙を止めることが出来なかった。ずっと疎ましく思っていた私の中の存在は本当は私をずっと守っていたのだ。やり方は間違っていたかもしれないけどそれでも必死で私を守ろうとしていたのだ。
「なぜ泣く?私はお前にとって消滅して欲しい存在ではなかったのか?」
違うの。
私は嗚咽を押し殺し、その舌を震わせた。私の口から飛び出した言葉は空間を行ったり来たりし、やがて私の鼓膜に戻ってきた。
やっと…やっとあなたの思いを聞けた。私は怖かった。あなたという存在が。得体の知れない何者かに人格を奪われるんじゃないかってずっと怖かった。でもそれは杞憂だった。あなたはずっとずっと私が私であるために私のことを守り続けてた。最初がどうであれ、今やっとあなたの本音を聞けた気がするの。私はそれが凄く嬉しいし、安心したの。だから、だから…。
私はとめどなく溢れ出る涙を止めることが出来なかった。言い終わってもないのに嗚咽混じりに何度も頬を拭ってしまった。私が必死に言葉を述べようとした時、間髪入れずに相手が私の名前を呼んだ。
「朱里。今言おうとしている言葉は私にはもったいないよ。それはもっと大切な相手に言うべきだ」
私は声にならない声で頷いた。何度も何度も。自分を納得させるように頷いた。
「朱里。私とはここでお別れだ。もう二度と会うこともないだろう。私はお前なんだからな。それと、もう少し喜んでくれないかな?やっと自分に戻れるんだ。泣いてないで笑ってくれないか?」
私は涙でボロボロの顔に笑顔を貼り付けた。恐らく酷い笑顔を相手に向けた。それでも私は精一杯笑った。
「ふふ。やっと私に向かって笑ったな。それを見たら安心したよ。じゃあ、私はいく。お前とはお別れだ。サヨナラ。朱里」
相手は私の前からすぅといなくなった。私たちを包み込んでいた灰色の空間が徐々に白色に輝いていく。私は誰もいなくなった空間に五文字の言葉を添えて目を覚ました。夢?いや、夢じゃない。頬は涙の跡を残し、窓から吹く風がその跡を乾かそうとしている。私はムクっと起き上がって窓に近づき外を見た。そこには広大な蒼穹がこの街全体を優しく包み込んでいた。私はいつもの様に支度をして家を出た。病院へ向かうその足取りは軽かった。私は何も変わらないいつもの道を少し早く駆け抜けた。
*
お姉ちゃんの定期検査で腫瘍があまり消えてないと告げられたのは私が夢を見た翌日のことだった。膵管にある大きな腫瘍は取り除いたものの点々とした小さい腫瘍が思った以上に消えていないらしかった。抗がん剤が効いていない。しかし、これ以上強力なものにした場合お姉ちゃんの体力が低下していることもあり体への負担はかなり心配だった。今後は様子を見て薬を変えていくらしいけど私は正直、心にベッタリとへばりついた憂いを拭い去ることが出来なかった。
お姉ちゃんの病室の扉をそっと開ける。白々とした一室全体が無機質な視線を私に向けてくる。お姉ちゃんは目を閉じたまま白く細長い腕を布団の上に出していた。病院服は以前よりブカブカ感を増し、憔悴して痩せこけたお姉ちゃんの頬にそっと手を伸ばした。
温かい。
お姉ちゃんの温もりをその掌で堪能しながら私は自分の不安に満ちた心を浄化した。お姉ちゃんはそっと重たそうに瞼を持ち上げた。懸命に重力に逆らっている。
「朱里?来て…たんだ」
弱々しい声に私は「うん」と優しく返事をした。お姉ちゃんは嬉しそうだった。あんなに表情が豊かだった姉が今は笑顔一つ浮かべられない。私は雰囲気で姉の気を感じ取った。だから、気のせいということもあるだろうけど私は確信していた。お姉ちゃんは今、嬉しそうだって。
