遺書~サヨナラの意味~
曇天下の街に大量の雨が容赦なく降り注ぐ。空が、街が、ありとあらゆるものが悲しみに浸っているようなそんな朝だった。私は喪服に着替えて早めに家を出た。傘に大粒の雨が当たり、バタバタと騒がしい音を立てる。ただその音が私の中に吹き荒れる嵐にも似た音をかき消し、私を正常化させていた。この街もお姉ちゃんの死を悲しんでいる。私はそんな気がして少し心が軽くなっていくようだった。
葬式会場の前に着くと葬式会社の人と一緒になって既に2人準備を始めていた。葬式会社の人がいるのは何の不思議もなかったが百合さんと里奈がいるとは私も思わなかった。
「百合さんおはようございます」
「おはよう。朱里ちゃん」
「里奈。おはよう」
「おはよう。朱里」
私たちはそれ以上言葉を交わそうとはしなかった。私も雨に濡れた傘を置くと準備に取り掛かった。
椅子を並べている時、ふとお姉ちゃんの遺影が目に入った。満面の笑みを浮かべた顔は私が生前見慣れていたあの笑顔だった。これが最後に見る笑顔なんだろうなとその無機質な笑顔を見て私は再び椅子を並べ始めた。
小会場で近親者のみで式は執り行われた。近親者とは言っても親族がいる訳でもない姉には施設長を始め、今までの人生の中で親密に関わってきた人達が参列していた。住職さんのお経を読む声が止むと前列の人達が立ち上がり焼香をあげ始めた。私は通る人のお辞儀に合わせて機械的に同様の運動を繰り返した。まるでそれをするためだけに作られた人形の様に私は無表情でお辞儀を繰り返した。友人代表で百合さんが最後の言葉をかけていたが内容はほとんど入っはこなかった。写真の中の笑顔だけが全てを納得したように満足気だったように思えた。
式が終わり黒い服を身に纏った人達が一斉に帰っていく。そんな中、施設長だけが私の目の前に近づいてきた。
「朱里ちゃん。辛くなったらいつでもおいでね」
「ありがとうございます」
私は施設長のご好意に丁寧に深くお辞儀をした。施設長はそれを言い終わると「それじゃあ」と言って去っていった。取り残された私に里奈がそっと声をかける。
「朱里。中に戻ろう?」
「うん」
私は軽い返事をすると中へと入って後片付けをした。
一通り片付けが終わり私は棺桶の小窓を開けた。白くて綺麗な顔がスヤスヤと眠っているようだった。「お姉ちゃん」と呼んだらまた私の名前を読んでくれそうな気がするくらい本当に信じられなかった。私はそっとその小窓の扉を閉めた。上を向き明かりが少し眩しく感じた。
火葬場の煙が上がり、私は心の中でお姉ちゃんに最後と思われる「サヨナラ」を告げた。雨は一向に止む気配を見せず、私達の傘にはバタバタと雑音が流れていた。その雑音に嫌気がさし、納骨などの手配を全て葬式会社に任せ、私はいつの間にか帰途についていた。家の扉を開けて無意識に「ただいま」を言う。暗い部屋からは当然、返事は返ってこない。現実が高速で流れていき私の意識が圧倒的に追いついていない。どんどん引き離されていきその後ろ姿さえ見えなくなる。水の入ったヤカンを火にかける。ユラユラと揺れる炎は私の瞳に光を与えている。ただ、俯瞰してみれば目に写った炎が光の役割を果たしているだけで内面的には何の光も生み出されてはいなかった。
ピンポーン
突然に、家の呼び鈴が鳴った。私はゆっくりと廊下の方に向かった。床が悲しそうに軋む。扉を開けるとそこには百合さんが立っていた。
「今、いいかな?」
「ええ。どうぞ」
私は力なく返事をし、百合さんを中に通した。
「適当に座ってて下さい。今コーヒー淹れますから」
「お構いなく」
そう返事は来たものの「ああ、そうですか」と言って出さないのはさすがに失礼なので私は当然のごとくコーヒーを淹れる準備をする。沸いたお湯をカップに注ぎリビングへと運んだ。
「どうぞ。砂糖とミルクもありますけど…」
「じゃあお砂糖ひと袋にミルク一つもらうね」
「はい…」
