病魔との闘い
あなたの大切な人が病に冒されたらあなたならどうしたいですか?
「あなたのお姉さんは癌です」
この一言に私の目の前は暗くなった。望洋とした暗闇が急に押し寄せるとものすごい勢いで私の身体を引いていく。そして、底の見えない荒波に飲まれ、やがては溺れていった。徐々に沈んでいく私。手を伸ばしても水面から射し込む光は遥か遠く、掴めるのは吐いた気泡だけだった。冷たい風が私の心を突き抜け診察室には瞬く間にピリリとした緊張が走った。
「膵臓に悪性の腫瘍が見られます。しかも、かなり進行していてもう末期に近いです。膵臓の癌は発見が遅れるケースが多く、手遅れの場合も少なくありません。ただ、お姉さんの場合、何も治療できないかと言うとそういうわけではなく、抗がん剤治療など今はまだ様々な治療が施せます。なので我々はそれを中心とした治療を行っていこうと考えています」
医師は淡々とこう告げた。私は馬耳東風というようにその話の内容が全く入ってこなかった。理解が遠く及ばない。耳が、脳があまりにも無情な現実の受諾を拒んでいる。廊下がいつもよりも長く感じる。病室の電気を付けると何ら変わらないいつも通りの白いベッドが無表情で私を迎え入れる。私は枕に顔を埋めた。そして考えた。お姉ちゃんが癌?私は気づかなかった。癌ってごく当たり前に聞く病気だけどいざ自分の身内になってみると実感が湧かなかった。治るよね?きっと。私の心の黒い影は不安の色を覗かせていた。
翌日になってお姉ちゃんが集中治療室から戻ってきた。何でも腫瘍を全て摘出出来なかったらしい。残りの細かい腫瘍は抗がん剤治療になるだろうと医師から説明された。私は恐る恐るお姉ちゃんの病室を訪ねた。お姉ちゃんは外を眺めていた。てっきり寝ているだろうと思ってきたから緊張が一気に私の表情を強ばらせた。
「あっ朱里」
お姉ちゃんの病院服は流石に似合わなかった。どんな服を着ても似合うお姉ちゃんがこの服だけはどうしても似合ってなかった。
「病院服なんて着たの何年ぶりかな~。どう?似合う?」
お姉ちゃんはブカブカの袖口を持って無邪気に聞いてきた。たぶん、これもお姉ちゃんの優しさなんだと思う。
「うん。似合ってるよ」
「ふふふ。でも病院服が似合うってあまり嬉しくないけどね」
そうやってお姉ちゃんはクスクスと笑った。私は口元だけを微笑ませる。
「二人して病人だね。しばらくはお家に帰れないなー」
「私が退院したらお姉ちゃんの着替えとか持ってきてあげるよ」
「ありがとね。朱里」
「あのさ、お姉ちゃん」
「ん?」
私は確かめずにはいられなかった。いや確かめたかった。無意識とはいえ私がしてしまったことには変わりがないから。記憶のない事実の許しを私は今から乞うのだ。
「怒ってる?二人を傷つけたこと」
お姉ちゃんは少し驚いたような表情をした後に凄く優しい顔になった。安堵が口から出そうになる。
「ううん。怒ってないよ。でも百合には後で謝っておくんだよ?」
「うん。…うん、ごめんね…お姉ちゃん」
私はどこまでいっても泣き虫だ。そして本当は甘えん坊なのかもしれない。この人に出会うまでそんなことわかりもしなかった。本当にお姉ちゃんという存在は偉大だった。私はお姉ちゃんの足を覆う掛け布団に顔を埋めて泣いた。そんな私にお姉ちゃんは頭を撫でてくれた。私は思ってしまった。本当にこの人が癌患者なのかな?って。
*
私はものの数日で退院が出来た。ただ、錠薬と食事管理はあと数日続けなければならないけど。私は家に戻った。鍵は不用心だけど開いている。扉の隙間から臆病風が吹き始める。中は散らかったままあの日の惨劇を写し出していた。私がやったんだ。ひっそりとした室内はいつも以上に暗かった。電気が付いてないのもあるけどそれとは別に今日の曇天が太陽を隠してしまっているからだとも思う。私は寝室でお姉ちゃんの着替えをカバンに詰めて即ささと部屋を出てしまった。長居はしたくなかった。あの日の記憶がないのにも関わらずその事実のみで私自身を蝕んでいくように感じられたから。