これ以上の抗がん剤治療は危険と判断された。別の薬が投与され、姉の体内に散りばめられていく。腕に繋がれた細い管から栄養が注がれる。これが姉の食事。姉の料理を笑って食べられる日が遠のいてしまう。日のよく当たるリビングで食卓を2人で囲む。「美味しいね」なんて笑って幸せを噛み締めていた日々が急に懐かしく感じられてきた。当たり前だと思っていた日常が本当はとてつもなく幸せだったんだって今の現実が囁いてくる。
お姉ちゃんは起き上がらない。もう1人で歩けもしない。身体がその機能を失い、脳のみが生の活動をしている。つい最近に付けられた酸素マスクが白く、また白く曇る。それを見て「生きている」と思えた。私は込み上げるものを必死に圧し込もうとした。お姉ちゃんの前では元気な自分でいたかった。だからお姉ちゃんが私の方を向く時はとびきりの笑顔をした。「どうしたの?お姉ちゃん!」と少し声の調子を上げたりなんかもした。ほぼ毎日、病院に来るようにした。お姉ちゃんの顔を見たさに。その温もりを感じに。私は義務的にその足を病室に向けていた。使命感とでも言おうか。生きていることを確認してきなさいと言われてなんの反論もすることなく「はい」と従い何度も心臓の音を聞きに来た。これが私の欲求だった。お姉ちゃん生きて!まだ逝かないで!いつもいつも心の中でそう呟きながら。私はお姉ちゃんの手を握っていた。
その時だった。ガラッと病室の扉が開き久しぶりに見る顔が扉の隙間から見えた。その少女はギョッとしたような顔をすると一目散に病室を離れていった。私も慌てて駆け出す。
「待って!里奈!」
必死に手を伸ばした。腕を掴まれたことによりその身体は逃走への諦念を示したように力なく下りていく。荒い呼吸が誰もいない廊下へと響き渡る。
「は、話があるの」
こみ上げる苦しさを遮り私は言葉を発した。そうして私たち二人は屋上へと足を移動させた。
屋上の扉を開けた時、ざぁと向かい風が私を押し返そうとする。私はそれに負けじと扉を最後まで思いっきり開いた。屋上には誰もいなかった。私たち2人は広いスペースへと移動した。私はそれまで里奈に背を向けていたけど里奈の方に向き直った。里奈は私と目を合わせようとしない。俯いて自分を落ち着かせるためなのか、腕を何度も摩っていた。私は里奈に気づかれないように深呼吸をする。
「ごめんなさい!」
私は深々と頭を下げていた。そうしてゆっくり重たい頭を持ち上げると里奈は見開かれた目の閉じ方を忘れたみたいに驚愕の色を滲ませていた。
「里奈は何にも悪くなかったのに…悪くなかったのに私は一方的に里奈を傷つけちゃった。お姉ちゃんに頼まれたことで里奈はただ協力してただけなのに、それなのに私、信じてあげられなくて…ごめんなさい」
恐る恐る顔を上げると里奈が今にも泣きそうな目で私を見つめていた。そして、私と目が合うと同様に深々と頭を下げた。
「うちの方こそごめんなさい。朱里にちゃんと言えば良かったよね。二人でお姉さんに学校での暮らしを教えてあげられればよかったよね。そうしたら誰も傷つかなかったのに…。朱里はショックだったんでしょ?うちや身内に隠し事をされる事が。しかもそれが自分自身のことについて話してるっていうことだもんね。尚更、悲しかったよね。別に隠すことじゃなかったのにうちはやり方を間違えた。朱里ごめんなさい」
お互いの下げられた頭を広大な蒼穹が見下ろしている。静寂に包まれる屋上の一部の周りでは風が舞っており、枯れた過去の涙を再び乾かそうとしているようでもあった。
「そのお姉ちゃんの事なんだけど…」
私は頭を上げながらそう呟いた。同時に里奈も頭を上げながらその呟きの返事をする。
