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私が愛していた人が、遠いとは言え、祖先だと知り、その運命を憎んだ代償はあまりに重かった。……今は、山城唯として愛していた人だからと区別はついているが、その状態までに戻るために私は痛覚を犠牲にした。
だから、手のひらにある傷から感じる痛みがどれくらいのものなのか、理解が出来ない。医者はストレスによる一過性のものだと言ったが、恐らく私に痛覚が戻ることはないのだろうと何故かそう思った。こう言う時の勘はよく当たるが、心配している家族のために医者が勧める治療法には一応取り組んでおこうとは思っている。
使用人や理玖は、最初は彼に何かされたのでは? と問い詰めてきたが、違うとはっきりと言えば納得してくれた。それは何故か? 私は、どんなに脅されようと使用人や理玖になるべく無理して気丈に振る舞って、理由を隠すことをしないと知っているし、それに私はこう言うことに対してはあまり嘘をつかないし、つく必要もないと思っている。
……それにしてもまあ、また人間らしさをまた失ったものだ。今の今まで、前世の分まで合わせればどれが致命傷になるか判別できるくらいの危険な経験をしてきてはいるから、判別できるはずだが、やはり痛覚を失うのは痛手だ。痛覚を知らなければ、戦う時に手加減が難しくなるからな。どんなに医療が進もうと五感を取り戻す治療を見つけることは不可能に近いのかも知れない。だから、どうにかして補える手段を見つけなければならないだろう。
それに、また彼女と接触しなければならないと言うのに、元とは言え、優秀な暗殺者であった彼女と会うのに、寝首をかかれない為には痛覚は必要だったと言うのに、不運としか言いようがない。まあ、私が困るだけで、この計画には支障はないから彼女に会うことを躊躇わないが。
それに彼女は雪くんを愛している、だからわざわざ彼に憎まれるようなことをしても得はしないだろうからな。……本当は、嫉妬で殺気を出してしまいそうになるくらい私のことを憎んでいるだろうに、それでも計画に忠実なのは、それほど彼のことを愛しているからだろう。
彼女には申し訳ないと思っている。複雑だろいな、恋敵の計画の協力しているこの状況に対して。……我ながら、悪女道まっしぐらだな。
彼女の愛を利用して、私は自分の幸せを勝ち取ろうとしている。
確かに、雪くんの幸せを祈っていることも嘘ではないし、今はあの方よりも、理玖のことの方が好きなのは確かだ。ただ、あの方の片恋の気持ちを捨てきれず、記憶として大切に心に留めているのもまた事実。
……雪くんのカリスマ性に惹かれたのも嘘ではないから、この惹かれやすい自分がとても嫌になる。
……いっそ、開き直って、悪女にでもなってしまおうか。長年、自分を偽ってきた私なら悪女になりきることも出来てしまうかもしれないし。それでも、それをしないのは、私はもう、誰を愛して生きていくのか決めたからで、それでも悩むこの揺らぎやすいこの心が憎たらしくて憎たらしくてしょうがない。
これじゃ、彼女にも、百合音さんにも、秋羅さんにも嫌われても文句は言えない。あの方を想う気持ちが残っていながら、それでも理玖が一番と言っているようでは。
あの方への気持ちも忘れたくなくて、理玖も好き? そんな気持ちが間違っているとは理解している、それでも長年抱き続けたあの方への気持ちは忘れられなくて、それでも気持ちの優先度の高さは理玖の方が高くはなったが、このままの状態のまま、理玖の気持ちに答えるのはあまりに不誠実過ぎるのは理解しているが、彼の方への気持ちを完全に忘れることは出来ない。
「……貴女が私のことを嫌う理由が自分でも理解出来たような気がするわ。ずっと前の初恋を忘れたくないと願いつつ、今は違う誰かを想っている私はどうしようもない奴だわ。安心して、雪くんではないわ。
