私は…
見えない暗闇に、あなたは迷い落ちる。
私はある秘密を持っている。しかし、この秘密をこの場で暴露したならば確実に朱里の心は元に戻らなくなってしまうと予想している。それは単なる予測とは違いほぼ確実性を帯びた、言わば確信に近いものなのである。
職場に着く頃には空は曇天の衣に着替えていた。先程まで出ていた太陽は少しの光も見せていない。辺りは急に暗くなりひっそりとし始めた。エレベーターを降り自分の席に着くまで逡巡していた思いはその活動を止めようとはしなかった。寧ろその逆で考えれば考えるほど加速していってしまうのだ。私は自らの机に積まれた書類の山を見てふぅと息を吐いた。この所、仕事の量が増え整理しなければならない案件が山積みだった。私は保険関係の企業に就職していた。毎日、あらゆる保険の問い合わせに電話は鳴りっぱなしとどうも忙しない。最近は何かと保険を付けたがる人間が増えたため案件の整理も徹底して行わないといけないのだ。そのため、私の机にこんなにも書類が山積みなっているのはそういうわけなのである。幾ら片付けても無くなることはなく、さすがの激務に腰や尻は悲鳴をあげている。
「ちょっと休憩しにいかない?」
後ろの席の同僚がふと声を掛けてきた。
「そうね。そうしましょっか」
私もそろそろ休憩を挟みたいと考えていたので直ぐにその誘いに応じた。
声を掛けてきた彼女は深川百合という。某有名4大を卒業しているらしく要はお嬢様なのだ。丁度、同期に当たり部署も同じで席も近かったため直ぐに仲良くなった。百合はお嬢様のはずなのだが全く飾る事がなく、それでいて愛嬌がいい。誰でも分け隔てなく接する様子に周りも好印象のようだった。給湯室に入ると彼女は優しい微笑みを浮かべながらいつものようにそっとコーヒーの入った紙コップを渡してくる。
「ありがとう」
私はいつものようにお礼を言うと一口啜った。
「七海、どうしたの?」
百合は優しい笑顔のままこちらを見ずに尋ねてきた。
「どうって?」
「ん?なぁんか何かに迷ってる様な顔してるからさ。少し気になってね」
「そっか…」
そうしてまた私はコーヒーを啜った。一息ついてやっぱりこの人には敵わないなって思ってしまう。
「朱里のことでねぇ。ちょっと…」
「朱里ちゃんがどうかしたの?」
「うんー。朱里自体に問題があるんじゃくなくて私がただある事を話せないでいるだけ」
「ある事?」
百合の質問は至極当然の疑問だった。私は少し考えてから言葉を選ぶように続けた。
「朱里の親が交通事故で亡くなっているのは知ってるよね?」
「ええ。確か…トラックを避けようとした車の巻き添いになったって」
「うん。それでね?私の親も実は交通事故で亡くなっているの」
百合は少し黙っていたが急に目を見開いて何かに気付いたようにこちらを向いてきた。
「七海…まさかそれ…」
私は黙ってしまった。この先は到底喋ることが出来ない。
給湯室はある種の沈黙に包まれる。それは、重く漬物石のようにズシンと肩に乗っかってくるのだ。
「私、怖いんだ。凄く…。どうしようもなく怖いの。朱里が…朱里がまた暗闇に落っこちてしまいそうで」
私は震えそうになる唇をそっと噛んだ。平静を保っていなければどうも発狂してしまいそうだった。それくらいこの事実は残酷かつ悽愴たるものだった。
「七海?」
「ん?」
百合が言葉を発した。
「偉そうなことは言えないけど私は朱里ちゃんと七海の絆は簡単には壊れないと思うんだ。だって七海は朱里ちゃんのために頑張ってきて朱里ちゃんも七海のためにいろいろ頑張ってきたと思うの。お互い意識し合って生きてきたんだからもう少し自信を持っていいと思うよ?そうしたら七海が本当はどうしたいのかが見えてくると思うな」
百合はそういうとまた優しい表情を浮かべた。微笑む口許はやはり愛くるしい。
「ありがとう」
私は一言お礼を述べてからすっかり冷めてしまったコーヒーを再び啜った。