病院の受付で面会の用件を述べてからお姉ちゃんのいる部屋へと急いだ。部屋に行くとお姉ちゃんは本を読んでいた。窓は開いているらしくカーテンがヒラヒラと入ってくる風に揺られている。
「お姉ちゃん」
私は静かに名前を呼んだ。そう、姉の私を見る目はいつも優しい。下がる目尻に上がる口角。見慣れた笑顔だ。
「朱里?どうしたの?」
「着替え持ってきたよ」
「ありがとう。ほら、こっちにおいで」
私はお姉ちゃんの近くに寄ると持ってきた着替えを整理した。お姉ちゃんの腕には前の私みたいに細長い管が通っている。点滴の細い注射針のような針の先から一定の間隔で垂れていく液体がまるで余命を表しているようにも感じられた。
「朱里」
「うん?」
お姉ちゃんの顔は先程までの優しい表情とは違い真剣な眼差しを私に向けてきた。私は背筋を少し伸ばした。
「お医者さんから聞いたかもしれないけど私の病気の治療はもの凄く大変らしいの。会えない日も増えてくると思う。でも、会える日はいつでもいらっしゃい。私はここで待ってるから。そして、いつか一緒にお家に帰ろうね」
「お姉ちゃん。右手の小指出して」
「小指?」
「いいから」
私もお姉ちゃんに真剣な眼差しを返した。お姉ちゃんはすぅと徐に右手の小指を私に差し出した。
「約束。絶対ね」
重なり合ったお姉ちゃんの右手の小指と私の左手の小指。私達はこの日、初めての約束をした。二人だけの特別な約束を。お姉ちゃんが嬉しそうに首を縦に振った。
「うん。わかった。約束ね。私、頑張るから」
「うん」
そうして私達は微笑みあった。小さく感じる小指への鼓動が今だけは大きく感じた。お姉ちゃんの命が大きくなるみたいに。私はその指を切った。破っても針千本なんて飲まなくていい。ただね、お姉ちゃん。私は……。
病室を出る時、お姉ちゃんは笑っていたけどどこか寂しそうな仮面もその下に付けていた。私も寂しいけど我が儘も言ってられなかった。お姉ちゃんの決心を無駄にさないために。私は振り向きもせず細く暗い廊下を早歩きした。
エレベーターを降りて受付の待合所に向かっていると前から見覚えのある女性が私の方に緊張の色を漂わせながら歩いてきた。私と目が合うなり少したじろいでからじっと私の方を見つめてくる。私も緊張してないかというとそれは嘘になってしまう。私だって後悔と懺悔の念が汗と一緒にその毛穴から滲み出てくる。
気がつくと私達二人は待合所の片隅のベンチに腰を下ろしていた。この沈黙が一生続いてしまうのではないかと思えてしまうくらい空間はやけに意地悪なものだった。言葉を発せさせない圧迫感。私達の上唇と下唇が頑なに離れようとせず互いに惹かれあってしまっている。通り過ぎる人々は今ここに私達がいるという事実を無視して無関心の態度を顕にしている。まるで世界に私達が存在していないみたいに爪弾きにされている気分だ。
「ねぇ?朱里ちゃん?」
百合さんが重たい口を開いた。ただ目は合わせようとせず俯いたままだ。
「何ですか?」
「私のこと、怒ってる?理由があったとはいえ殴ってしまったこと。あの時はごめんなさい」
「え?」
思わず百合さんの方を見てしまった。本来、逆に謝らなければならない立場のはずなのにどうして百合さんが謝らなければならないのか?どうしても私にはわからなかった。
「どうして…?」
「え?」
今度は百合さんが聞き返してくる。
「どうして…百合さんが謝るんですか?」
百合さんはもう私から目を離したりはしなかった。何かを決心したように私の方をじっと見つめている。
「朱里ちゃんを止めるために私、朱里ちゃんの頭を本で殴ってしまったの。その場を沈めるためとはいえ朱里ちゃんの事を傷つけてしまった。どうしてもその事を謝りたかったの。ごめんなさい」
「そんな!謝るのは私の方です!」
再度謝罪の言葉を述べた百合さんに自然と声が大きくなってしまった。反論ではない。百合さんは何も悪くない。寧ろお姉ちゃんの事を助けた命の恩人なのだ。