「朱里に言いづらくて言ってなかったけど定期的にお見舞いに来てたの。私、入院することになったって。癌なんだって。文面では実感が湧かなくて直接会いに来たら日に日にやせ細っていってた。うちは堪えられなかった。あんなに優しいお姉さんなのにって神様を恨んだよ。何で?…何でお姉さんなの?って」
「里奈…」
二人はとめどなく溢れ出るそれを止めることが出来なかった。自分たちじゃどうすることも出来ない現実に圧しつぶされそうだった。
「そうだよね。何でお姉ちゃんだったんだろうね。だってさ…このままじゃ…お姉ちゃんが…お姉ちゃんが…」
私は嗚咽混じりに言葉を吐き出した。そして、もう走り出すその足を止めることが出来なかった。目の前の少女を振り切り、私は一目散に屋上からの階段を駆け下りた。里奈も慌てて私の後を追ってくる。私は都合よく待合室付近で歩いていた相楽医師にすがり付いた。
「先生!お姉ちゃんを助けてください!私には、私にはもうお姉ちゃんしかいないんです!たったひとりの家族なんです。失いたくないんです」
「朱里ちゃん。落ち着いて!」
相楽医師は泣きじゃくる私を止めようとした。しかし、強引に剥がすことも無く、そのまま言葉のみで私を宥めようとするのだ。私は自分の行動を、衝動を止めることが出来なかった。
「お願いです。このままだとお姉ちゃんが死んじゃう。お姉ちゃんが…お姉ちゃんが!」
「朱里やめて!朱里!」
駆け付けた里奈が私を止めに入る。それからあと二人くらい看護師が私の体を引き剥がそうと懸命になっていたと思う。相楽医師は終始難しい顔をしていた。しかし、その顔を見れば見るほど私は自分の興奮状態を沈めることが出来なかった。その時、ふと聞き覚えのある声がして私の方に駆け寄ってくる女性がいた。
「朱里ちゃん!?何やってるの!?」
百合さんは他の三人と一緒に私の体と相楽医師を引き離そうとする。ダメだとわかっているのにどうしても止められなかった。だって、このまま見ていてもお姉ちゃんは死んでいくとわかっていたから。もうあの笑顔が見れないってわかっていたから。私は今の私にしかできない精一杯の我が儘を相手にぶつけていたのだ。相手からしたら迷惑極まりないけれど、この時の私にはこうすることでしか自分の心を救う術を持ち合わせていなかった。ただ以前と違うのはもう一人の自分に頼らなくてもいいということだ。だから、今こうして自らの意思で泣きついているのだ。白衣に固く握られていた私の手は諦めたかのように離れた。そして、そのまま地面に突っ伏して泣き、懇願した。
「お願いします。私、何でもしますから。今までの罪も全部償うから。だから、お願い。お姉ちゃんだけは、お姉ちゃんだけは助けて。助けてください!」
「朱里ちゃん落ち着いて!」
「お願いします。お願いします…」
弱々しくなる私の声。しかし、その声を発さないではいられなかった。どんなにか細くてもその声が枯れるまで出し続けようとしていた。私の背中を摩る手の温もり。かけられる言葉。周りの冷たい痛々しい視線。それを全て背中で受け取っていた。私の背中には次々と重たい荷物が背負わされていった。
*
気がつくと白い天井が無機質な表情を浮かべながら私を見下ろしていた。まるで非常人を憐れむかのように。
私の横で椅子がガタンと鳴る音がした。それも一つじゃなかった。立て続けに二回、そう確かに二回鳴ったのだ。
「朱里ちゃん気がついた?」
「朱里…」
「あれ?私…」
「あのまま気を失ったの?覚えてる?」
百合さんは私が気を失ったと言ったがあまり良く覚えていない。急に目の前が暗くなり気づいたらベッドの上だった。懇願していたのは覚えている。だが、事態がどう解決したのかまでの記憶は皆無に等しかった。