予定通り退社は10時を回っていた。急いで駅に向かうとちょうど良く最寄り方面の電車がホームに着いた。この時間だからか電車の中は閑散としており、人は向こうの方に1人2人いるくらいで後は私だけだった。
シートに座るとどっとした疲れが襲ってきた。その疲れは瞼にも重くのしかかり今にも閉じてしまいそうな程の勢いだった。私は前の窓に反射する私を見つめた。ゆらゆらと揺れ動くその形は感情を持たない人形のようだった。私はいつからこんな醜い大人になったのだろう。そう思いながら帰途についた。
家の扉を開けると中から眩しい明かりが飛んでくる。靴を脱ぎながら「ただいま」と言っても中からは一向に返答がなかった。廊下を進みながら「朱里ー?」と呼ぶと机にはラップに包まれた夕食と寝てしまっている朱里が目に入ってきた。
少し微笑ましくなりそっと朱里を起こした。
「朱里?ただいま」
「ん?お姉ちゃん?」
「うん、そうだよ。ご飯もしかしてまだ?」
「うん、ずっと待ってた」
眠たそうな目を擦りながら妹は姉の帰りを待っていたのだ。
「ご飯朱里が作ったの?」
「そうだよ!」
チラッと朱里の手を見るとなるほど絆創膏が幾つも付いていた。
「頑張ったんだね。でも冷めちゃったからチンしよっか」
「うん!」
温め直してから私と朱里の2人だけの食卓が始まる。新たに湯気を立て息を吹き返した夕食が私達に空腹の汽笛を鳴らさせようとしている。
「いただきます」
「いただきます」
豚肉と野菜の炒め物は疲れきった身体に溶け込んでいくように美味しかった。味噌汁とはまた違う温かさがあった。
「朱里、美味しいよ!上手くできたね」
「こんなの楽勝だよ!」
「ふふ、そっか」
傷だらけの指を見せたまま彼女は誇らしげに言った。満足そうに笑う彼女はとても愛くるしく私の中に漂う暗雲も晴れていくようだった。
「あのさ、朱里…」
「ん?」
夕食を頬張り箸を咥えたまま、朱里は見つめてきた。その目には漆黒の闇屋はなく、純粋無垢とした無邪気さが光っている。
「ううん。何でもない。食べよ?」
「もう食べてるよ~」
そうして私達は笑った。
私は何も言わなかった。いや言えなかった。あの目を見てしまうと、どうしても自分の中に蠢く懐疑を放出できないのだ。あの純白な目の奥に宿る見えない存在。それは恐怖にも似たゾクゾクする感情だった。私の目の前にいる人間は本当に本人なのか。実は虚偽の仮面を被って私を嘲笑しているのではないのだろうか。暗くて冷たい何かに魘されながら私はその日、目を覚ました。窓から眩い斜陽が照り入り、いつも通りの朝を告げている。どっぷりと冷や汗を掻いていたため、まずはシャワーを浴びようとお風呂場へ向った。シャワーに打たれながら私はあれは一体なんだったのだろうかと回顧する。私の目の前にいる1人の少女。それはよく知っている人物だった。しかし、よく知っているはずなのに、顔も身体も同じはずなのに同一人物とはとても思えなかった。目は黒ずんでいて目からは生に対する光が見えない。喜怒哀楽のない能面の様な表情がその冷徹さを物語っていた。私はその得体の知れない者に質問をした。
「あなたは誰?」
「私はー」
ここで私の夢は終わっている。あの人物は一体、何者だったのだろうか。もし、また会えるならその正体をどうしても知りたかった。
シャワーを浴びた後はいつものように朝食を作り始めた。暫くすれば朱里も同時に起きてくることだろう。
しかし、その日は朱里が一向に起きてはこなかった。名前を呼んでも返事がなく、シンとした静寂の音が聞こえるだけだった。私は痺れを切らして寝室の戸を開けた。
「朱里?朝だよ?朱里?あか…」
私は思わず固唾を飲んでしまった。同時に言葉を失った。朱里の表情は苦痛に支配されブツブツと何かを言っている。
「誰?誰なの?」
私は耳を疑った。もしかしたら朱里も私と同じ夢を見ているのかもしれないと思ったからだ。
「朱里!起きて!朱里!」
身体を揺さぶり、思わず大声を上げてしまう。漸くハッとしたように朱里は目を覚ました。そして、キョロキョロと辺りを見回している。首はゆっくりと左右に動き、まるで自分が現実世界に戻ってきたことを確かめているようでもあった。
