告白
それぞれの告白。
それにより事態が動き出す。
その日は百合が珍しく食事に誘ってきた。朱里には予め今日は会社の同僚と夕食を食べてくるからと伝えてある。朱里だってもう高校生だ。夕食ぐらい一人で任せてみようと思い、百合の誘いを承諾した。友達と食べてきてもいいからねと言う私の頭には里奈ちゃんの顔が浮かんでいた。家を出た後、「今日、朱里と夕食を食べてきてほしいの」とメールで打っておいた。里奈ちゃんからの返信は早く「わかりました」とだけ記されてあった。
私達は会社が終わるとオシャレなお店ではなく大衆居酒屋の暖簾を潜っていた。中は常連と思われる客でガヤガヤとしており、おばあちゃんの家を連想させるような何ともノスタルジックな造りの雰囲気だった。私達は奥のテーブル席へと案内され、生ビールを2つ注文した。頼んで間もなくおしぼりとお通し、それから生ビールが運ばれてきた。私達は乾杯をした後互いに一口ビールを煽った。
「七海とこうして飲みに来るのって初めてだよね」
「確かにそうだね」
そう。意外にも私は会社の同僚と食事に来るのはこれが初めてだった。
「だって七海誘っても朱里ちゃんのことがあるからっていつも断っちゃうんだもん」
「それは…」
「でも、そこがいいお姉ちゃんだよね。私は朱里ちゃんが羨ましいよ」
百合は私の目を真っ直ぐ見てそう言った。口元は微笑んでおり優しい表情は相も変わらずだった。
「それで百合?私を誘った理由って何?」
「いきなり本題?もう少し世間話しようよ~?」
私は急ぎすぎてしまったのか。まぁあまり酔わないうちには聞き出したいなと思った。
「朱里ちゃん元気にしてる?」
百合はビールを一口飲んでからそう呟いた。
「うん。今のところは元気にしてるよ。退院してからも目立った症状は出てないし、いつもどおり学校にも通えてる」
「そっか」
症状というのは精神疾患のことだ。今は目立ったことは起きていない。今は。
百合は朱里が精神疾患者だったことも入院していたことも知っている。朱里の過去の全てを知っている訳では無いけど、百合は詳しいことは何も聞かずいつも真摯になって私の相談に乗ってくれるのだ。
「そういえばさ…」
私の口は勝手に動いていた。たぶん、百合ならいいって思ってしまったんだ。
「百合には言ってなかったけど朱里のことで気になることがあるの」
「気になること?」
百合はビールジョッキを静かに置くと興味を示したかのように顔を近づけてきた。
「うん。実はね…」
私は朱里とのエピソードを全て話した。これは一人で考えてもどうしようもないと思ったからだ。
「それで今ので全部なんだけど、私が思うに朱里にはもう1人、別の人格が宿っている気がするの」
「それって……二重人格ってこと?」
百合は恐る恐るそう答えた。周りが私達の一空間だけを静寂させる。
「そう。まだ医師の診断があった訳じゃないから断定することは出来ないけど…」
「もしそれが本当なら少し厄介だね」
「私もそう思う」
少し私達は黙った。百合は一口ビールを飲むとどこに視点を置いていいのかわからないのだろう、やや下目線に机の脇を眺めている。
「とりあえず、何か頼もう。私達まだビールしか頼んでないよ?」
「そうだね」
「すみませーん」
店員を呼ぶと百合は二、三品の料理を頼んだ。私は優柔不断なのでこういう時は凄く助かる。
「ねぇ、七海が首に包帯を巻いてきた時ってその…朱里ちゃんに首を締められたから?」
百合は小声でヒソヒソと言い出した。確かに周りに聞こえるほど大声で話せる内容でもないのでこういった配慮はさすが百合と言ったところか。
「うん…そうだよ。あの時は何が起きたかわからなかった。でも人間の本能ってやつなのかな?私は必死にその手をほどこうとしたんだ。人間は相手に殺されそうになったら生きたいって思っちゃうんだね。初めての感情だったよ」