「私、あの日の記憶が曖昧なんです。意識がハッキリした時にはお姉ちゃんも百合さんも傷ついていた。私が暴れてしまったんだと精神科医との治療の中で徐々に思い出してきたような気がします。お姉ちゃんの首の痣を見た時、背筋が凍ったんです。自分がしてしまったことに絶句してしまったんです。だから、私を止めてくれてありがとうございました。そして、ごめんなさい」
私は深々と頭を下げた。百合さんが謝る道理なんて微塵もなかった。どんな手段を使ったとはいえ、止めてくれたことには感謝しかなかったからだ。そして、傷つけてしまった罪悪感は私の心を一瞬にして蝕んだ。だから百合さんにはこうやって丁寧に謝る他その心を救う術はなかったのだ。
「顔を上げて。朱里ちゃん」
私はゆっくりと顔を上げた。やっぱり百合さんは真っ直ぐ私を見つめている。その目は怒気に満ちてはおらず、むしろ優しさを内包したようなそんな目だった。
「私ね、七海にあなたのことを相談されていたの」
「私の?」
「ええ。たまにあなたのことがわからなくなる時があるって」
知らなかった。お姉ちゃんが私の事で悩んでいたなんて。しかも、それを相談していたなんて。
そしてまた、暗く冷たい血液が私の心臓から全身へじんわりと広がっていく。
「私も一回会っただけだったから正直、朱里ちゃんのことは何もわからなかった。七海から過去を説明された訳でもないから人間像が浮かびづらかったの。でもね…」
お姉ちゃんは私の過去を他人には言ってなかった。それだけで安堵ともに罪悪感が私の心の中で大きくなる。でも今は百合さんのその後の言葉に救われたような気がする。
「でもね、一つだけわかったことがあるの」
「わかったこと?」
「うん」
百合さんはその優しい口調のまま穏やかに続ける。周りの音がすぅっと消えていく。
「朱里ちゃんは優しい子なんだって」
「え?」
私は驚いた。百合さんをマジマジと見てしまう。一瞬、百合さんの言葉以外受け付けないようになった私の鼓膜がその言葉の発声とともに激震した。
「私が優しい?」
この答えの疑問を投げかけないではいられなかった。もしかしたら勘違いということもあるから。
「うん。だって七海に対しては勿論だけど私に対してだって心配というか…うーん。なんだろう。謝ってくれたじゃない?もし人を殺めることを何とも思わないサイコパスみたいな人だったら罪悪感も生まれないと思うの。でも、朱里ちゃんは謝ってくれた。頭まで下げてくれた。だから、本当は心の優しい子なんだって思ったの。本当は同じことを七海にも思ってたんじゃない?」
大人はみんな超能力者みたいだ。私の心なんて手に取るようにわかっているのかもしれない。お姉ちゃんも百合さんも大人って本当に凄いんだなあって思う。私にもなれる?そんな大人に。
「お姉ちゃんにさっき謝ってきたんです。百合さんにも謝りたかったので今日はお会いできて本当に嬉しかったです」
百合さんは優しい声で「そっか」と言って前を向いた。続けて百合さんが「七海のところに行くね。今日はありがとう」と言い残して廊下の奥に消えていった。空間は耳栓を外したみたいに周りの音を私の鼓膜へと届けてきた。何も聞いてないというように周りは少し騒がしかった。受付の女性が事務的に患者の名前を呼んでいる。私は席を立って呼ばれる名前と返事の間をすり抜けなが ら出口の自動ドアへと向った。自動ドアが執事のように畏まって開く。私は外の空気を思いっきり吸った。そして今頃になって気づいた。既に空は晴れてたんだって。
*
その日、私は癌である事を告げられた。膵臓は背中の方にあり、あらゆる他の臓器に隠れているため発見が遅れることがあるそうだ。幸い私は発見の手遅れということはなかったけど腫瘍が点々としているらしく全摘出は困難らしかった。そもそも膵臓癌は男性に多く、それも私のような年齢でなるのはごく希な話で医者も驚いていた。手術は成功したものの最初に言った通り、全摘出は無理だった。残った腫瘍は今後抗がん剤治療で消滅させていくと説明を受け、私はとある個室に通された。ベッドに横になりながら腕に繋がれた管を見た。
「私、本当に癌になっちゃったんだ」