「お姉…ちゃん?」
「朱里?大丈夫?」
「うん、大丈…」
朱里はそのまま気を失ったように眠ってしまった。冷や汗を浮かべた額に濡れた髪が乱れるようにくっついている。息遣いも少々荒く、この光景は久々に見るものだった。
「朱里…」
私はふと心配の念を込めて妹の名前を零した。徐に携帯を取り電話帳を開いた。
「あっもしもし?小鳥遊です。すみませんが妹が熱を出してしまって、その…。はい、はい。すみませんがよろしくお願いします」
言い終わって耳から電話を話すと急いで別のダイヤルを打った。
「あっもしもし。私、齋藤朱里の姉なんですけど…。はい、大変お世話になっております。その朱里なんですけど急な発熱で…はい。すみませんが学校の方は欠席します。はい、はい、とんでもありません。では、失礼します」
そう言って私は耳に当てた携帯をそっと離した。妹がこんな状態のまま、一人置いて会社になんてとても行ける気がしなかった。朱里のことが気がかりで仕事も手につかないだろうと容易に想像が出来たのでこの日は思い切って有休をとることにした。
朱里は暫く何事も無かったように眠っている。私は傍で小説を読みながら朱里の様子を見守った。時折、額に浮かべる汗をタオルで拭きながら私は静かに眠る妹を見つめて思わずため息をついた。
偶然のシンクロ。しかし、その悪夢は朱里を暗闇へと引きずり混んでいるものなのではないか。出来れば引き剥がしてやりたい所だが今の私ではどうすることも出来ない。
私は朱里の左腕を持ち上げて見つめた。掛け布団に隠れていた腕には包帯が巻いてある。
これは今に始まったことではない。この包帯は左の腕全体に常に巻かれているのだ。会ったばかりの頃は気になって尋ねたりもしたが朱里は怯えたように左腕を抑え、小さくなってしまうのだ。普段は長袖を着て腕を見えないようにしているが私と家にいる時は大体そんなことは気にしていないというように半袖の寝巻きを着ている。しかし、何故包帯をしているのかそれは依然謎のままなのだ。大方の予想はつくが敢えて言わないでおく。太陽が雲に覆われ始め、窓から差し込んでいた光は弱々しく細くなっていった。
午後も朱里は眠ってしまったまま起きなかった。その間、時折何かに魘されていたが私はただ見ていることしか出来なかった。その時々で何度も揺すっては起こした。しかし、朱里は私の顔を確認した後、安心したように眠ってしまうのだ。
洗濯物を取り込み、夕飯の支度へと移った私は朱里の事が気がかりではあったがずっと付いているわけにもいかないのでいつも通りの家事をすることにした。小説を読んでいても朱里の事で内容が全く入ってこなかった。私はたぶんだがこういうふうに普通にやっている事を普通にやっている方がしょうに合っていると感じてしまうのだ。
「お姉ちゃん?」
不意に後から聞こえた声に私はドキッとした。見ると扉から顔と上半身を覗かせた朱里が怯えるようにして立っていた。
「どうしたの?」
朱里は何も言わず立ち尽くしているだけだった。私は火を消して朱里の方へ近づいた。寄ってみると朱里は今にも泣き出しそうに目を潤ませていた。余程、怖い夢でも見たのだろうか。
「朱里」
私はそう言うと優しく朱里を包容した。そして、昔やっていたみたいに背中を摩ってあげる。すると安心したのか朱里の体から力が抜けていくのが自然とわかったてくるのだ。
「大丈夫?落ち着いた?」
「うん」
高校2年生とはいえ、精神疾患が完治したわけではない。まだまだ子どもなのだなと感じてしまう。
鍋の蓋がカタカタと急かすように鳴り始めた。泡がフツフツと吹き、絶好の機会が今であることを知らせる。
「朱里?お粥作ったんだけど食べない?」
「食べる」
朱里は全く動こうとしないほどベッタリと私にくっついていたが食事の催促をすると私の後に付いてきた。そしてチョコンと机の前に座ると小動物のように何処と無く弱々しく切なさを漂わせていた。
「はいお待たせ!食べられる?」