「落ち着いてよかった。一時はどうなることかと思ったよ」
百合さんと里奈はホッとしたような表情を浮かべる。私もその表情を見て、私が落ち着いたんだと自覚した。
「ごめんなさい」
「ううん。謝ることじゃないの。私だって、ここにいる里奈ちゃんだって七海には死んで欲しくないって思ってる。それは朱里ちゃんも同じ。私たちには医者としての技術もましてや病気を治す超能力さえも持っていない。私たちに出来ることってそばにいることぐらいしかないのかもね。でも、七海にとっては凄く嬉しいことだと思うの。凄く…心強いと思うの。私がもし七海の立場だったらそう思うかな…」
百合さんは自分が言っていることへの烏滸がましさの念を滲ませながら最後の語尾の方、声が段々小さくなっていった。私を安心させたかったんだろうけど自分で言っている言葉が妹に聞かせてもいいものか迷っているようでもあった。だけど、百合さんの優しさは充分に伝わった。より言葉を吟味して出していることが私にもちゃんとわかっていたから。「ありがとう。百合さん」。私はそっとこう呟いた。
暫くして、私は病院に泊まるようになった。お姉ちゃんの傍にできるだけ居たい。看護師の人に頼み込んで承諾を得た私はお姉ちゃんの生きている一分一秒を見逃したくはなかったのだ。微かに聞こえる寝息の音。私はこの音だけでも安心していた。夜空に輝く星々たちの真ん中に一際輝く満月が私達のいる部屋に光輝を射し込ませている。直線的なそれはお姉ちゃんの身体を白々と輝かせた。まだだよ。お姉ちゃん。これからなんだよ。私の想いが月の光に反応して、お姉ちゃんの身体に流れ込んだみたいに握っていたお姉ちゃんの指先がトクンと波打った。
青空に小さな白い雲が散りばめられている。太陽の煌々とした光はこの街全体を照らしていた。お姉ちゃんの横に座りぼんやりとお姉ちゃんの顔を眺めている。窓から流れてくる風には青い匂いが付着しており、それが私の鼻をくすぐった。そしてその風がお姉ちゃんの肌をそっと撫でる。
「お姉ちゃん。今日は晴れてるよ。何だか気持ちいいね」
「そう…だ…ね」
酸素マスクの奥から聞こえる微かな声。でも私の耳にはちゃんと届いているお姉ちゃんの声だ。だけど聞き慣れたはずの声がまるで別人の声に聞こえる。私の意識はそんなはずがないと拒絶してくれるが一時的な認識は勘違いをしてしまうのだ。
「ねぇ?お姉ちゃん。私ね、里奈と仲直りをしたんだよ」
「そう…」
以前みたいに会話続かない。それでもお姉ちゃんとの会話が成立していることに私は少しでも嬉しくなった。悲しくなんかない。決して。
お姉ちゃんの左手を優しく両手で握る。そして、擦りながら「お姉ちゃん」と何度も小さく呟いた。
お姉ちゃん。私は信じてるよ。また二人でお姉ちゃんの料理で食卓を囲むの。二人で笑いながらまた「美味しいね」って言いたいな。叶うかな?お姉ちゃん。叶うよね?お姉ちゃん。
私は自問自答するように心の中で何度も呟いた。そうでもしなければネガティブな方向に考えてしまいそうだったから。私は変わった?お姉ちゃん。ふふ、あまり変わってないかな。でもね、今はこんなんだけど少しずつでも変われたらいいな。変わってほしい。変わりたい。だから私はもう一人の私と決別したんだから。私も少しは前向きに自分を進められている。お姉ちゃんも頑張って。私の変わっていく姿、成長する姿を今後も見てほしいんだよ。だって私のたったひとりの家族だから。お姉ちゃん。大好き。
*
