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空白の明日に  作者: 赤羽樹
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私の姉

溺れてしまうほど、足がつかないほど深い闇は沼地のように私の足にまとわりついて離そうとはしなかった。

私には姉がいた。

綺麗で可愛くて私の唯一の自慢だった。

闇の底に沈んで溺れかかっていた私に手を差し伸べて助けてくれた、言わば命の恩人なのである。血の繋がりや苗字の違いがあるにも関わらず私を見捨てることをしなかったのだ。

毎朝、部屋に差し込む眩いほどの朝日と姉の朝食を作る音で目を覚ました私はいつものように寝室の扉を開けた。小さなアパートだが姉が二人暮らしなんだからと部屋が2つあって比較的家賃の安い物件を必死に探してくれたらしい。そんな優しい姉は今日も台所に立って朝の音を軽快に奏でている。ラジオ体操の様に起床しなければならないという義務感に駆られて私はいつもこの音で目を覚ます。

「おはよう」

自分でも分かるほど眠たそうな声で私は姉に朝の始まりを告げた。

「朱里、起きたー?ちょっとさー棚からお皿出してもらえるー?」

姉はちらっとこちらを向くと私に手伝いの催促をした。私は眠気に勝てず曖昧な返事をしてからお皿を2枚、姉の傍へ置いた。姉の作る料理は常に美味しい。思わず顔がにやけてしまうほど幸せを感じずにはいられないのだ。

施設の食事ですら血の味しかしなかったのに姉の料理は魔法がかかったみたいに美味だった。私は料理があまり得意ではなかったのでこうした姉の得手を感心し、また尊敬もしていた。今日は姉の帰りが遅いということなのでちょっと挑戦の意も込めて姉に強がりを言ってみせた。今は何を言っても受け入れてくれる姉の幸せそうな顔を見ることが私の楽しみである。

私は元々、暗い子ではなかったらしい。無邪気に走り回るどちらかと言うとわんぱくな方だったそうだ。変わってしまったのは親を亡くしてからだそうだが私はそう思っていない。確かに不運な事故で家族を亡くしてしまったことは悲しいが、学校のみんなや他の大人たちがそれを憐れむことをせず鬱積を晴らすためだけの道具として扱い始めたからだと認識している。事故に遭ったのが小学校に上がる前だったので入学式には勿論、授業参観等にも私を傍観し祝ってくれる人間は誰もいなかった。引き取り人となった親戚夫婦は私を快く迎え入れなかった。私の両親は親や親戚夫婦の反対を押し切って駆け落ちしたらしかったのだ。そのため、私は愛でられることはなく逆に疎ましく思われ、邪魔者扱いだった。まるで家系のお荷物とばかりに私の日々は地獄と化していった。

家では殴る蹴るなどの暴力は当たり前だった。仕事が出来る有能さがないとこの家では生きてはいけなかった。掃除に洗濯、食事以外の家事や身の回りの事は出来て当然だった。失態を犯すと罰として食事を抜かれるなんてこともしばしばあった。

学校でも両親がいなかった私を男子たちがからかい始めた。加えて親戚夫婦は洗濯等は自分でやれと私に言っていたので服が乾かない時は昨日着た服を仕方なく着ていっていた。一度、服を全部洗濯してしまい着ていく服がなくて学校を休むと言った時はこっ酷く殴られたのを覚えている。

そのことも当然災いし、私はクラス中、いや学年中のイジメの対象となってしまった。髪は黒板消しなどに付着した石灰でやや白く濁り終いには汚いと水をかけられる始末だった。教科書やノートはもはや原型を留めていないものや落書きの嵐で全く使いものにはならない。机への落書きは死ねなどの在り来りなものばかりだったがそれでも小学生の幼い心には少なからず損傷を与え続けていた。他には髪を引っ張られたり突き飛ばされたり。

一番ショックだったのは教師が何も対応してくれない事だった。後で聞いた話だが教師達も私のことを疎ましく思っていたらしく給食代金を払わなかったり生活態度が悪いとまるで問題児扱いだったのだ。親戚夫婦がああ忘れてたと渋々給食代金を払ってくれていたためそこまで問題視されることはなかったがそれでも毎回納金が遅れたり授業時に教科書やノート、筆箱さえも出ていない私を叱りつけては捨て文句に「私の評価を下げないでくれ」と思わず耳を疑うことを言い放っていたのだ。

家でも学校でも鬱憤を晴らすためだけの玩具として扱われた私は次第に感情が消滅していった。笑顔のなり方を忘れ、最後には話せなくなっていた。

そんな生活が6年続いたある日、私は下校中の道端で倒れたらしい。近くを歩いていた人が直ぐに救急車を読んで病院に搬送されたらしいのだが私の衰弱ぶりと妙にボロボロの格好に担当医師は違和感を覚えたらしい。その後、目を覚ました私が失声症だと分かると直ぐに精神科に回され極度のストレス性精神障害を患っていると診断が下ったのだ。

