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空白の明日に  作者: 赤羽樹
7/11

真実

再び壊れてしまう朱里に戸惑いを隠せない七海。そして不幸は連鎖する。

ねぇ?お姉ちゃん。知ってる?私ね、本当に人を殺してしまったの。お姉ちゃんにもそういえば言ってなかったよね。でもね本当に殺したのが私かどうかはちょっと曖昧なんだ。少なからず私の意思もあの時は混在していて、朦朧とした意識の中にハッキリ自分がいたの。はは、何言ってるかわからないか。

ああ、まだ思い出せるな~。刃物がね?スルって入っちゃうの。人間って意外と柔らかいんだね?もう11年も前の話なのに私の脳には鮮明にあの日の記憶が刻まれてるんだよ。

勢いよく血が吹き出して一面が赤く染まったの。血が流れるのって凄くあっという間なんだね。私驚いちゃった。気づいたら自分の手も真っ赤になっててね?もうあれは悲鳴もんだったよ。まぁ私の場合、気絶しちゃったんだけどね。

私はね?お姉ちゃんの大切だった人を殺したの。だからね、お姉ちゃん。私を許さなくていいよ。絶対、許しちゃダメだよ。お姉ちゃんだけは私を許しちゃダメなの。逮捕する?ううん。何なら復讐のために殺してくれても構わない。

だってたった一人の妹だもの。たった一人の家族だもの。お姉ちゃんの好きにしていいよ。

お願い。お姉ちゃん。私を、止めて。

あれから何分たったのかはわからない。ただハッキリとわかっているのは未だに朱里の両手が私の首に巻きついているということ。そして力は依然変わらないまま私は必死にその手を振り払おうとしていることだった。

「朱里…やめ…て。離し…て」

弱々しく細くなった声は最早朱里の耳にすら届いてはいないようだった。私は無我夢中だった。どうにかしてこの状況を打破しないことには私の命運が尽きてしまう。私は己の本能に任せようかと思ったけれどそれはかなり恐ろしくもあった。この23年間で形成されてきた思考回路には枝分かれした寄り道が存在していた。しかし、普段からよく使われる寄り道とは違い、踏み入れたら最後戻っては来れない可能性も十分に高かった。私はこのまま死んでしまってもいいと思った。それは私が人殺しだから。正しく言うと人殺しの娘だから。私の両親は私がまだ12の頃に人を殺してしまったの。でもそれは故意によるものではなく偶然が偶然を呼んでしまった不運な事故だった。対向車線を走っていた一台のトラックが信号付近で突然有り得ない方向に曲がってきた。その時交差点に入ろうとした普通乗用車は正面衝突を避けるためハンドルを左に切った。そこで横断歩道を渡っていた親子3人を撥ねてしまい撥ねた普通乗用車は近くの電柱に激突。前側部分がぺしゃんこの状態で発見された。トラックはというと同じく電柱に激突しており電柱が倒れ、周辺の地域では一部停電が発生したらしい。トラックを運転していた50代の男性は心臓発作により既に意識を失っておりそれが今回の事故に繋がってしまった。普通乗用車を運転していた父親と見られる30代の男性は衝突の勢いで外に投げ出されたものの飛び散った破片が腹部に刺さっており出血多量で死亡が確認されている。助手席に乗っていた母親と思われる30代女性は前側部分と座席に挟まれ圧迫死していた。横断歩道を歩いていた20代の夫婦もその場で即死だったらしい。三者全てにとって事故だったそれは当時、地元の新聞や全国放送されているニュース番組なんかでも取りあげられるほど不運かつ陰惨で残酷な事故だった。ただ不幸中の幸いだったのはそこに生存者がいた事だ。誰もが絶望し、生存者の確率など皆無に等しいと思われていた中での奇跡的な生還だった。しかし、この時の2人に事故の記憶は存在していない。消滅してしまったのだ。それは事故の悲惨さによるものからくるショックであり、後に2人は無意識のうちに車を怖がるようになったという。今でいうとPTSD(心的外傷後ストレス障害)にあたるらしい。当時にもハッキリした病名が告げられていたのかもしれないが無論、2人の記憶の中にはなかった。1人は1年間、もう1人は2年間病院での精神的治療を受けたみたいだがそれでも症状が回復したのは何年も経ってからである。そのうち1人は今現在18を超えてはいるが運転免許を取得していない。どこかで忘れてはいてもトラウマというものはしつこいもので一瞬でも脳裏に蘇ると忽ちその心を暗くしてしまった。

