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ーーあなただけは私を、信じていて。
私はその言葉を忘れられない。
「水月さん、お嬢さん目を覚ましましたよ。
良かったです、峠を越えられて」
ぼやける視界。
ここは……、病院?
でも、ここは私の知る病院じゃないぞ。
「良かった、月穂……!」
私の名前は、水月月穂ではないはず。そうだ、私はあの時の帰りに通り魔に遭って……!
……この世界から去ったはず……!
だけど、言葉は丸っきり母国語だ。
ぼやける視界に耐えながら、私は自分の手のひらを見れば、まるで紅葉くらいの大きさで。
……なんてことだ、嘘だろう?
私は、転生したと言うことだろうか?
そんなの、もっとされるべき人がいたはずだ!
……そんなの受け入れられる訳がない。
私の頬を撫でるように、涙が溢れた。
溢れて、溢れて止まらない。
……何故、私だったのか。
その疑問が涙となって次々と溢れてく。
「月穂……? まだ身体は辛いか?」
ごめんなさい、あなたの知る水帆はきっと……。
……私の記憶に負けてしまったんだよ。
そりゃ、そうだ。
だって、私の記憶は幼児には残酷過ぎるから。
この世界は、穏やかな世界だった。
でも、たった一人の少女のおかげで、その穏やかさは一瞬で奪われ、最期には敬愛していた主人の……。
主人の命を目の前で奪われたのだから。
そんな記憶をいきなり見せられて、幼くて、純粋な心を持っている時期に耐えられないだろう。
……ごめんな、月穂。
君の身体を奪ってしまって。
熱が私の冷静さを奪っていく。
……意識でさえもまともに保たせてはくれない。
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「月穂、体に大事はないか?」
私の体を心配するのは、葉月藤夜様。
私のいた時代とは少し異なるようだ、魔力を感じないし。魔法はもうこの世界には存在しないからな。
童話を見ても、穂月家の存在がなくなっているみたいだ。ならば、今のこの世界のトップは……。
……葉月家しか考えられない。
それなのに、一令嬢でしかない私の見舞いに、葉月家の当主が直々に来るのだろうか?
水月家の事情は計り知れないものがあるな。
そう考えながら、絵本を閉じた。
「はい、だいぶ調子は戻りました」
私が前世の記憶を思い出した時から数ヶ月が過ぎている。その時、本当の月穂が生きた4年間の記憶も思い出し、彼女がしっかりと令嬢として育てられている、その事実を知った。そのため、私は遠慮なく普段通りに過ごせている。
まあ、彼女も彼女で、子供らしからぬ大人びた考えを持っている子だったみたいで、違和感がない。
「そうか、それは良かった」
私の黒髪の髪を一撫でして病室から去って行った。
去る背中が見えなくなった時、私は息を吐き出した。この国をまとめる5つの家系の当主だ、穏やかな声でありながらあの張り詰めた空気はさすがとしか言えない。
穂月家は当主の座から降り、国をまとめる家系からも降りたようだから、今は恐らく……。
さっき言った通り、5つの家系がこの国をまとめているのだろうな、きっと。
その家系が変わっていなかったなら椿、柊、葉月、葵、紅葉なはずだ。まあ、変わるはずはないだろうな、あの方々に見捨てられない限りはこの家系の人々は、この国のトップに立ち続けることだろう。
……妖の加護がある限り。
何故、魔法の存在がなくなってしまったんだろうか?
あの時代、魔法に依存していたと言うのに。
今では科学? に依存しているようだ。
まあ、魔法の存在がなくなったのではなく、忘れ去られただけの可能性もあるかな。
童話を見る限り、魔法の存在は消えたようだが、その代わりになる力が現れたようだ。
その力は2世紀前に生まれたようだ。
なら、私は2世紀よりも前に生きていた人間なのだろう。その能力が生まれたことを知らないからな。
当時は知らなかったな、まさか従者から令嬢になろうとは思ってもみなかったから。まあ、令嬢らしく見せる技術は持っているから問題ない、私の特技を惹きたてるために必要だったからな。
まあ、滅多に使うことのなかった技術だが。
そう考えていると、病室のドアが開かれる音がした。足音を立てずに近づいてくるのは兄上である、水月穂波だった。私より二歳年上だが、とてもしっかりとしていて、何よりも何故かわからないけれど何処か惹かれる、そんなカリスマ性を持つ兄上だ。
前世、従者だったからかな、そう言う上司として惹かれる人を目で追ってしまうのは悪い癖だ。
「穂月、体調はどうだ?
急に倒れたから心配したよ。
愛しい妹を失うんじゃないかって、ヒヤヒヤしたよ。あまり、心配させないでくれ」
口説くようなその言葉、それを聞いた時、私が前世で敬愛し、尊敬し、そして……いや、この感情は口にするべきではない相手と兄上が重なった。
……兄上は、あの人じゃない。重ねては駄目だ。ただ似ているだけなのだから。
……穂月家、最期の当主。
穂月薫様に。
「やはりまだ調子が優れないか」
「いえ、兄上。
考え事をしてただけですから、お気にせず」
体調を気にして、兄上は私の額に触れる。
……心配性だな、この方は。
それそろ、女性らしい口調に直すべきかな。心配しすぎて、兄上の毛髪が薄くなられては困るからな。
「兄上……いや、お兄様。
私は平気ですから本当にお気になら去らないでくださいませ、心配しすぎて兄う……じゃなかった、お兄様の毛髪が薄くなられては困りますので」
必死に口調を直してそう言えば、
「お兄様と言う、月穂も可愛らしいな。だが、無理して言う必要なんてないよ、口調も無理にお嬢様口調をする必要なんてないんだ。月穂は月穂らしく、話しやすい口調で話せば良い」
そう甘やかすようなことを言われてしまった。
……本当に、この人は7歳児なのだろうか?