湧かない実感に思わずため息が出た。突然のことすぎて落胆すらしない。窓から差し込む月明かりが私の白い肌を照らした。
「たぶん、大丈夫だよね」
私はそう自分に言い聞かせるしかなかった。
暫くして朱里が退院した。入院中はお互い管を腕に通しながら姉妹で入院なんてと笑って過ごしていた。朱里が退院した後、抗がん剤治療も始まり私も本格的な治療に入る。あらゆる検査をしたと思うがあまり医学に詳しくない私はそれが何のための検査なのか大体のことしか理解出来なかった。
入院を始めて1週間くらいたった時、百合が見舞いに来た。花を片手にもって笑顔で私の方に手を振る。花瓶に花を添えるとその花が嬉嬉として私を見つめてくる。水と太陽光という養分を貰ってその短き命を一心に輝かせていたのだ。
「体調はどう?」
「問題ないよ。今は凄くいいかな」
「そう。それならよかった」
百合はベッドの隣に置いてある椅子に腰をかけた。そして横になったままの私を優しい目で見つめてくる。直感だけど何か言いたそうな顔をしている。
「あのさ、さっき下で朱里ちゃんに会ったよ」
やっぱり朱里のことだったんだ。百合は特別表情を変えない。
「朱里、さっきまでここにいたからね。あの子、毎日お見舞いに来てるのよ。私はいいっていってるんだけどね~」
「朱里ちゃんだって心配なんだよ」
「そう…なのかな」
私には自身がなかった。本当に朱里が心配しているのか。偽善だと疑ってしまう自分に私は嫌気を通り越して姉失格とさえ思った。
「朱里ちゃんに謝られたよ。私が本で殴ってしまったことを謝ったら凄い勢いで謝られた。傷つけてしまってごめんなさいって。七海と私を傷つけてしまったことを朱里ちゃんは凄く後悔してた。ねぇ、七海。朱里ちゃんを責めないであげてね?あの子は優しい子だよ。そして心があまりにも純白だよ。だから七海。今度朱里ちゃんが来たら、その時はギュッと抱きしめてあげてね」
百合は最後に冗談交じりなことを言ったけど、目や口調は真剣さそのものだったので私はその事を実行しようと心の中で密かに誓った。暫くいろんな話をした後に、百合はそろそろ帰るねと言って席を立った。扉の持ち手に手をかけ扉を半分開けた時、百合がこちらを向いた。
「七海。あまり自分を責めちゃダメだよ」
そう言ってニッコリと笑うとそのまま病室を出ていった。百合はわかっていたのかもしれない。朱里の心中も、私の心中も。やっぱり百合は私の親友なんだと改めて思った。
抗がん剤治療を始めて暫く経った。気分が悪くその日は寝付けなかった。無意識に髪を搔くと大量の毛が抜け落ちていた。私は思わず息を飲んだ。そして、呼吸が苦しくなり肺がより多くの酸素を求め始めた。私から冷静さが抜けていく。悲鳴を上げそうだったけど声にならない声が出るばかりで私はパニックに陥った。その時、無意識に緊急の呼び出しボタンを押していたらしく直ぐに一人のナースが駆け付けた。
「小鳥遊さん?大丈夫ですか?」
私は涙に濡れたボロボロの顔と視線をナースに向けながら荒い呼吸の隙間から「髪が、髪が」とか細い声を出し震えていたらしい。ナースは必死に「落ち着いてください」という言葉を連呼していたが私はその事をあまり覚えていない。気づいた時には抜け落ちた髪が散乱しており、私に残ったのは喪失感だけだった。
次の日、朱里がニット帽を買ってきてくれた。朱里は似合うよと私を励ましてくれたがたぶん朱里も本当は泣きそうなくらい悲しかったんじゃないかな?何でそう思うか。それは女の勘である。何の根拠もないただ無駄な自信だけが内在しただけのよく聞く女性のみ有効な強弁である。それから私にはニット帽という強い味方ができた。髪が無いのには変わらないけど朱里が持ってきてくれたこれは髪よりも何倍もの価値があるって思えた。その夜から吐き気が酷くなった。何回も洗面台とベッドを往復した。栄養とともに生気が抜けていくようだった。それから私はベッドから起き上がることさえ億劫に感じた。朱里や百合が来た時も以前は起き上がって会話をしていたけど今は横になったままで背もたれを上げて会話するようになった。