店内が私達の声を掻き消す様にガヤガヤとざわめき出していた。私の口から出ているクレイジーも他の人が聞いたら驚愕のさらに上をいった何とも言えない歪んだ顔をするのだろうなと思った。そうした顔を一切せず優しい微笑みを浮かべている百合は本当に唯一無二の存在だ。私の心にへばりついた粘着性を持った黒い塊も一気に洗い流されていくようだった。
「そういえば今日朱里ちゃんは?」
百合が気づいたように聞いてきた。
「朱里には予め連絡したから今は友達とご飯にでも行ったんじゃないかな?」
「へぇ~朱里ちゃんに友達ね~」
その時、頼んでいた料理が運ばれてきた。百合は笑顔で受け取ると店員さんにお礼を言っていた。本当に天使のような優しい笑顔に聖母のような全てを包み込んでしまう雰囲気を兼ね備えた人だなと改めて思った。
料理を一口食べると百合は本当に美味しかったのだろう、「おいし~」と言いながら幸せそうに満面の笑みを浮かべていた。
私も一口食べるとなるほど、確かに美味しい。
「あの人見知りだった朱里ちゃんに友達ね~。何だか私、ホッとした」
そう言って百合はクスクスと笑った。
朱里は一度、百合に会ったことがある。それは単なる偶然だったけど朱里は私の後ろに隠れてチラチラと百合の顔を窺うばかりだった。百合から話しかけても私の顔を必ず一瞥してからじゃないと反応出来なかった。
そんな朱里にも里奈ちゃんという友達が出来ていた。これには姉である私も本当に安堵の意を隠せなかった。
「そうだね~私もホッとしてるよ」
考えていたことをそのままに述べた。そしてまた二人でクスクスと笑った。
「ねぇ百合?」
「ん?」
百合はまた料理をつついている。余程美味しいらしい。
「そろそろ本題を言ってもいいんじゃない?」
百合の箸を持つ手の動きが止まった。視線は明らかに料理ではあるけど。そしてゆっくり箸を置き、私の方をじっと見た。
「私、会社辞めようと思うの」
それは何の違和感もなく彼女の口から飛び出した。突然の告白に私はただ呆然とするしかなかった。
「前々から言おうと思ってたんだけどね。何だか言い出すタイミングが無くて。だから今日、自分の気持ちに踏ん切りを付けるためにも七海を誘ったの。こういう大事な事は真っ先に七海に伝えようと思ってからさ。なのに中々言い出せなくてごめんね」
百合は淡々と喋る。その瞳はこんな時でも優しい。
「なん…で?」
私は喉に突っかかったものを吐き出すように言葉を発した。それほどまでに私には不思議なことがあった。
「私ね。結婚するの。親の紹介で知り合った人だったけど妙に馬が合ってね。それでこの間、プロポーズを受けて快くそれを受け入れた。今時、お見合いって珍しいけどね」
百合はまたクスクスと笑う。でもその笑いに不思議と嫌悪感は感じなかった。それが深川百合の魅力でもある。本来なら自慢話と受け取られても、僻まれてもおかしくない話を全く嫌味っぽく言わない。まるで世間話でもするように、百合は相手の心に幸福感を与える。でも私が言った「なんで」はそこじゃない。
「いやそうじゃくて…なんで…一番に私に?」
「なんでってそりゃあそうでしょ」
百合は当たり前のように言う。
「いやいや、他にもいるでしょ?親とかそれこそ、旦那さんに」
自分で言っていて思った。百合には私なんかよりも大切な人達がたくさんいる。よりにもよって何故私だったのか。それはすぐ百合の言葉で解決した。
「あなたが私の親友だからよ」
私は目を見開いた。百合が私のことをそう思っていただなんてちっとも知らなかった。友達だとは思っていた。でもいつからか私が百合の中で特別化していただなんて全く考えもしていなかった。だって根拠がないから。