それはお姉ちゃんの好みと同じだった。私はブラックが好きだったけどお姉ちゃんは特別なことがない限りはお砂糖ひと袋にミルク一つが定番だった。そして、いつもそれを美味しそうに飲む。そう、今の百合さんみたいに。
「美味しい。七海はいいセンスをしてるな~。バランスがよく取れてる」
「え?」
私はこの言葉に思わず反応してしまった。百合さんはねらっていたかのように微笑んだ。
「これ、七海の好みでしょ?コーヒーを淹れた時は必ずお砂糖ひと袋にミルク一つを入れてたからね」
「知ってたんですか。お姉ちゃんの好み」
「そりゃあ、親友だから」
今度は自慢するようににんまりする。この人も表情が豊かな人だ。でも、今日の百合さんはどこかおかしい気がする。まだ、何か隠しているのか。
「私に何か用ですか?」
私は単刀直入に目的を聞いた。恐らく百合さんもダラダラと世間話をしに来たわけでもなさそうだ。
「これなんだけど…」
百合さんはそう言って鞄の中から小さな白い封筒のようなものを一つ取り出した。私の前に置かれたそれには「朱里へ」と書かれている。
「これは?」
「後ろを見てみて」
私は言われるがまま後ろを捲った。右下に「七海」とだけ記されている。私は無言で手紙の入っている封筒を開けた。そこには文章の書かれた手紙が入っていた。紛れもなくお姉ちゃんの字だ。外では風がザッと吹いた。それに合わせて木々がザワザワと音を立てる。私は恐る恐る手紙を読み始めた。
*
朱里へ
あなたがこの手紙を読んでいる時、私はたぶんこの世にはいないと思います。
手紙っていうのは照れくさいけど私があなたに残しておけるものはこれぐらいしかないからこうやって今手紙を書いています。
でもいざ書くってなると難しいね。さて何から書こうか。
私はもう永くはありません。薬があまり効いてないこと、他部位への転移から見ても明らかです。
朱里の成長をもっと見ていたかった。朱里の笑顔をもっともっと見たかった。朱里に料理を作って美味しいねって言い合いたかったよ。
望みは言っちゃうと切りがないね。だからここからは私の話をします。
私、朱里に謝らなきゃいけない事がいっぱいあるの。
まずは隠し事をしてしまってごめんなさい。里奈ちゃんに協力してもらって朱里がどんな生活をしているのか、少しでも朱里のことを知りたかった。私は朱里のことがわからなくなって少し盲目化していたのかもしれないね。もう少し朱里の気持ちを考えてあげられればよかった。ごめんなさい。
それから11年前のこと。私の両親が朱里の両親の命を奪ってしまったあの日。私の家族が朱里の家族の未来を変えてしまった。これは一生償わなければいけない罪だよね。家族を代表して私から謝ります。ごめんなさい。
そして、一番謝らなきゃいけないのは約束を守れない事。たぶん私は一緒にお家に帰れそうにありません。癌が他の臓器に転移しててどうも状態はよろしくないみたいだから。朱里と約束をした次の日の検査でそれがわかって私はこの手紙を書くことを決意しました。でも針千本は飲まなきゃね。痛いかな?そりゃあ痛いか。
罰が当たったんだね。きっと。私は重罪人で神様は許してはくれなかったんだね。だから、私の体を病気にさせたんだよね。私はこの罰を受けるよ。だって、朱里のためだもの。朱里のためなら私はどんな罰だって受けるよ。私のたった一人の妹だもの。かわいいかわいい妹だもの。私は朱里と出会えて本当に幸せな毎日を送れている。笑っていられる。私ってこんなに笑えるんだなって思ったよ。あの時、朱里を引き取ってよかった。きっと私達が出会ったのは偶然じゃなくて必然で、それでいて運命だったんだね。私は今もそう思っているよ。そして、朱里が私の希望になった。ありがとう、朱里。私の妹でいてくれてありがとう。家族でいてくれてありがとう。あなたに言うありがとうは全く足りないね。本当に朱里、ありがとう。