生存者は当時いずれも子どもだった。小学六年生の女子児童に六歳の少女だった。1人は車の中で発見され、もう1人は30代の男性の側で倒れていたところを発見された。2人とも息があり、直ぐに救急車で近くの病院に搬送された。驚くべきことにあれだけ衝撃的な事故であったにも関わらず、1人は右脚の骨折とやや重症、もう1人は頭へのかすり傷とほぼ軽傷で済んでいた。世間やメディアは再び奇跡だと謳っていたのだ。しかし、その時だけは注目してくれても所詮は赤の他人で、その後の彼女らがどうなろうと知ったことではなかった。多くの応援メッセージが送られてきてもそれは彼彼女等の自己満足で貰い手が見つかったり、1人でも生きていけるまでに回復するとその後のことは自分次第だと言わんばかりに突き放されてしまう。本当に大変なのはこれからだからねと言って。イジメられようが虐待されようが世間は社会に孤立した人間をそういつまでも構ってはくれないのだ。そんなのは当たり前だ。当たり前だと頭の中ではわかっていてもどこか絶望してしまう自分がいてそのやり場に困った心を抱えながら今日も傷ついていくのだ。傷ついて壊れた先に待つ世間の判決は残忍酷薄なものだった。弱い自分がいけない。負ける自分がいけない。改善しようと努力しない自分がいけない。迫り来る否定の波に幾度となく溺れた。そんな私達は当に限界を超えてしまったため絶望も挫折もしなくなっていた。それが日常であり、救いの手などもはや非日常化していた。だから漸くここでツケが回ってきたのかもしれない。自分でどうにかしようとしなかった自分に。恐怖に負けて一歩踏み出せなかった自分に。やり方を間違えて妹を傷つけた自分に。今この救いの手がかからない状況こそが自分への戒めなのかもしれない。朱里?私を殺したい?あなたの幸せを奪った私を殺したい?私は掴んでいた朱里の手を離した。ダランと垂れる腕。その腕にはもはや生きるための意識が微塵も感じられなかった。いいよ。朱里。私は目を閉じた。

ピーンポーン。その時だった。部屋のインターホンが諦念と殺意が混沌とした空間に矢を射した。私は閉じていた目をパッと開いた。そして耳を疑った。扉の向こうから聞こえてきた声が先程まで聞いていた声だったからだ。

「七海ー?いるー?」

私は本心でそう言ったのかはわからない。でも確かに私の口から出た言葉だった。

「助けて!」

私はたった四文字を出来る限り大声で叫んだ。

「え?七海?どうしたの?ごめん。開けるよ?」

扉を開けて彼女はリビングに入ってきた。そして驚愕し絶句しただろう。何せ妹が姉を殺そうとしているのだから。

「ち、ちょっと七海!」

頭では追いつかなかったのだろう。百合は思いっ切り朱里に体当たりをした。その衝撃で朱里の手が私の首から離れた。

「ゲホッゲホッゲホ」

咳き込んでいる私に息付く暇など与えず朱里が百合に襲いかかっていた。もはや殺す相手が誰でもいいという様に無差別的なものだった。朱里の瞳は酷く死んでいる。どす黒くなった眼は盲目的になっているのだろうと思えた。私は苦しむ百合の顔を見てゾッとした。身体と言葉が勝手に動いてしまう。

「ダメー!」

私は朱里を押し倒していた。そしてまたパチンと朱里の頬を殴ってしまった。

「朱里やめて!お願い!目を覚まして!」

私は必死だった。何度も朱里の名前を呼んではやめてと繰り返した。百合はただ怯えるように呆然としていた。自分自身に何が起こったのか未だに理解出来ていないような感じだった。

朱里は尚も私を襲ってくる。私は必死に抵抗しながら朱里が目を覚ましてくれるように何度も何度も朱里の名前を呼んだ。狂気と殺気のみを植え付けられた操り人形のように朱里は暴れている。事態が急変したのは百合の思いがけない行動だった。朱里が倒れていく。息を切らし目を開ききった百合の手には分厚い本が握られていた。見覚えのある本だった。確か、百合に貸した外国の…。