「私ね。親が社長だったからそれでいろんな所でお嬢様扱いをされてきたの。でも私はそれが嫌いだった。出来る友達もみんなお金目的だったり、コネ目当てだったり。見ているのは私じゃなくて親とお金だった。大人もそうだった。自分の名誉とか株とかを上げるために近づいてきた。正直、ウンザリしてたんだよね。少しでも親から離れたくて四年制の有名大学を受験して合格して、やっとこれで自分でも自立した気になってた。そう。なってただけ。学費は親持ちだし、何よりバイトをさせてもらえなかった。理由は何となくわかるかな?そう。悪い輩が寄り付かないためだったんだよね。一回バイトしてるのがバレて引っぱたかれたのを思い出すよ。あれは痛かったな~。だからね、私に話しかけてくれる人はいてもみんな上辺だけの関係になってたんだ。大学で会ったら喋る程度。私はその現状がたまらなく悔しかった。悔しかったから勉強を一生懸命頑張った。経営学専攻だったからそれをマスターして一人でも生きていけることを証明したかった。それなのに親とは違う会社に入社したとはいえ結婚相手も結局は親の紹介。本当、絶句しちゃったよ」
百合の表情はどこか寂しげだった。淡々と述べられる過去が私の脳内でありありと想像出来てしまう。でもまだ私が特別化した理由が見えてこない。
「彼を紹介されたのは本当に就職が決まった矢先だった。親からは就職先を猛反対されたけど私は絶対に嫌だったからそこは食い下がった。親は渋々承諾してくれたけど、会社内では既に私の情報がポツポツと広まっててああまた昔となんも変わらないんだろうなって思ってた。そこに七海が現れた」
ここで漸く私の名前が出てきた。百合は尚も続ける。
「七海だけは違った。言葉に誠意がこもってる人を私は初めて見たよ。それに一番は私に朱里ちゃんのことを言ってくれた事かな。相談に乗るってこういうことなのかって思った。気持ちを共有して、一緒に苦しくなったり嬉しくなったり、私が今まで体験してこなかったことを七海が与えてくれた。それに七海は一度も私の親のことを聞いてこなかった。本当は知ってたんでしょ?やっぱりね~。でも七海は聞こうとしなかったよね。それで私を色んなことに誘ってくれた。ランチに休憩に、あっそうそう!買い物も行ったね。嬉しかったな~。それと七海はちゃんと注意もしてくれるんだよね。仕事仲間なら当然なんだけど今までそんな人いなかったからさ。みんな私の顔色ばかり窺ってさ。でも七海は本当に分け隔てなく普通に接してくれた。その普通が嬉しかった。私はずっと普通を求めてたんだ」
百合は一通り話すと店員を呼んでレモンサワーを頼んだ。話っぱなしで喉が乾いたのだろう。
「だから七海は私にとって大切な人なの。それで今回の報告も一番最初に伝えたかったんだ」
ここまで言われると流石に照れくさいものがあった。どうしていいのか正直わからなくなる。
話の区切りを付けるように店員がレモンサワーを運んできた。百合はお礼を言って受け取ると一口それを飲んだ。
「私は…そんな出来た人間じゃないよ。百合のことも最初はいいとこのお嬢さまだって知ったときどう接していいかわからなかったし…だから最初は仕事仲間として接したんだ。それがすごくよかったのかもね。出来ないことを教えあったり頼みあったり、注意し合ったり、時には一緒に喜んだり。それがいつしか秘密を共有する仲になってた。百合との時間が当たり前になって、私はその当たり前が好きになってた。すごく心の拠り所としてた。だから私にとっても百合は親友だよ」
話し終えて百合の方を見ると百合は嬉しそうに目を細めていた。その瞳はキラキラと光って見えた。
「ありがとう七海。私、今死んでもきっと後悔しないわ」
「ちょっとちょっと、今から幸せになる人が何言ってんの?」
「あはは」
そうしてお互い声を出して笑った。いつぶりだろうもうほとんど記憶にないな。こうして声を出して笑ったのは。
私達の笑声に同調して周りがさらに活気づいた。まるで彼女の結婚と幸せを願う様だった。
「寿退社した後はやっぱり専業主婦?」
「うん。そうかな。まぁ結局、親の会社を手伝うことになるかもしれないけど」