病院からの連絡で私は掛け布団を跳ね除け勢いよく家を飛び出した。格好は寝巻きで人様に見せられる様な姿ではないけど今はそんな事どうでもよかった。乱れていく呼吸と髪の毛。時折、鼻をつく汗の匂いと夜の匂い。漆黒の闇夜が走る私を永遠の暗闇へと誘導しているようにも感じた。それを遮るように黄色と白が入り交じったような明かりが私の目の前の暗闇を照らし、私は思わず手を上げた。私の目の前で止まるそれは私の焦燥感の全てを納得したように無言でその扉を開いた。私は飛び乗ると行先の病院名を告げた。無我夢中だったため今頃になって気づいたけど知らぬ間に大通りに来ていたらしく私は幸運にも一台のタクシーを拾えた。病院に着くと私は少し多めのお金を運転手のおじさんに手渡し、釣りはいらないと言い捨て勢いよく車を降りて駆け出した。千切れそうになる足に鞭を打ちながら走り続けるとお姉ちゃんの病室が見えてきた。何人もの看護師が出入りを繰り返し、その緊張感が私の足を強制的に止めさせた。
嘘だよね?お姉ちゃん。だって約束したじゃん。一緒に帰るって。
恐る恐る歩を進め、中を覗くとそこには目を疑う光景が広がっていた。担当医師の相楽医師が脂汗を浮かべながら必死によく分からない機械と薬を操っている。暫くして、部屋中にピー、ピーと甲高い音が鳴り響いた。
「先生!心拍数が低下しています!」
看護師の一人がやや大きな声をあげる。相楽医師はより一層慌ただしく処置に取り掛かっていく。私はただ呆然と徐々に低くなっていく心拍数の数字を見ていた。お姉ちゃんの顔に視線を移すと何やら口をパクパクさせているのがわかった。私は急いで近づき耳をお姉ちゃんの顔に近づけた。
「あ…か…り」
私の名前。私の名前だった。
「何?お姉ちゃん」
「あり…が…とう」
お姉ちゃんは右の腕をゆっくり上げ私を抱きしめた。力はない。あるのは温かさ。何度も感じたお姉ちゃんの温もりだった。
その時だった。ピーピーと先程とは違う音が部屋中に鳴り響いた。いつの間にかお姉ちゃんの腕は力なく落ちている。見ると目からは小さな水滴が滴っていた。何かが駆け寄ってくる足音が聞こえたかと思うと部屋の目の前でそれは止まった。ただ一言「うそ」という言葉を添えながら。その先程までと違う音はお姉ちゃんの全ての機能が一斉に止まった音だった。信じられない現実に予想外の大きさの声量で「七海!」という声が私の鼓膜に妙に残った。「七海」、お姉ちゃんの名前。そのお姉ちゃんが今…。私の傍らでお姉ちゃんに抱きつきながら泣く百合さん。私はこの光景を冷静な目で見ていた。だけど時間が経つ事に突き刺さってくる現実。私は百合さんの泣き声に漸く何が起こったのか気づいた。そっか。お姉ちゃんは死んじゃったのか。私の目は無意識のうちに潤いを増し、一瞬でその頬を濡らしていた。
相楽医師が「2時20分。ご臨終です」と事務的な言葉を述べた。しかし、そのすぐ後に「非常に残念です」とお悔やみの言葉を続けて述べた。その顔は険しく眉間の皺にもその悔しさが滲み出ていた。
「お姉ちゃん。ねぇ、起きて?お姉ちゃん!起きて!」
身体を揺すってもピクリともしない。もう返事すらしないのだ。笑うこともなく、もう目を開けることもない。ただの抜け殻となってしまった身体に私は懸命に声をかけ続けた。何度も何度もお姉ちゃんと呼び続けた。返事なんて返ってこない。そして、わんわんと大声でだらしなくはしたなく泣き続けた。静寂の闇夜に悲痛な叫びが響き渡った。お姉ちゃん。ありがとうを伝えたいのは私の方だよ。お願いだよ。お姉ちゃん。返ってきて。ねぇ。返事をして。お姉ちゃん。絶対に叶わない願いに絶望の鐘が鳴り響いた。
次回に続く
予定タイトル
「遺書~サヨナラの意味~」
お楽しみに