朱里は徐に顔を上げ、何も言わず私の方を見つめてきた。その目は子犬が餌を欲しそうにクゥーンと鳴いて見つめているようなものだった。
「ふふ、しょうがないなー」
そう言って私は鍋の蓋を開け、湯気の立つお粥に木製のスプーンを入れた。掬っても尚、湯気で熱さを強調させてくるそいつを冷たい息で冷ましながら「はい」と朱里の口に運んだ。
朱里は目尻を下げ満足そうに微笑んだ。子どものように無邪気で屈託のない笑顔を見てしまうと私も正直ホッとしてしまう。
「お姉ちゃん」
朱里がそっと呟いた。
「何?」
「ありがとう」
お礼を言う妹は照れくさそうにまた笑った。
「いーえ、どういたしまして」
私は照れを悟られないように取り繕った。
空になった鍋が何かを成し遂げたように堂々と机の中央に居座っている。私は朱里の背後から抱くようにして彼女の話を聞いていた。今ね?こんな事があってね?それでね?って朱里の話は底を尽きない。楽しそうに朱里は日常の生活風景を話しているのだ。
一通り話し終えた朱里が急に静かになった。それと同時に部屋全体が少しの物音も許すまいと躍起になりだした。辺りは本当に恐ろしい程の静寂に包まれていた。
私は朱里の方を見た。その瞬間、心臓から冷たい何かが血液とともに体全体に流れていくのを感じた。
俯き加減の朱里。顔を覗くとその目に光がなく、闇がどんよりと濁っている。ぼうっとしているのか朱里は喋ることもなくピクリともしなかった。
「朱里?」
呼んでも当然返事はない。身体が密着しているはずなのに私と朱里の間には茫漠とした暗闇が横たわっているように感じた。見えているはずの背中。しかし、こんなにも近いはずなのに手を伸ばしても届かない気がするのはなぜなのだろう。私は今置かれている不可思議な状況に混乱した。
「朱里!」
先程よりも大きな声で叫んだ。耳元ではあったが朱里の耳にはどうしても届いていない気がしたからだ。
すると朱里の首が私の方へぐるんと回転した。目が座り、じっと私の方を睨んでいる。私は首元に強烈な悪寒と熱を感じた。
あれは幻だったのだろうか。いや、そんな簡単な言葉で済まされないほど鮮明に私の脳に刻印されてしまっている。私は思わず首元に手を伸ばした。摩ってみても先程の感触がまざまざと蘇ってしまい、どうにも寝付けそうにない。朱里は寝室の布団で寝ている。少し前に私が運んだのだ。とりあえず私は混乱状態にある自分の心理を落ち着かせるため洗面台に向った。顔洗えば少しはスッキリするかと思い、洗面台に立った私を待っていたのは思わず絶句してしまうほどの現実だった。
赤い手が未だに私の首に巻きついていて離れようとしない。それは首から全身にジワジワと異様な熱を流し続けている。
首に手を当てたまま私は自分の顔を見た。目元には薄らクマが黒ぐろと漂い、少し痩せたのではないかと思った。
女性であれば痩せたとなれば喜ぶところなのかもしれないが、私は朱里に出会ってから痩せるという言葉があまり好きではなくなった。痩せ細るというのはどうしても死という言葉を連想させてしまう。それが堪らなく辛かった。私にとっては身近にある死が朱里と出会う前は正直、軽薄的に誰もが使う脅し言葉として受け取っていた。
誰もが簡単に「死ね」という言葉を躊躇なく相手に浴びせているのをよく耳にする。しかし、それは死という非日常的なことに直面した事がないからなのだと思う。
自分以外の第三者が死に直面すれば、私のように一瞬だけでもいや言いたくはないと思える言葉になるはずなのである。
朱里の口は何も言わなかった。しかし、その目が、手が言葉で伝えずとも「死ね」と吐き捨てているように感じたのだ。
確かに私は死んだ方がいい人間なのかもしれない。大切なものを奪う悲しみと奪われた悲しみ。その二面性を担い、私は生きていくのか。
私は顔に映る自分をもう一度見てから洗面台の電気を消した。そして、強く確信してしまった。
朱里にはまだ私の知らない何かがあると。
次回へ続く
予定タイトル
「記憶」
お楽しみに。