「そっか」
私はそう言って微笑んだ。百合もそれに合わせて微笑んだ。私達は秘密を共有している親友。親友っていうのは喜怒哀楽を全て表現し合える仲のことを言うんじゃないかな。今の私と百合を俯瞰してたら何となくそんな気がしてきた。
「さてと、そろそろ出よっか!」
「うん。そうだね」
私達はビールとレモンサワーだけで2時間も話していた。料理だって二、三品。本当に百合とのお喋りは時間を忘れてしまう。私達はお会計を済ませると暖簾を再度上げた。夜風が私達の体をすり抜けていく。少し寒いかな。そう思っていると隣で百合が身震いした。
「少し寒いね~」
そう言って百合は笑顔を浮かべる。
「そうだね」
私は少しの嬉しさをその微笑みで返した。
「駅まで歩こっか」
「うん」
そうして私達は駅までの夜道に足を一歩、また一歩と踏み出した。居酒屋が多く並ぶこの道はこれからが本番だとばかりに活気に溢れている。ガヤガヤとした声にチカチカとした灯り。この街は夜に目覚めるのかなと思えるほどだった。
駅に着くと駅は返ってひっそりとしていた。薄暗い雰囲気にさっきまでの活気を教えこみたいと思うほどだった。
「じゃあ私はこっちのホームだから」
百合は自分のホームを指差しながら別れを告げた。
「それじゃ」と私も百合に別れを告げ、踵を返した。すると反対側から百合の声がした。
「七海!」
私は首だけを振り返らせた。
「今日はありがとう!ずっと私の親友でいてね!」
百合は照れくさいことを事も無げに言う。それが正直であり、嬉しくもある。
「うん!」
私は首の向きを戻すと右手を上げてサヨナラを告げた。
電車の中は何だか生暖かい。でも私の心はハッキリと温かかった。まだ私の脳内に映し出される彼女の笑顔。これが幸せか。私とその幸福感を乗せた列車は夜の街へと吸い込まれていった。
*
曇天に冷たい風が私の心を沈ませていた。
学校に付いてもその気持ちが晴れるということは当然の如く無く、私はいつものように席に着いた。
朝、お姉ちゃんに今日は友達とごはん食べてくるからって夕食が久しぶりに一人になってしまった。私は机にどっぷりとしたため息を吐いてから突っ伏した。前から何も無いとこうして寝たフリをする。それが私の空間だけを別空間へと移動させ誰の目にも触れさせないようにする私なりのテクニックだった。だが今はこのテクニックも簡単に破られてしまう。
「ねぇー朱里?」
顔を上げると里奈が私を見下ろしていた。
「おはよう」
私は目の前の相手に軽い朝の挨拶をした。
「おはよう」
里奈からも同様の返事が返ってくる。
「今日さ夕飯一緒に食べに行かない?」
「え?」
あまりにもタイミングが良すぎたことに私は一瞬、懐疑心を抱いたが一人で家で寂しくと負の連想をした途端、そんな疑いもどこかへ消えてしまった。私は快く承諾する。
「うん。いいよ」
「やった!じゃあ放課後また下駄箱で待ってて!」
そう言って里奈は別の友達のところへと行ってしまった。再び私は机に突っ伏した。
やっぱり授業は退屈だ。先生がただベラベラと自分の持論だの教科書に書いてあることをそのまま読み込んだりなどと非常につまらない。どこかにいないだろうか。今すぐ教科書を捨てろと言う先生が。世間一般的に見たら明らかにクレイジー。でも私にとってはそういうクレイジーさを求めていた。しかし、現実にそんなことは起こらない。今、私の目の前で起こってないのだからそういうことだ。
気がつくとあっという間に放課後だった。ぼぉーと外なんかを眺めていたらいつの間にか放課後の時刻となっていた。窓の向こう側で飛び回る鳥達は本当に自由に飛んでいる。私もああなれたら楽だろうな。今私にくっついている現実世界をとっぱらったら私もあれだけ自由に出来るだろうか。
「齋藤さん」
不意に声を掛けられた。見ると見覚えのある顔。え~と。誰だっけ。
