第2話 (2)
頬に、もふもふとした感触がする。柔らかい毛が、少しくすぐったい。
小さな手で、顔をペチペチと叩かれる。
日向は薄っすらと目を開ける。クリクリとした空をそのまま閉じ込めたような澄んだ水色の目が、二つ、じっとこちらを見ていた。
よっこいしょ、とその小さな躰を持ち上げる。
結局、助けた猫は家で飼うことにした。両親が動物好きなのもあり、快く新しい家族を受け入れた。といっても、日向のそばから離れず、連れて来てから片時も離れようとしない。相当懐かれたらしい。
時計を見る。4時45分。
日向は起き上がり、スポーツウェアに着替えた。
猫はベッドの上でお利口に日向の帰りを待つことにした。
*
早朝、飼い犬のタロウと共に走るのが日向の日課だった。
タロウは人懐っこい柴犬で、朝になると玄関で日向を待っている。階段を降りる音がすると、丸い尻尾を左右に激しく振る。
「よし、行くか」
バウッ
外に出て、1度大きく深呼吸する。
新しく朝がやって来て、1日の始まり。胸いっぱい、春の柔らかな香りが広がる。
一歩踏み出し、一人と一匹は走り出した。
いつものルートは河川敷の横を走るが、今日は街で有名な大きな公園、"自然公園"に向かった。
山に舗装された道路が作られているため、アップダウンの激しい、足腰を鍛えるには最適なコースだ。
日向は森の景色を眺めながら風を切って走る。
ある程度上まで上がってきた。
林道を走り、森がある右側ではなく左側に目を向ければ、木と木の間から街の風景が見える。
バウッバウッ
急に隣を走っていたタロウが吠えだし、スピードをあげた。
ぐんぐんと一匹だけで前に進んでいく。
不審に思って行く先に目を凝らす。
「はぁ…はぁ、ーーー…え」
そして目に入った銀髪に、一瞬呼吸が止まる。
足が自然とゆっくりになり、歩きへと変わった。そして、いつの間にか足は止まっていた。
氷室白雪は、怯えたようにベンチから立ち上がっていた。
タロウだけは嬉しそうに、尻尾を左右に振っていた。
「…………」
「…………………」
2人の間に、長い長い沈黙が流れる。
固まったまま、動かない。
息苦しくなったのか、日向の方から話を切り出した。
「はよ…っす」
ぎこちなく出た挨拶に、白雪は小さく頷き、そのまま俯いてしまった。
朝だからか、より一層髪や肌が白く見える。
「……なんでこんな朝早くにこんな所にいるんだ?」
「家、近い…から…です」
「あー…そう…」
答えになっているようでなっていない答え。
それから話が盛り上がるわけでもなく、再び沈黙が包み込む。
互いに目を合わせることはせず、日向は景色を眺め、白雪は俯いたままだった。
タロウといえば、好きなように茂みの匂いを嗅いだり、虫を追いかけたりしている。
「ここは、いい所だな…」
林が開け、街の風景が一望できる場所。まるで自分たちだけが、違う世界から眺めているかのような。
春風がとても心地良かった。
「とても…落ち着く、場所…1番…好きな…場所」
「……そうか」
ふわっと、白雪が笑った気がした。区切り区切りだが、とても好きということが日向には伝わった。
日向もつられて、少しだけ、笑えた。
(なんだ、ちゃんと笑えるのか…)
心の奥が少し温まったのを感じる。
「…あ、じゃあもう行くわ」
「…………」
ほんの小さく首が縦に振られた気がした。タロウのことを呼び、来た道を折り返す。
その前に、白雪にぺこりと頭を下げる。それにつられて、白雪も頭を下げた。
前に向き直り、走りだす。
少しだけ、足がいつもより前に出た気がした。