「ハァ…ハァ…私…私」

そう言う百合の手は小刻みに震えていた。そして力が抜けたようにペタンと床に座り込んでしまった。

「うぅ…」

その時だった。私の目の前に倒れている少女が目を覚ました。私はドキッとしたがその目を見て少し胸を撫で下ろした。大丈夫。元の朱里だ。

「あれ?お姉…ちゃん?私?」

朱里は頭を押さえながら辺りをゆっくりとキョロキョロした。脱力感に囚われている百合を見て怪訝そうな顔をした。

「何で百合さんがいるの?それに…」

朱里は私の方に視線を移した。そして驚愕の色を顔に滲ませた。

「お姉ちゃん。その首の痣…何?」

朱里の声が僅かに震える。全てを悟ってしまったように朱里は独り言のように呟く。

「私なの?」

私は答えることが出来なかった。朱里は百合にも視線を移すが百合は何の反応も示さない。

「ねぇ?答えて?本当に私がやったの?」

朱里の声は明らかに震えている。私は真実を告げる。

「そうだよ。私にも百合にも襲いかかったんだよ」

朱里は最早声を発することが出来なかった。口をパクパクさせ声にならない声を発しているようでもあった。百合を一瞥した後に私の方をもう一度見た。

「嘘だよね?」

嘘であったらどんなに良かっただろう。私は首を横に振った。

「あは、はは、へへ…」

朱里がガラガラという音を立てて崩れていく音がした。

朱里は何故か不自然に笑い自分の手を見つめている。まるで自分に呆れてしまったように人を傷つけてしまったその手を見つめている。そしてそれを耳元までに寄せ、カタカタと震えている。

「い、いや。いやぁぁぁぁ!」

朱里はあまりのショックに奇声を発した。目からは大量の涙が流れ自分自身を戒めているような甲高い声だった。自分でも現実を受け止められなかったのだろう。そう思わせるように思いもよらないことが起きたのだ。

「ゴフッ」

ボタボタと滴り落ちる赤くドロっとした液体。紛れもなく目の前の少女の口から吐き出されている。そのまま少女はその場に倒れ込んだ。

「朱里?朱里!」

私は直ぐに朱里の名前を叫んだ。しかし、応答はなく既に意識が無いように思われた。

「百合!百合!」

傍で見ていた百合もこの事態には流石に敏感に反応した。

「百合!救急車を呼んで!早く!」

「う、うん。わかった」

百合は鞄から慌てて携帯電話を取り出し電話をかけてくれた。

私は必死だった。吐血し、倒れ込んだ妹の無事を一心に祈りながら私は彼女の名前を何度も呼び続けた。

静寂の闇夜に似つかわしくないサイレンの音が鳴り響き、私の妹は依然意識が戻っていない。応急処置が取られているが私はただ傍観していることしか叶わなかった。病院に着いて集中治療室の手術中の文字が赤く点灯し私は漸く脱力した。変に力が入っていたのかもしれない。傍に百合が座った。百合も同じく救急車に飛び乗っていたのだ。百合も私も何も言わない。薄暗がりに伸びる廊下が私の気を遠くさせる。どれくらい待っただろうか。パッと赤いランプが消え中から一台のベッドが運ばれてきた。そのベッドの上で横になっている少女は目を閉じたままだった。

「手術は無事成功です。ストレス性胃潰瘍で胃に穴が空いて血が止まらなくなっていたので穴を塞いでおきました」

「ありがとうございます」

出頭医が事務的な対応で憂いの渦中にいる私達に接した。しかし、そうであっても二人とも成功と聞けば安堵を感じずにはいられなかった。胸に手を当てると笑みが零れそうになった。

「ただ…」

しかしながら次に発せられた医師の言葉は私の一瞬の安堵を掻き消した。再び心に得体の知れない影が落ちる。笑みは自然とどこかへその姿を消した。

「少しお話したいことがあります。あなたは…?」

「姉です」

「お姉さん。別室にご案内します。どうぞ。こちらへ」

私は百合の方を見た。やはり不安そうな表情をしている。無理もないか。一回は上げて落とされたんだ。そうなるに決まっている。

「百合待ってる?」

私は穏やかに聞いた。そうすることが何故か正解に思えたから。百合は何も言わず真っ直ぐ私を見たまま縦に首を一回振った。私は微笑みを浮かべながら「そっか」と言い軽く手を振った。

案内された部屋は全体的に真っ白のはずなのだが薄暗がりの光のせいでやや灰色に見えた。夜間は節電中と貼り紙がしてあったので煌々と明かりを付けるわけにはいかないのだろう。