まあ、お言葉に甘えようとしよう。
「そうですか、兄上。
私はどうしても淡々とした口調になってしまうので、少し気をつけた方が良いかと思ったのですが」
「気にする必要なんてないよ。
綺麗な花には棘があるものさ。兄上の婚約者も見た目は麗しく、可憐だが、中身は男前だ。
君の棘など可愛らしいものだよ。
私は毒のある綺麗な花を知っているからな」
ーー女性は女性らしく。
そう言い続けていた私のお嬢様。
だから、私は……。
女性であることを捨てた。
全ては敬愛するお嬢様のために、どんなことだって諦められた。心では私を、女の子らしい格好して欲しいからそう言っていたのはわかっていた。
でも、私はあまり女の子らしい格好を好まないのだ。
どうしても、歯がゆく感じると言うか……。
だけど、兄上は私は私らしくて良いと言ってくれた。
この世界では、自分を偽る必要なんてないんだ……。
兄上の言葉が嬉しかった。
兄上、本当に7歳児なのか?
女性を、「綺麗な花」って言うなんて、兄上くらいの歳の子が使うような比喩じゃないだろう。
まあ、なんかわかるような気がしないでもないが。
私が仕えていたお嬢様も、棘というよりか、毒を持ったような綺麗さを持っていたから。
綺麗すぎたが故に、甘すぎる毒が。
そう、一度吸い込んでしまえば、虜にさせてしまう甘い、甘すぎる猛毒。だからこそ、お嬢様は……。
……幸せになることが出来なかった。
お嬢様が完璧すぎたから、それは婚約者を不安にさせ、コンプレックスを抱かせるほどに。
だから、あんな事態になってしまったのかもしれない。そうじゃなきゃ、あの人は自力で幸せを勝ち取り、我が道を進んでいたはずなのだ。
無実の罪で処刑されなければ、だが。
お嬢様の人生という道は、あまりにも、棘が絡みすぎてしまい、その結果ああなってしまった。
「兄上、秋羅様に怒られますよ。兄妹である私だからいいものを、他の方に言ったらどうなることやら。考えるだけで恐ろしい……」
ぶるっと肩を震わせる振りをすれば、兄上は参ったと言うような顔をした後、苦笑いをした。
「末恐ろしいことを言わないでくれよ、妹よ。
政略婚約だが、私は彼女をちゃんと想っているのだから勘弁してくれ。浮気はしするつもりはないのに、秋羅は心配性で信じてくれないんだ……」
だから、7歳児が言うことじゃないだろう?
実は成人していると言われても驚かないぞ。
「兄上は将来、女性からモテるだろうから、秋羅様もきっと気が気ではないでしょうね」
秋羅様を、お嬢様のようにさせないために、私は兄上にトドメを刺すようにそう言った。
兄上は違うだろうと思っても、言うのを止められなかった。信じてない訳じゃないのに。
「私には、秋羅だけだよ」
そう言った後、兄上は用事があるからと言って、にっこりと笑って病室から去って行った。
あの一言だけで確信が持てる。
……兄上は、秋羅以外を愛することはないと。
「水月さん、お薬の時間です」
兄上が帰った後、考え続けていたのだが、看護師のその一言でふと我に返ったのだった。
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月穂の目は、あまりにも良すぎる。
病院に何ヶ月かいるのがきつかった。
……見えなくていいものを見えてしまうから。
私は知らん顔が出来る。
かつての身体もそうだったから。
私は、今日退院した。
もし、この熱が前世の記憶のせいじゃなかったとしたら……? 彼女には、持て余す能力だったんだろう。
月穂はどうやら、令嬢らしい習い事しかしてこなかったようだ。だが、月穂はそれだけじゃダメなのだ。
「父上……」
「わかってる、彼女の説得は私がしよう」
屋敷へと戻る、車内でそんな話をした。
女性らしい母上は勿論、反対した。
私が護身術を習うこと、そして父上から軍事のことを習うことを。だが、仕方ないのだ。
母上が私のことを心配してくれているのは良くわかるし、迷惑だとは思ってはいない。
だが、この力がある限り、守る術を持たなければ私はいつか、力に飲まれて死ぬだろう。
「母上は私を殺したいのですか」
その一言で、母上は反対するのをやめた。
父上は婿養子である。
元々は椿の人間だったと聞いている。
何故、大企業だとは言え、国をまとめている家系の人間を婿をもらえるのだろうか。
だが、深くまで考えてはいけないような気がする。
……せめて髪を伸ばすか。
短く切られた髪に触れながらそう考えていた。
私が私らしく生き抜くために動き出した、五歳の秋のことである。