「もう掃除の時間だからその…机…」
ああ、思い出した。気弱な学級委員長だ。名前はえ~と…。ごめん。思い出せないや。よく見ると他の列はもう机を運び終えており私の列だけが私のせいで運べず困っていた。
「ごめんなさい。今下げるね」
そう言って私は重たい机と椅子を運んだ。私より前の席だった数人がやっと運べるよとブツブツ言っていたが聞こえないふりをして私は教室の外に出た。
掃除を終えて元に戻った自分の席に着く。すぐに玄関口に行けるように帰れる準備だけはしておく。
先生が業務連絡的なのを言い終わったのと一緒に今日のクラスでの一日が終了した。
私は言われた通り下駄箱で里奈を待っている。そこに何人もの生徒が通り過ぎていく。帰宅部だろうなと思われる数人のギャル。恐らくは恋人同士なのであろう男女。そんな人たちのガヤガヤとした声が私の存在を掻き消しているようだった。全くこの世界はどこまで行っても2パターンしかない。私は言うまでもないけど。
そんなことを考えていると里奈が慌てて私の方に向かってきた。
「ごめーん。待った?」
「ううん。私も今来たところ」
「ならよかった。それじゃいこっか」
「うん」
私達はまだ騒がしい学校の校門を抜けた。
私達はいつもの通学路を並んで歩いている。私達の他には誰もいない。聞こえるのは僅かに吹く風の音だけ。それ以外にはこれといって特別なことは何もない。いつもはお喋りな里奈も何故か黙ったままだ。何やら熱心に携帯の画面を見ているが何をそんなに熱くなることがあるのかと不思議に思った。
「うーん。これといっていいお店がないなー。ねぇ朱里は何が食べたい?」
里奈は独り言のように呟いた。私はあまりに唐突だったので次にねぇ?と言われるまで気付かず無視してしまった。
「何って言われてもなー。別に何でもいいんだよね~」
「何でもいいが一番困るよ~。本当にこれが食べたいっていうのはないの?」
「うーん」
私は悩んでしまった。何より今日は里奈の圧力が凄かった。こんなにグイグイくる里奈は久しぶりに見た。
「じゃあハンバーグ…がいいかな?」
子どもっぽいと思った?それなら盛大に笑ってくれ。
「ハンバーグ?」
「うん。お姉ちゃんがたまに作ってくれるからさ」
「ハンバーグか…あっ!それならいいお店があるよ!付いてきて!」
里奈の顔が晴れたのがわかった。さっきの携帯を見ていた顔を写真にでも撮って見せてあげたいものだ。ほーら。さっきの顔だよって。
「それにしてもさっきは何であんな食い入るように携帯見てたの?」
「それはね?」
里奈は妙にニヤニヤしている。
「朱里が何が好きかわからないから人気のあるお店を探してたんだよー。まあ何はともあれ食べたいものが決まってよかったよかった」
里奈は本当に安心したように言った。私も里奈が私にこんな必死になってくれていただなんてと考えたら急に恥ずかしくなった。先程までの自分に言ってやりたい。アンタのために画面と睨めっこをしてるんだよって。
夕食の前に少し買い物がてら古着屋さんに立ち寄った。私は地味なので良かったんだけど里奈が私に似合うと言って持ってきた服は如何にも「女の子」が着そうな可愛らしいフリフリのワンピースだった。私は軽い相槌だけをして丁重にお断りをしておいた。里奈は残念そうにしていたが私がそんなのを着て鏡の前に立ったものならあまりの不釣り合いの衝撃に絶句してしまうだろう。いや、もしかしたら石になっちゃうかも。なんてね。
時間は午後の6時半を回っていた。お目当てのお店はここからすぐだということで私は里奈の後を付いていった。茶色い木製の看板に「ハンバーグファクトリー」と白字で書かれている。店自体の名前は「森のキッチン」か。なぜだか知らないがこの黄緑の字よりも白字の方が大きいのが謎だが。本来は逆何じゃないのか。あっ私細すぎるか。店内は全て木製で造られており、確かに森の中にいるような感覚だった。私達は奥のテーブル席に通されお水とメニューを渡された。またしても里奈は即決だった。どうも私は優柔不断らしい。しばらくしてから漸く決まった。