後日、児童相談所の係員が私の親戚夫婦の家を訪れたらしく私は児童福祉施設へと預けられることとなった。初めのうちは児童手当を理由に委託を拒んでいた親戚夫婦も最後は根負けしたのか私を明け渡したのだ。

こうして私は地獄から解放されたのだ。しかし、解放されたからといってこの6年間の傷が早々に癒えるはずもなかった。やすらぎの庭に来てからも症状が回復する兆しは一向に見られなかった。失声症で上手く声が出せず、いつも見えない恐怖に怯えていた。無必要の使命感に駆られ何かをしないではいられなかっらしい。また、大きな物音が鳴る度に過呼吸を発生させていたらしいのだ。加えて私は6年間毎日悪夢に(うな)されていた。決まって見るのは事故の瞬間だった。やはり意識的には遠のかせていても無意識の中では自分を制御することは敵わなかった。1台の車が私達三人に向かって突っ込んで来る。轢き殺された両親からは生暖かい血が流れ「パパ?ママ?」と近寄る私をドス黒く映し出している。血に塗れた自分の両手を見て慟哭を上げると決まって目は覚めるのだ。

あの日もそうだった。施設に来て初めての夜。上で寝る姉の下で私は悲鳴を上げたのだ。姉が必死に「朱里ちゃん!朱里ちゃん!」と私の名前を呼んでいたことだけは今もはっきり脳裏に焼き付いている。パニック障害も患っていた私は直ぐに別室に移され気持ちが落ち着くのを待っていた。その間も姉はずっと私に付いてくれていたのだ。それに姉は必死に私に語りかけてくれた。頷くだけの私にこれでもかと一日あった出来事を楽しそうに話してくれたのだ。

しかし、この日の姉は真剣な面持ちをしていた。口元は微笑んでいるようだが明らかに目が真剣なのだ。

そうして「私ね…」。そう続けた姉の話は私と同様、悽愴たるものだった。

どうやら姉の両親は姉が小学6年生の時に交通事故を起こし亡くなったらしいのだがその時、歩道を歩いていた人を巻き込んでしまったらしい。運良く助かった姉を待っていたのは人殺しの娘というレッテルと社会からの厳しい洗礼だったそうだ。学校では人殺しと罵声を浴びせられ近所でも肩身の狭い思いをしてきたらしい。高校は隣町の高校を受験したらしく漸く地獄から解放されたそうだが彼女に突如降り掛かった三年の荒天はあまりに愍然(びんぜん)たるものだった。

しばらくの間は姉も人を信用出来なかったらしい。中学の時に入ったこの施設の人間も自分のことを白眼視しているという見方をどうしても拭えなかったそうだ。やはり彼女が変わったのは高校になってからのようだった。隣町の高校に入学したことで誰も彼女の素性を知るものがいなかった。初めのうちは警戒していた姉も出来た友達の人の良さに徐々に心を開き始め、それなりに楽しい学校生活を送ったようだ。しかし、部活動等には入らず休み時間も友達と話すか本を読むかのどちらかで比較的大人しい生徒だったようだ。そんな姉の身の上話を一通り聞いても私はただ頷くだけだった。その時、姉が急に「朱里」と名前を呼んだ。徐に顔をあげる私に姉は真剣な眼差しを向けてきた。そうしてギュッと私を抱きしめた。

「朱里、辛かったね。本当に辛かったね。でももう大丈夫。朱里には私がいるよ。私が朱里の一生の味方でいるからね」

姉は優しい口調で語り始めた。落ちつかせるように頭を何度も撫でてくれた。

私は自分でも気付かぬうちに誰かに共感を求めていたのか。この悲惨な現状を誰かに理解してほしかったのか。恐らくはその両方で私は漸く共有者を見つけたのだ。

冷たい人生を送ってきた私をそっと包み込む新たな温もりに安堵した私は一心不乱に声を出して泣き続けた。何事かと施設長や職員が見に来たらしいのだが状況を察したらしくそっとしておいてくれた。その間、姉はずっと私を優しく抱きしめてくれていた。何も言わずただそっと。

その頃から失声症が治り始めた。精神障害は未だに残っているがそれでも以前の様なことはほぼ皆無になっていた。当然、悪夢ももう見ていない。

今日も姉に行ってきますと言って家を出た。眩しい太陽に雲がかかろうとしている。いつも向かいの塀にいる猫はこちらをチラチラと見ては大きな欠伸をしてみせた。姉は知っているのだろうか。ある事実を。私はまだそれを打ち明けられそうにないのである。

次回に続く

予告タイトル

「私は…」

お楽しみに

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