「お掛け下さい」

医師が椅子に座るように催促しながらゆっくりと向かいの椅子に腰を降ろした。私はそれを見てから「ありがとうございます」と一礼して椅子に座った。医師のネームプレートには相楽(さがら)と書いてあった。掻き上げた髪には清潔感がありそんな容姿に似つかわしくない冷たい目をした男性だった。まだ若そうだがそれは医者としてという話でそれでも30後半くらいに見えた。以前テレビで見た特別な医師たちは定年退職間近という年齢層だったからか少し意外だと思ってしまった。

「話っていうのは言うまでもなく妹さんについてです。少し気になる点がありまして…」

そう言って相楽医師は苦い顔をした。言いづらそうなのが私まで伝わってくるようだった。

「お姉さん。単刀直入に聞きますけど、妹さんの左腕を見たことはありますか?」

大方予想はしていたけどいざ聞かれると心で何か蟲のようなものがザワつくのがわかった。

「いいえ。実は見たことがないんです。あの子私にも見せたがらなかったから」

相楽医師は唸るようにして黙った。そして小さく一言「そうですか」と呟いて両手を顔の前で組み合わせ両肘を机上に付いた。少しの沈黙が空間を支配していく。上澄みとして溜まっていた淀んだ空気がどっと塵芥のように私達の頭に重たくのしかかった。

「左腕に…」

私は吐き出すように呟いた。しかし、相楽医師の目は見れなかった。俯き加減のまま私はそのまま続けた。

「左腕に何かあったんですか?」

「うーーん…」

やはり相楽医師は言いづらそうに苦い顔をしたままだった。そして少し考えた後、白衣のポケットの中から4枚の写真を取り出し机の上に並べた。いずれも腕が写っており同一人物の腕をあらゆる角度から写したような写真だった。

「これって…」

私は思わず言葉を失った。これを絶句というのだと思った。朱里が虐待を受けていたのは知っている。けれどここまで壮絶たるものなのかと思わず息を飲んでしまった。点々とした火傷の跡に無数のリスカの跡が生々しく残っていた。リスカだけではなくもっと大きく別の刃物で傷つけたような腕全体への大きな切り傷もあった。これが朱里の左腕?ある程度は予想していた。リスカの跡なんじゃないかって。でも私の想像など遥かに凌駕するほどの傷跡が包帯の下には隠れていた。自傷行為にしては不自然な傷跡が多く目立った。リスカが最も目立つのはわかるのだがそれ以外の傷の不自然さに私は違和感を感じぜずにはいられなかった。

「ええー妹さん…朱里さんの左腕にはこのような切り傷や火傷の他にも打撲痕と見られる痣のようなものまで見つかっています。お姉さん。何か心当たりはありませんか?」

私は写真を見ながら空いた口を手で覆っていた。呆気に取られていた私に相楽医師はもう一度尋ねてきた。

「お姉さん。本当にないんですか?」

私は口を手で覆ったまま視線を相楽医師に移した。相楽医師の目はずっとこちらを向いていたらしい。私は警察に取調室で尋問をされているような気分だった。同時に向けられた冷たい視線が私のこれまでを裁いていくように感ぜざるを得なかった。私は実に愚か者だった。

「朱里は私と出会う前に親戚夫婦から虐待を受けていたと聞いたことがあります」

「出会う前?」

「あっ私と朱里は血が繋がっていないんです。6年前に施設で出会って。私の就職を機に朱里を妹として引き取ったんです」

「なるほど。そうでしたか」

相楽医師はチラっと関係のない下の方を見ると何かを納得したように小刻みに首を縦に振った。そうして視線だけが私へと戻る。

「朱里さんの傷は外見上だけでなく、精神に及んでいる可能性もあります。私の知り合いの医師に精神科医の者がいるのでそちらに紹介の連絡をしておきます。それで…朱里さんは以前にもカウンセリング等の治療を受けたことは?」