「すみませーん」
里奈が大声を発する。本当にすごいな。
「お決まりでしょうか?」
「えっとこのおろしハンバーグのサラダセットを一つと朱里は?」
「あっえっと、このチーズハンバーグのサラダセットで」
「かしこまりました。ライスのサイズはいかがされますか?」
「うーん、じゃあハーフで」
「わ、私もそれで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店員さんはそういってメニューを下げた。向こうの厨房らしき所から私達の頼んだオーダーの名前が呼ばれている。
「それにしてもここ意外とオシャレだね」
里奈が私の方に顔を近づけてきた。
「意外とって言ったら失礼だよ。でも確かに外見からは想像しにくいよね」
私達はクスクスと笑った。里奈は笑った顔が愛くるしく、世の男性陣はこういうのが好みなんだろうなと思わせる笑顔だった。退院直後こそはどこか気まづそうだった里奈も数日も経てばこの通り。まだまだ私達は子どもなのである。今では砕けた会話までできるようになった。
「朱里体はもう大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。里奈もそうだと思ったから誘ったんでしょ?」
「ふふふ。まぁそれだけじゃないけどね」
「え?」
「お待たせいたしました!」
テーブルには熱気と湯気を立たせた美味しそうなハンバーグが置かれた。
「あっ…どうも」
私は何とも間抜けな受け答えをしてしまった。里奈のように愛想笑いくらい出来ればいいのにって思った。
続けてサラダとライスが置かれる。脇役とはいえ、彩の存在感は格別だった。勿論、主役はハンバーグなのだがそれを中和するように影で主役を支えている。私ならそんな影になりたいと思う。
「うわー!美味しそうだね?」
「うん。じゃあ食べよっか」
ハンバーグにフォークとナイフが刺さる。引き抜くとブワッと多量の肉汁が溢れ出した。一口、頬張る。思わず目を見開いた。こんなにハンバーグって美味しかったっけ?
「あっ、また朱里幸せそうな顔してる~」
またそんなわかりやすい表情をしていたんだろうか。里奈にはすぐに気づかれてしまう。
「そんな…顔してた?」
「してたしてた。もう朱里美味しいもの食べるといつもそうだもん」
どうやら私は美味なものに弱いらしい。また一つ弱点が見つかった。でもこれは克服出来そうにないかな。だってしなくてもいいものだから。気がつくとあっという間に皿には何も残っていなかった。私は今食後のコーヒーを啜っている。里奈はコーヒーが苦手なのでオレンジジュースを飲んでいる。
「里奈。私を食事に誘った理由がそれだけじゃないってどういうこと?」
私はずっと心に引っかかっていたものを吐き出した。引っかかりの取れた心臓はその動きを徐々に早めていく。
「んー?何の話ー?」
里奈は惚けているのか本当に見当がついていないのかわからないように答えた。
「だから、さっき私を誘ったのは身体がもう大丈夫だと思ったけどそれだけじゃないって里奈が言ったんでしょ?他にどんな理由があったの?」
「ああ…」
それから里奈はしばらく黙った。異様な沈黙が私達の周りを取り囲んでいる。お店は気を使っているかのように少し静かになったような気がした。聴こえるのはお店の雰囲気にあったジャズの音楽だけだ。里奈はまだ口を開こうとしない。そんなに言いづらい理由なのか?ならどうして口に出した?独り言のつもりで呟いたのだろうけど私の耳にはハッキリと聞こえてしまった。聞こえてしまった疑問符を聞かないわけには行かなかった。例えそれが如何なる理由であろうと。
「それはね…」
里奈が漸く口を開いた。私は固唾を飲んだ。