私にとってはこれが唯一の楽しみだった。二人の会話はそれぞれジャンルが違ったけれど逆にそれが私を飽きさせなかった。似たような話でもない。二極性を持った会話たちが私の心を踊らせた。そういえば百合の結婚式の日時が決まったらしい。百合は申し訳なさそうな顔をしていたけど赤の他人である私の都合で式を遅らせるのはさすがにこちらも申し訳ないし何より女性が人生で最も輝く時を逃して欲しくなかった。百合には幸せになって欲しいし、ベッドから出られない私はその報告だけでも胸がいっぱいになった。人の幸せで満腹感を味わったのは初めてだった。普段食べ物でしか満たされない人間の満腹中枢だけどこういう満たし方もあるならこっちの方がいいなあと思った。結婚式までには癌を治していたいなあ。百合は「頑張ろう、七海」と言ってくれた。親友との約束もできた。これで私の約束は二つ。叶えられるかな?いや叶えたい。朱里。百合。私頑張るから。絶対治してみせるから。私は強く固い決意を自分の中で宣誓した。
*
日に日にお姉ちゃんは弱っていく。以前とは比べ物にならないくらいに痩せてしまった。抗がん剤治療の副作用で髪が抜けて嘔吐を繰り返すようになった。その度に背中を摩って落ち着かせようと私も必死になった。苦しそうな姉を傍らでしか見ることのできない自分に幾度となく腹を立てて絶望した。
今日も病室を訪れる。お姉ちゃんはベッドの上で目を閉じて寝ているようだった。私のあげたニット帽は少しお姉ちゃんには大きかったかもしれない。目の上の方まで深く被っている。私は窓を少し開けた。フワッと涼しいそよ風がお姉ちゃんの体を洗ってくれる。そのまま癌も洗ってくれたらいいのにと私はつまらない期待をしてしまう。ベッドの横の小さな椅子に座る。椅子がきぃーと何かを悲しむようにそっと鳴る。私はお姉ちゃんの顔を眺めた。赤かった唇は今はその白い肌と同化してひっそりと影を薄めている。すると、お姉ちゃんが徐に重たい瞼を上げた。そしてゆっくりと私の方に首を動かす。
「朱里。来てたんだ」
お姉ちゃんはか細い声でそう言うと懸命の力を振り絞って起き上がろうとする。
「お姉ちゃん。無理しないで。横になったままでいいから」
「そう?ごめんね」
それとお姉ちゃんは謝ることが多くなった。私に迷惑がかかっていると思い込んでいるらしい。しかし、私はちっともそんな事を思ったこともないし寧ろもっと頼って欲しかった。たった1人の家族なんだから。私にはお姉ちゃんしかいないようにお姉ちゃんにとっての家族も私しかいないのだから。二人で支え合わないと恐らく私たち二人は現段階では生きていけない。
お姉ちゃんの手をそっと握る。指の一本いっぽんが細くなり、今にもポキリと折れてしまいそうだった。袖から伸びる青白い腕も骨と皮だけでそこからは人間の本来の生気を感じられなかった。
「朱里?」
「うん?」
「学校は楽しい?」
「うん。楽しいよ」
「そう。それならよかった」
お姉ちゃんは弱々しくにんまりした。痩けた頬が上がり目は殆ど開かれぬまま目尻が下がっている。そして、私は小さな嘘をついてしまった。本当は楽しくなんかない。いつも一人だし、何よりまだ里奈と仲直りができていない。私の横を通り過ぎる里奈はいつも申し訳なさそうに下を向きながら足早に立ち去ってしまう。でもこの嘘はお姉ちゃんを安心させるための嘘だ。決して相手を傷つける悪い嘘では無いはずだ。私はそう心に言い聞かせるしかなかった。お姉ちゃんは目を閉じて再び眠った。部屋全体の白さが無機質な表情を浮かべている。私は「じゃあ、またね」と声をかけ病室の重い扉を引いた。何だかいつもより重い。思わず扉の持ち手を離してしまった。ひとりでに閉まるドアの隙間から眠るお姉ちゃんを見てしまった。数歩だけ歩く。涙腺は言うことなんて聞いてくれない。お姉ちゃんの前では見せられないな。私は自らの手で口と鼻を覆った。込み上げる嗚咽に、止まらぬ涙。これが悲しさであり悔しさなんだって知れた。
次回に続く
予定タイトル
「別れ」
お楽しみに!