「あります。施設長がカウンセラーだったのでそれで少しずつ治療していました。でも最近になって何が引金になってしまったのかまた症状が出始めて…」

「もしかしてあなたの首の痣も?」

「あっ…ええ。その、朱里が暴れてしまって」

「うーん」

相楽医師はまた唸りをあげながら腕組をした。私はどこか見透かされているこの瞳から何故か目を離すことが出来なかった。

「朱里には…」

相楽医師は視線をこちらに向けた。私の口が勝手に動いてしまう。

「朱里には…もう一つ人格があると思うんです」

「もう一つの人格?」

「はい。目が違うんです。それから口調も。外見は変わらない。なのに雰囲気がガラッと変わってしまう。操られた傀儡みたいなんですよ」

「操り人形ですか…」

相楽医師は興味津々と手の平で口元を拭うような動作をした後、そのまま顎に手を当て身を少し乗り出した。

「ええ。内部から誰かに操られているような感じがするんです」

「そう…ですか」

相楽医師の表情は険しかった。専門ではないからかもしれないが未知の領域に対して理解が追いついていないようだった。

「とりあえず専門のやつに聞いた方が早いですねえ。今お話されたことを伝えておきますので。あっ紹介状書きますね」

そういって相楽医師は席を立った。そうして渡された紹介状には「相楽治(さがらおさむ)」と署名されていた。まさに医者のために生れたような名前だなと緊張していた口元が少し緩んだ。

待合所のベンチに不安そうな顔をした百合が座っている。私の足音で気づいたらしく何も言わずその場に立った。

「どう…だった?」

「ん?朱里こと。精神科医にも相談してもらえることになったから胃潰瘍の治療と合わせてだね」

「精神科?」

百合は怪訝そうな顔で聞いてくる。不安の色はやはりきえていない。

「うん。朱里が暴れ出す前にね、似たようにおかしくなって倒れたこともあったの。それを話したら精神科を案内されてね。それで紹介状を書いてもらったの」

「そう…なんだ」

腑に落ちない顔をしていたけど百合には左腕のことを話さないでおいた。朱里のこともあるけど、百合がさらに不安な気持ちにさせてしまうと思った。百合は不安に思ってしまうと抜け出せない悪い癖があった。それで気を病んでしまっては私も心が痛いので敢えて言わないでおいた。それに、どうやら朱里を殴ってしまったことを自戒しているようにも見えた。でもあれは仕方がないよと言ってやりたかった。

「朱里はこのまま入院だし、送っていくよ」

「うん。ありがとう」

私はそのままタクシーを拾って百合を見送った。駅まで送ると言ったけど百合に断られてしまった。私は「今日はごめんね」というメールを打って、朱里の眠る病室へと向かった。

その日は珍しく晴天で、周りの木々や草花もより嬉嬉としてその命を輝かせていた。あの時も思っていたけど施設までの階段は上るには少々しんどいものがあった。運動不足かな。少し息が切れる。施設のドアを開けると施設長が丁度よく出迎えてくれた。施設長は微笑んで不思議なことを言った。

「必ずもう一度来るんじゃないかって思ってた」

私の虚をつかれたという顔に施設長は何故か微笑み返した。

「上がって上がって。中でゆっくり話しましょう?」

言われるがまま、私は応接室に通された。昔はコッソリ入って遊んでいた部屋。あの時は広く感じたけど今はあまり大きくも感じなかった。寧ろ狭いくらいだ。高校生になってからは入らなかったから実に7年ぶりだけど感覚的にも変わってしまっているんだなあと感じた。出されたお茶からは申し訳なさそうに湯気が出ていた。私は一言お礼を言った。

「ごめんなさいね。今コーヒーが切れちゃってて」

「いえ、お構いなく」

施設長が一口お茶を飲む。私もそれを見てお茶を啜った。

「朱里ちゃんのことよね?」

私は思わず目を見開いた。そして施設長の顔をマジマジと見てしまった。施設長はこちらの反応が当然であるように思っているのか淡々と言葉を発していく。

「朱里ちゃんの精神病は恐らく未だに治ってないんでしょ?そりゃあ少しは良くなったと思うけどここへ来たってことはまた再発したか、それともまた別の問題が生じてきて朱里ちゃんの過去が知りたくなったかの二択よね?それとも両方かな?」

私はこの人には恐らく一生涯を賭けても勝てないんだろうな。人間の動物的本能は案外、自然界と同じで弱肉強食に出来ているのかもしれない。この人には全てを見透かされている。私は少し笑いたくもなった。でもそれはやめた。笑って話せるような話じゃないからだ。私は簡潔に話し出す。