「それはね、お姉さんに頼まれたの。今日朱里を夕食に誘ってほしいって」
少しは予想していた。やっぱり里奈はお姉ちゃんと繋がっている。しかも、私には内緒で。どうして?お姉ちゃん。
「ねぇ?里奈。これはあくまで私の想像なんだけど聞いてね」
里奈は黙って頷く。その顔にもう笑顔はない。
「私ね。里奈が前以上に私に執着する理由や携帯をいじるようになったのかっていう理由を考えていたの。それでね?ある一つの仮説を作ったの。それは、里奈とお姉ちゃんがお互いの連絡先を交換して私を監視しているっていう仮説。里奈は学校での様子を逐一お姉ちゃんに報告するために前以上に私に近づいた。お姉ちゃんは私がまたおかしくならないか里奈を見張り役にして学校での状況を把握しようとした?違う?あながち的外れじゃないと思うんだけど」
里奈は少し俯き加減のまま黙っている。どうやら私の想像も差程外れてはいないようだった。
「まぁどっちにしろ、お姉ちゃんも里奈も私のことが信用出来なかったってわけだ」
「それは違う!」
それまで黙っていた里奈が急に大声を上げて反駁してきた。
「確かに朱里に隠れてコソコソ連絡取り合ってたことは謝るけどお姉さんもうちも朱里のことをもっと知りたいんだよ?」
「何?開き直り?要するに知りたいなら直接来ればいい話じゃん。どうして2人でコソコソする必要があるの?」
「それは…」
里奈は黙り込んでしまった。でもその顔には何か隠しているようではある。
「それは?何?」
「それは…」
里奈は言いづらそうに口を噤んでいる。これ以上は無意味だな。
「私、帰るね。それじゃ」
「え?待って!」
私はその場の雰囲気が呼吸を止めているとに気がついて今の現状を理解した。里奈は左頬を押さえながら俯き加減でいる。私は自分の右手を見た。その右手は理解力のない彼女への戒めを表したものであり私はその咄嗟に出た右手を褒めてやりたくなった。出ていこうとする私の左腕を彼女はまた掴んだのだ。彼女も「あっ」という顔はしたのだけども以前と違かったのはそれだけじゃなかった。私は掴まれた左腕をゆっくりと見下ろし、続けて里奈の方を睨んだ。私は強くその手を振りほどくとほぼ手加減無しで彼女の左頬を思いっきり引っぱたいた。その音で店内は呼吸を止めてしまったのだ。心臓は辛うじて動いている。呼吸だけが止まったのだ。
「私にコソコソしてバチが当たったのね。この際だから言っとくけどね、私は信用のない友情はいらないの。里奈がそんなことをしてるんじゃないかって疑ってたけどそれは私の想像で嘘であってほしかった。本当にバイトであってほしかった。でも、今日のでハッキリしたわ。あなた。最低ね」
私は淡々と捲し立てるとその店の扉を押した。外は冷え込んでいたが私はちっとも寒くなかった。怒りの矛先を定めて私の吐く息はいつもよりも白く舞い上がった。
*
家に着くとリビングの電気が付いていた。「ただいま」と言って中に入ると案の定、朱里がテーブルの前に座っている。私は鞄を置いて台所でコップに水を注いだ。それを勢いよく飲み干す。
「朱里ー?今日は夕食どうしたの?」
「里奈と食べてきた」
朱里はこちらを見ずに答える。いつもより素っ気ない。
「ねぇーお姉ちゃん?」
「ん?なーにー?」
朱里の質問に少なからず怒気が漂っている。それに今更気づいたが朱里が「おかえり」を言わないのは初めてだ。
「お姉ちゃん。私に隠していることがあるでしょ?」
私はドキッとしたが勿論顔にも態度にも、言葉にも出さない。
「何にもないよー?」
「嘘。私に隠れて里奈とコソコソ連絡取り合ってたでしょ?それも私のことを逐一里奈が報告してたらしいじゃん。薄々、勘づいてはいたけど本当だったなんて」
「待って待って。何の話?」