それから朱里。里奈ちゃんとは仲良くするのよ?あと好き嫌いせず食べて夜ふかしはあまりしないようにね。ちゃんと勉強するのよ?風邪ひかないように温かくするのよ?私は正直、心配でなりません。このままあなたを残して消えてしまうというのがたまらなく怖いです。人間はいつか消えてしまうとわかっていても授かった命がある限り懸命に生きようとします。だから朱里も自分の人生を輝かせてください。
最後にこれから私があなたに言うサヨナラは永遠の別れという意味の「サヨナラ」なんかじゃないよ。あなたが精一杯生きて、いつか私の所に来る時に「ただいま」って言うためのサヨナラだよ。私は信じてる。またいつか会えるって。だからサヨナラ。またね。朱里。私の唯一の大切な妹へ。
小鳥遊七海
*
大粒の滴が手紙の上にポタリ、ポタリと落ちていく。これはお姉ちゃんの書き残した遺書だ。丁寧な字で書かれた手紙。私の涙腺は音も立てずに崩壊していた。もうその溢れ出るものを止めることが出来なかった。この数分間で創出された未分化の感情の因子は私の心をきつく締め上げていた。後悔と感謝などが入り交じったようなそんな何とも言えないものだった。
お姉ちゃん。私の方だよ。ごめんね。お姉ちゃんには謝らなきゃいけないことなんて数え切れないほどあるよ。お姉ちゃんの未来を変えてしまったのは私。助かったはずのお姉ちゃんのお父さんを私は殺めてしまった。当時の私の生活が一変してしまうのが怖くてならなかった。だから、私はもう1人の自分を作ってしまった。どうしようもない臆病者でごめんね。
それからありがとうはもう数え切れなくて溢れてるよ。あなたの最後の言葉もそうだった。私がもらったものはあまりにも大きすぎる。お姉ちゃんがいなかったらきっと今の私はここにいないの。お姉ちゃんが私の闇を照らし続けてくれたの。このまま照らしてくれると思ってた。なのに、何で?お姉ちゃん。帰ってきてよ。
「あのね」
百合さんが重たい口を開いた。依然、涙は止まらなかった。外では車の走る音がしてやがて遠くの方へと消えていく。私は顔を上げて百合さんの目を見た。
「七海がこの手紙を書いた日、初めて泣いたところを見たの。号泣だった。朱里ちゃんには言うなって言われてたけど、どうしても忘れられなくて」
お姉ちゃんが泣いた?しかも号泣?私も今までそんな姉の姿は見たことがない。私の知る限りではお姉ちゃんが私の前で弱い所を見せたことは1度もなかった。そもそも他人にそういう所を見せるのを嫌がっていた姉が百合さんの前で号泣したという事実に驚きを隠せなかった。私は涙で濡れた目をさらに見開いた。百合さんは何の反応も示さず、そのまま淡々と語り続けた。
「死にたくない。あの日、確かに七海は言ったの。死にたくない、死にたくないよって。私に顔を埋めてきた。私は、抱きしめることしか出来なかった。ただ泣きじゃくる七海を優しく包容する事ぐらいしか私には出来なかったの。本当は何とかしてあげたい。でも、私には出来ることがなかった。何も出来ない自分が悔しくてたまらなかった」
百合さんの声が微かに震える。私は真っ直ぐ百合さんを見つめていた。
「死への恐怖に塗れた七海をどうしても救えなかった。抱きしめて背中を摩ってあげることぐらいしか…私には…」
百合さんの目から大粒の滴がこぼれ落ちる。これ以上は言葉が詰まってどうにも出来ないのだろう。後悔の念が全ての言葉を呑み込んでしまっているようなそんな感じだった。
「お姉ちゃん最後にありがとうって言ったんです」
「え?」
それまで俯き加減でいた百合さんも流石に顔を上げて私の方を見つめてきた。その目は見開かれそこから溜まっていた涙がこぼれ落ちる。
「お姉ちゃんの最後の言葉。それはありがとうだったんです。途切れ途切れでしたがそれは確実に感謝の言葉でした。百合さんの行為は無駄なんかじゃなかったんですよ。寧ろ意味のあるものだった。私はそう思います」
百合さんは口許に手を当て、眉間にシワを寄せながら頷くようにして泣いた。声にならない声が鼻をすする音とともに聞こえてくる。そうして私達は声を上げて泣いた。薄暗がりの狭いリビングに残された二人の泣き声が曇天と雨空を劈くようにして響いた。