私は恋愛をしない方が良かったのかもしれない、そしたら貴女にそこまで憎ませることも、秋羅さんに嫉妬させることをしなかったのかもしれない。惹かれやすい性格でなかったら、生涯独身のまま、本当の意味での初恋の相手を想いながら生涯を終えることが出来たのかもしれない」
私は屋敷を抜け出し、とある待ち合わせ場所に来ていた。私以外の僅かだけ気配を残している人物に、こうさせた言い訳のような言葉を発しつつ、彼女に無防備のまま近づいていけば、
「……今更気付いたの? 貴女は何人もの男性を振り回していることに。雪夜様もそう、あの藤夜様でさえも貴女の掌の上で踊らせて、貴女の思うがままに行動させられている。貴女の計画は緻密で、繊細で、しかもタチが悪い。
貴女の従者も、秋葉くんも貴女の掌の住人なんでしょう? 貴女の掌の住人は一体何人いるのかしらね。まだ、貴女の一番近い位置にいる従者は良かったわね、貴女から愛されているから。
それに比べて、秋葉くんは、貴女を一番強く、深く想っているのに報われない。誰も彼の支えになる存在は現れない、……それとももう秋葉くんの支えとなる存在も手配済みなのかしら? ……相変わらず、初めて会った時から変わらず悪女ね。良い意味でも、悪い意味でも」
……やっぱり気付いていたんだな、流石は元とは言え、優秀な暗殺者だ。
全く、気付いて欲しくないところを指摘されて、流石に反応を隠しきれなかったよ。
「……あら。やっと自覚してくださったのね。まあ、貴女を追い詰めるような言葉ばかりを言う私が言えることじゃないから、これ以上どうこう言うつもりはないわ。貴女の計画は正直どうでも良いの、雪夜様の側に合法的に居られる資格を手に入れることが出来るなら茨の道を裸足で歩くような人生になったとしても耐えられる。そうじゃなきゃ、恋敵の協力者なんてやってられないもの。
本当なら、普通の女の子と同じように、正当な恋の駆け引きをしたかったわ。でも、私は自分が暗殺しようとして居た相手を好きになってしまった。実際に、失敗はしたけれど任務も遂行した。そんな相手をどう頑張っても好きになってもらうのは無理よ、……だから貴女の取引に応じた。この計画が失敗すれば、雪夜様にとって生きていてもどうでも良いと憎しみすらも抱かれないくらいの存在になってしまう。その可能性があったとしてもそれでも良かった。
元々から好感度は最低力比べてもマイナスくらいだったのよ、……雪夜様の側に居られるならなんだってするわ。だから、貴女は迷わず悪女を演じてれば良いのよ。私は自ら、貴女の掌の上で転がってあげるわ」
その言葉に、この人に雪くんを任せようと決めて良かったと思った。彼は、精神的に不安定な部分があるから、ここまで芯の強い女性が側にいるなら、安心して婚約者の座から退くことが出来る。
……私では、雪くんの心の闇に耐えきれず、自分までも精神的に不安定になり、最悪の場合……いや、これ以上は考えないことにしよう。
やっと、精神的に安定して来たんだから、これ以上後ろ向きに考えては体に悪い。
「……良い返事だわ。今日は、最後の日の打ち合わせに来たの。……やっと、シナリオ通りのものが出来たから使い方をね、説明に来たのよ。大丈夫よ、貴女の戦闘センスはなかなかのものだわ。当日までにこれを仕上げることが出来るはずよ。
言葉で説明するより、データで見た方が良いと思ってね、魔法具を用意して来たわ。この魔法具はあなたが持つ力を込めることによって映像が流れる。だから、誰もいないことを確認してから見ることね。それと、もしその魔法具が盗まれたり、無くしたりしてもその力の使い方が流失しないように、あなたの持つ力のデータとは違うものが一つでもまぎれていればただの飾りとなるような細工をしておいたわ。