「結論から言えば両方です。また再発したんですけどそこで気になることが出てきて」

「もう一つの人格が現れたとか?」

私の話を遮るように施設長が再び驚愕的なことを言ってきた。この人にはどこまで見えているんだろう。私は少し恐ろしくなった。私の心に蠢く蟲たちがその動きをより活発化させた。

「ええ。そうなんです」

私は震えそうになる声を必死に抑えた。私は事の顛末を話して聞かせた。そして、朱里が入院していることも。そうなった事実全てを。施設長はまたお茶を一口飲んだ。そしてふぅとため息をついてから再び話し始める。

「朱里ちゃんの別人格に気づいたのはちょうど出会って間もない頃だった」

私は目をそらしてはいけないと思った。耳と目を一心に相手に傾ける。

「朱里ちゃんは今以上に情緒が不安定でいつもは暗いけど時に嬉嬉として明るくなる時があったの。それでいて凄くお喋りでね。私はビックリしちゃった。誰もいないのに誰かと会話しているようだったの。その時に言っていたことに私、絶句したのを覚えているわ。恐ろしくて。こういう人間が本当にいるんだって思ったの」

施設長が話した朱里についてはこういう事だった。朱里は11年前の事故である犯罪を犯している可能性があったということ。朱里は自分の親を引いてしまい慌てて車から脱出した父親らしき人を刺し殺したのではないかと。証拠は二つ。一つは朱里の手が血で真っ赤に染まっていたこととそのすぐ近くで父親らしき人が倒れていたこと。もう一つは朱里の指紋が凶器となった車の破片から検出されたということ。ただ、当時の警察はこれを不運な事故と処理している。警察は少女が親の仇討として刺殺したのではないかと判断したらしいのだが6歳の少女にそれも事故の直後にそんな事が可能なのかという見解と腹部に凶器が刺さったまま俯せの状態で倒れていたということから事実は事故として黙認されてしまったのだ。

話は数分前、私が事故の真相を聞いている。

「あなたに事故の真相は教えたわよね?あれはもう不運としか言いようがないわねえ。でもね、あの事故のことでまだあなたに言ってないことがあるの」

「言ってないこと?」

息を呑む。もう言いたい事がわかってしまった。施設長はこうやって事故の真相を語り始めたのだ。

「あなたのお父さんが死んだのは事故じゃないの。あなたの親が朱里ちゃんの両親を轢き殺してしまい、朱里ちゃんが助かったはずのあたなの父親を殺してしまったの」

施設長はこともなげに事実のみを告げていく。しかし、ここでわからないのはどうして朱里が私の父親を殺してしまったのかということだった。

「それでね?私なりに朱里ちゃんの深層心理の仮説を立ててみたの。朱里ちゃんの左腕のことはもう知ってる?」

私は何も言わずに頷く。そうだ。施設長は事実を述べ終えた後、こうやって自らの仮説を語り始めたんだ。

「そう。それでね、虐待はてっきり親戚夫婦から受けていたと思っていたんだけどそもそも本当の両親から受けていたんじゃないかと思うの。現に親戚夫婦にお話を聞いた時、包帯は家に来た頃からしてるって言っていたらしいからもしかしてと思ってね。それでここからが心理学的な考え方なんだけど朱里ちゃんは虐待という者が日常であり存在意義になっていたと思うの。それを奪ってしまったあなたの親を許せなかったんだと思う。これはサイコパスの心理状態に似ていて朱里ちゃんは実際そうだったのかもしれない。そして元々臆病な子だったのにそんな大胆な犯行が出来た。それはもう一つの人格が生まれたから。より気の強い。そんな人格が。臆病な自分を変えたかった朱里ちゃんはそんな自分を変えるためにもう1人の自分を作ってしまった。どう?辻褄は凄く合うと思うんだけど」

私は何も言えなかった。それが十分に有り得るからだ。しかも、ほぼ確実に的を射てるんじゃないかとさえ思えた。

事故の真相を全て聞いて数分の沈黙が続く。その時、私はふと朱里の左腕の写真を思い出した。私はこみ上げてきそうな何かをやっとの力で抑え、御手洗に立った。個室に嗚咽が響き渡る。そして息が荒くなるのを感じる。今日は幸いにも施設に誰もいなかった。小さい個室に反響する自分の声は汚く宙に舞っていく。灰色の天井にそれは押しつぶされやがて黒い雨として私に降りかかる。濡髪に立ち尽くす私。俯瞰した私はそんなふうに見えた。朱里がサイコパス?しかも人格が生まれたのは殺人を犯した時?私の頭は迷走した。何もわからなかった。嘘であれば良かった。いやまだ真実ではない可能性はあるのだが私は施設長の仮説を鵜呑みにした。それほどまでに信じられる話だったからだ。