「まだ惚ける気?里奈にもね、直接聞いたよ。開き直ってたよ?それでまた左腕を掴んだもんだから頭にきて思いっきり引っぱたいてやったよ。お姉ちゃんも私のこと信用出来なかったんだよね?またおかしくなるかもって。だって外でおかしくなられちゃたまらないもんね?だから里奈を利用したんでしょ?学校での様子を聞くために。ねぇ?そうでしょ?」
「朱里。利用したって言い方はないんじゃないの?確かに朱里が倒れた一件を受けて私はあなたのことがますます分からなくなったよ。だから、知ろうとしたの。学校での様子は私の知らない場所。普段どんな生活をしているのか。それを知る術は里奈ちゃんだった。だから私は里奈ちゃんにお願いして他愛ないことでもその日常の断片を教えてもらってた。それで少しでもあなたを知ろうとしたの。だから里奈ちゃんは悪くないし、道具でもない」
「私を知りたいから?そんな理由を信じろっていうの?」
ああ、たぶん今の朱里に何を言っても信じてくれないだろう。朱里は頭に血が上って物事を上手く考えられないでいる。その怒気が周りの空気をもピリつかせ私の肌に突き刺さるようだった。
「今は信じなくてもいい。でも私は真実しか言ってない」
私も後に引く気はなかった。ここで引いては朱里が誰も信用出来なくなってしまうから。
「私を知りたいんだよね?じゃあ教えてあげるよ」
朱里は私にズンズンと近づいてきた。そして私の目の前でこう言い放った。
「私は悪魔だよ?心に拭いきれない闇を持った悪魔だよ?虐待とイジメの末に今ある生に必死にしがみついているだけの哀れな愚か者だよ。お姉ちゃんだって生きるための道具としか思ってないよ。死ぬ事が誰よりも怖い。死んだらそこで何も残らない。私はそうなりたくないの。だから与えられた生にしがみついてる。でもねー私も最初っからこうだった訳じゃないよ?何度も自分の命を諦めようとした。罪の意識から逃れるために。今までの虐待やイジメもその戒めだと思った。だって私は人殺しだから。お姉ちゃんならわかるよね?ねぇ?人殺し?」
私はゾワッとした。その恐怖心を必死に抑えようとして何故か妹を殴っていた。私の平手はジンジンと熱くなり呼吸も荒くなっていた。そこには怒りという感情よりも先に恐怖が私の心を凌駕した。今のは何?人殺し?朱里がどうしてそれを知ってるの?しかも朱里が人殺しってどういうこと?私の逡巡とした思いは私を混乱させた。自分がしたことなのに今この場で何が起きたのか全く理解出来なかった。人が当たり前に息をするように空間も当たり前のように息をした。淡々と物事が目まぐるしい速さで進んでいく。
「ふふ、あははははは」
頬を左頬を押さえたまま朱里は狂ったように笑い始めた。まるで本当に悪魔が残虐な行いをして笑うようにその笑い声は私の耳を破壊していくような声だった。朱里は狂気を纏い、笑い続けている。まるで何かを納得したように。そして何かを諦めたように。
すると朱里は急に静かになった。全身の力が抜けたように椅子にへたりこんでしまった。私は一連の流れに麻痺していた身体を何とか動かして朱里に近づいた。
「朱里?」
呼んでも返事がない。気絶している?もう1度名前を呼んだ。
「朱里?」
「また会ったな」
朱里の首が急に持ち上がり変な声を発したかと思うと私の首に両手を回してきた。
「苦…しい」
「お前と会うのは3回目だな。まぁ今から死ぬんだからそれで終いだけど」
朱里の力とは到底思えない程の強い力で締められたまま、私はこの得体の知れないモノの言う言葉の意味がわからなかった。
段々、目の前が霞み、ぼんやりとした睡魔が襲ってくる。意識が遥か彼方へと行ってしまうようなそんな感覚。私から私が離れていく。朱里。朱里。私は何度も妹の名前を頭の中で叫んだ。私は俯瞰した自分を見てハッとした。こんな時でも朱里のことを考えている。私は得体の知れないモノの攻撃を必死に振り払おうとした。それからが長い夜の始まりだった。
次回に続く
予定タイトル
「真実」
お楽しみに!