なるべくなら、この力は復活しない方が良いと思うの。あなた以外に使えない力と世間から認識させれば、この力は雪くんと結ばれるための切り札となる。……けれど、私と比べられることは回避できない。出来ることは、全力で努力なさい」
かねてから、決めていたシナリオ通りに進められることを伝え、打ち合わせをするのが今日の目的。
……これが成功すれば、雪くんはこの繰り返しから逃れ、正気に戻ることが出来るはず。そんな彼を彼女に支えていって欲しい、だが彼女には婚約者になれる決定打がないことが痛手だった。そのため、この力が使えることによって、婚約者になるための後押しになるはずだ。
まあ、後は彼女の強い想いと、何事も努力し続ける努力家な一面が良い方向に出れば、周囲から婚約を反対する声は少なくなるだろうと思う。
過去のことを言う人がいないとは言わないが、雪くんと関わる家系の人達は努力家な人間を好む人間が多いからな。努力をし続ければ、時間はかかるけれど認めてくれるようにはなるはずだ。
「……貴女の指示通りにすると言ったわ、当日までに仕上げとく。確かに貴女の言った通り、この力は私と相性がいいような気がする。恐らく、当日までに安定させることが出来ると思う。
早々、魔法具を無くすことも盗まれることもないだろうけれど、肝に命じておくわ。私もこの力を私以外に使えるのは、良くない兆候があった時代に生まれた子だけだと思うから、厳重に保管しておくわ。……切り札と言われるくらいの力なら尚更ね?」
そう言い終わった後、何処か和らげな雰囲気を出しつつ、口を開く。
「どうせ、悪女と言われるんだから、お互いに悪女道を極めてしまった方が楽だわ。開き直ってしまいましょ、開き直ってしまった方が良い方向に導いてくれるような気がするから」
敵意ばかり向けられていたから、まさか笑顔を向けられる日が来るなんて思ってもいなかった。敵意を向けられるだけのことをして来たのも自覚しているから、私はその敵意を甘んじて受け入れて来た。だから、彼女から励ましの言葉を貰えたことに思わず困惑する。
「あなたは私の持ってないものを持っているし、人を惹きつける。その才能に、嫉妬する人は少なくないと思う。かと言う私もそうだった、……今もそうだけど。
だけど、今日会って気づいたの。あなたも完璧じゃないんだって。
……その手、転んだとか、そう言う類の怪我じゃないんでしょう?」
……優秀な暗殺者だった彼女にとって、傷を見分けることすらも容易いことなんだと自覚させられた言葉だった。
その言葉に思わず言葉を詰まらせれば、彼女は「あなたの人間らしいところ初めて見たわ」とクスクスと笑いながら、続けて、
「これ以上、問いつめるつもりはないわ。今回ばかりは私が優位に立って会話をしていたけれど、それでも私があなたより上に行くことも、行こうとすることも許されないもの。所詮、私はあなたの描いたシナリオを演じる女優に過ぎないわ。だけど、いつかあなたのシナリオがなくなる日が絶対に来ることは理解してる。だから、破滅しないために、彼に必要なことならどんなことも努力するわ。あなたのシナリオがある限り、あなたの手の上でコロコロと転がされることを甘んじて受け入れるし、悪女になる努力だってする。
……私ね、最初はあなたのことをただ憎んでいただけだった。でも、今は違う。確かにまだ憎んではいるけれど、あなたのリーダーシップ性やカリスマ性の高さには尊敬もしているの。……だから、あなたには最後まで完璧な悪女でいてもらわなきゃ困るのよ。今の私はあなたのシナリオで動く女優だから、上に立つ人間にはドンとしていてもらわないとアドリブだけではカバーしきれないわ」
彼女はそう言った。
その言葉は彼女なりの気遣いだったんだろうとそう思う。その気遣いは、私の方の重荷を少しだけだけれど軽くしてくれたから。
「……本番までには本調子に戻しておく」
そう言えば、満足気な顔をした後、彼女は気配を消して瞬きすら許さない速さで彼女は姿を消したのだった。