トイレから戻った私を見て施設長は心配そうに尋ねる。

「あら?七海?あなた少し顔色が悪いんじゃない?大丈夫?」

「ええ。少し寝不足なだけです」

「そう?体調管理はしっかりね?」

「はい」

施設長は語りかけるように私に心配の声を向けた。また、私は黙ってしまう。でも、これだけは何故か口から零れ落ちた。

「私、朱里こと守っていけるんですかね?」

施設長は優しい目を向けてきた。

「私、不安なんです。このまま朱里を見守ってやれるのか」

私は震えそうな声を抑えた。気を保っていないとどうしてもいろんなものが溢れてきてしまいそうだった。

「七海」

私は俯いていた顔を上げた。その声色は優しかった。

「七海があの子を信じなかったら誰があの子のことを一番に信じてくれるの?」

「…」

「あの子はたぶん暗闇の中で自分が見えなくなってる。救えるのはあなたなんじゃないかな?」

「どうしたら…」

「あの子の傍にいてあげなさい。それが一番よ」

私は正直、自分がどうしたいのかわからなかった。わからないけど朱里のそばを離れたくはないなとも思った。

帰り玄関口で一礼したあとおじゃましましたと一言付け加えた。顔を上げるとやっぱり施設長の笑顔は柔らかい。こちらも安心しきってしまう。私が踵を返して立ち去ろうとすると後ろから名前を呼ばれた。

「七海?」

声のする方に首だけ振り向く。施設長の笑顔が優しく煌めいている。

「朱里ちゃんをよろしくね」

それは私に対する施設長からのささやかなエールだったのかもしれない。私はニッと笑ってはいと昔のように元気に答えた。

太陽は少しの雲がかかり、その存在を潜めようとしている。心地よく冷風が吹き抜けると私の身体が軽くなったように感じた。私は朱里のいる病院への足取りを少し早めた。

朱里は病室にはいなかった。受付の看護師さんに聞くとどうやらカウンセリングの治療にいっているらしかった。私は仕方なく病室で待つことにした。朱里のいる病室は特別にも個室を用意してもらっていた。胃潰瘍に加え、精神疾患の疑いが出れば当然の対応と言えたがそれでもこんな立派な個室を用意してもらえるとは正直思っていなかった。本当に運がいい。

本を読んで待っていると暫くして朱里が点滴の管を付けたままひょっこりと顔を出した。病院服がブカブカという不一致さで恥ずかしそうにしている。私は本を閉じて笑顔で手を振ったが朱里は少し俯き加減で何も言わずベッドに近くまで来た。そうしてゆっくり体を台の上に乗せると布団を顔の近くまで被った。私の方には向いてくれない。多分だけど朱里はショックだったんじゃないかなって思う。私が朱里に隠れて生活風景を詮索してしまったこと。そして、もう一つが私を傷つけてしまったこと。信じられなかったんだと思う。自分の行動が殺人的衝動に侵されてしまったことが。ただ、今冷静になって考えてみると私のした行動が裏切り行為だったんじゃないかって思えてしまう。朱里のことを信じてやれなかった。どうして秘密事にしてしまったんだろうか。私は後悔と自責の念に押しつぶされそうになった。ベッドの横に誰が飾ったのかわからない名前の知らない花が力なく項垂れている。朱里は未だにこちらを向かない。私は今日は恐らくダメだろうと思い席を立った。椅子が悲しげにカランと鳴る。私は「また…来るね」と弱々しく言った。朱里は軋むベッドの音で返事をした。扉を開けた時だった。軽い眩暈がして思わず扉にもたれ掛かった。扉が嫌そうにガタンと音を立てる。その音に驚いたのか朱里が「お姉ちゃん?」と小さく呟いたように聞こえ「大丈夫」と返した時にフッと目の前に暗闇が広がるのを感じた。体に力が入らない。崩れ落ちる私に向かってお姉ちゃんという大声が聞こえた気がしたけど私の脳と鼓膜がそれを理解したかどうかは正直ハッキリしない。唯一わかったのは私の身体に異変が起こったことだけだった。

次回に続く

予定タイトル

「病魔との闘い」

お楽しみに。

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