「うわああああああああー」
「ああああああああ、七海、七海ー」
暫くその声が止むことはなかった。
*
百合さんが帰って私はまた一人になった。泣き声の無くなった部屋は妙に静かだった。外では依然、木々が風に吹かれザワザワと鳴っている。私は机に置かれたコーヒーをそのままに寝室の扉を開けた。湯気の出ていたコーヒーはもうその活気を沈ませ、今はすっかり冷めてしまっている。寝室はベランダに繋がる大きな窓があるのにも関わらず 雨天の夕方ともなれば部屋はいつにも増して暗かった。その僅かに残る特別な明るさに目をやりながら私はお姉ちゃんのベッドの上にうつ伏せになった。
微かに残る姉の匂い。私はこれを嗅ぐだけで落ち着けた。でも、今日は何故かその心が落ち着いてはくれなかった。
姉はもうここにいない。いたという痕跡のみを残してこの世界から消えてしまったのだ。
ベッドを何となく擦りながら目を閉じる。何も無いはずの枕からはお姉ちゃんの声が聞こえてくるようであった。
「朱里」
今は私の名前をあの声で呼んでくれる人はもういない。ただ鼓膜にはその声がハッキリと残ってしまっているのだ。
「お姉ちゃん」
枕は再び涙で濡れた。これが何度目かはわからない。時折、どうしようもない寂寥感に襲われて私は姉のベッドの上にうつ伏せになっては今までの思い出に浸っていくのだ。私の中の思い出は施設で出会った時とかお姉ちゃんたちを傷つけてしまった時とかそういう特別なものではなかった。
私の思い出はなんてことない日常の朝から始まる。お姉ちゃんの料理をする音でいつも目を覚まし、寝室の扉を開け、おはようと言う。お姉ちゃんも笑顔でおはようと返し、そうして出来上がった朝食をテーブルの上に並べる。私はその美味しさに笑顔になり、お姉ちゃんはそんな私を見て笑顔になる。あっいつもの日常。いつもの幸せな朝。そして「行ってきます」と玄関の扉を開けたところでいつも目を覚ますのだ。
そしてその時、私は決まって泣いている。そんなリアルな夢を毎夜見てしまうのだ。
「また…か…」
私はそう呟いた時、ふと近くに置いてあった目覚まし時計を見る。目覚まし時計は2つ。そのうちの一つは電池が無くなったのか止まって動かなくなっていた。お姉ちゃんは本当に朝に弱くて目覚ましが二個ないと起きられないような人だった。高校の時はいつもギリギリの登校だったと聞いている。社会人になっても結局は直らなくていつも遅刻ギリギリだった。でもそれは二人暮らしを始めた当初の話で近頃は私よりうんと早く起きては朝食を作る余裕さえ見せていたのだ。それがこの夢に繋がっているのかな?動いている方の時計を見ると時刻は6時半だった。秒針が心臓の鼓動のように一定のリズムで1周していく。
「私、あのまま眠ってたんだ…」
気づくと翌日の朝だった。ただいつもと違うことがあった。それは夢のオチだった。私が出ていく時、お姉ちゃんはいつも何も言わない。でも先程まで見ていた夢は確かに、そう確かにお姉ちゃんの声で「いってらっしゃい」と聞こえた。その声はハッキリと私の鼓膜を響かせた。
「そっか。お姉ちゃん…。サヨナラだね」
私は既に濡れていた枕を再び涙で濡らした。天気は依然として雨。しかし、私は笑っていた。笑い泣きしていた。微笑む程度の笑い。悲しくなかった。うじうじした私のお尻を引っぱたいたみたいにお姉ちゃんの言葉は私から離れようとしなかった湿っぽい暗闇を晴らしてくれた。
まさに干天の慈雨だ。きっとこの雨もそうなのだろう。私にとって望まない雨も他の誰かにとっては貴重な恵みなのだ。昨日まですごかったその雨の音は止み、静かに囁いているようだった。大丈夫。朱里なら大丈夫だよって言っているみたいだった。
ありがとう。お姉ちゃん。そして、サヨナラ。
私はそっと枕元で呟いた。
次回で最終章です
予定タイトル
「おはよう」
お楽しみに




