第六章
六
あと五分もすれば家に着く、と言う所だった。普段から使う細い路地を進んでいた時にそれは来た。
後ろから、真っ黒い車が明らかに異常なスピードで近づいて来るのがミラーに見えた。既に周囲は真っ暗で、そのライトだけがギラギラとやけに眩しかった。
こんな細い道でなんだっていうんだ。
エアバイクは小回りこそ利くがスピードは大して出ない。あんなスピードで進んで来られたらあっという間に追いつかれる。ケンは道の端に避けてやり過ごそうと、バイクを左の壁に付けた。
その瞬間、ケンは変な印象を受けた。
既にケンの姿はあの車にも見えているはず。左に寄せたのだから、気持ち右側に車が寄るのが普通なのに、右に寄るどころか左の壁に車の側面を擦るばかりに向かってくる。
「おいおい。なんだよ、危ないな……って、うおお!」
次の瞬間にアクセルを思いっきり回す。ケンの体を緊張が走る。
全く緩むことのないスピードで、その車はケンのいるほうをめがけるように進んでくる。
本能で動かす体。そして頭では、不思議と冷静に事態を飲み込む。
追いかけられている? っていうか、突っ込んでくる勢いだ。あんなのにぶつかられたら死んじまう。
そこまで考えてケンははっとする。
まさか。こいつらのせいか? 事故なんかじゃなかったってことか! こいつらに父さんと母さんが殺されたんだ! しかも今度は俺? なぜ!
喚き声を上げながらケンはただ前に向かって逃げた。尚も黒い車は音を立てずに突進してくる。ケンを狙って来ているのは、もう明らかだ。
このままでは追いつかれる。
焦りながらもケンはこの先に細い十字路があることを思い出した。ここからでは暗くて見えていないが、いつも使う道だ。地形は覚えている。
その十字路まで逃げ切れれば、左右どっちかに曲がって撒けるかもしれない。あの車のスピードで細い十字路まで突っ込んでくれば、曲がる時は相当減速しないと無理だろう。その隙に逃げられる。
十字路までの距離と追いつかれるまでの距離は微妙だが、ここはそれに賭けるしかない。
ケンは思いっきりアクセルを回した。バイクはガガガッと音を出しながら追いかけてくる誰かから逃げ回る。
ケンは思わず叫ぶ。
「なんなんだよ、もう!」
車が迫る、もうその距離は五メートルもないだろう。
ケンはもう後ろを振り返る余裕もなかった。自分の体ごと倒してバイクをより前へと押し出す。十字路を目指してとにかく走りまくる。
ジリジリと車との間が詰められている。十字路まではまだある。車もアクセル全開なのだろう、普通聞かないような音が車体から漏れている。
このままじゃ、追いつかれる……!
その時、黒い車が塀に車体を擦って、少し運転が乱れた。その反動で車は減速をせざるを得なくなった。
ミラーでそれに気づいたケンは、いける! と思った。
もうちょっと、もうすぐだ、間に合え!
ハンドルを握る手に力が入る。
まさに車が再度トップスピードになるその瞬間に、ケンのバイクは十字路に差し掛かった。 ケンはアクセルの手を緩めないままブレーキをかける。ハンドルを思いっきり左に切る。
急激な方向転換でバイクの車体はほぼ真横に倒れながらも、パワー全開で持ちこたえた。
ガッターン!
音が響き、砂埃が立ち上がる。そのすぐ後を黒い車がものすごい勢いで通り過ぎる。急ブレーキの音は聞こえたが、またすぐ動き出しその音はひとまず遠のいた。
バイクは放り投げられて、横倒しになりながらプスップスッと奇怪な音を出していた。
しかしその上にはケンの姿はなかった。ドリフトした時にバランスを崩し、角を曲がったところで振り落とされていたのだ。
「っつ、いってえ」
腰に手を当てて、大した怪我はない事を確認しながら呟いた。
「とりあえず行った、か?」
体中砂埃まみれになっていたケンは、両手で服を叩きながら立ち上がる。大切なバイクはどうやら修理が必要そうだ。
散々だ。
両親が死に、自分も何者かに追われた。それなのに理由もその相手も全く見当がつかない。先ほどの恐怖よりも、怒りがケンを満たした。
「なんだったんだ。一体あいつら誰なんだよ」
文句を言いながらバイクを起こそうと近づいたその瞬間、聞こえた。先ほどまで、すぐ後ろで聞こえていたエンジン音。あの車がまた近づく音。
十字路から顔だけ出してみる。車はもうすぐそこまで来ていた。どこかでUターンをしてきたのだろう。
もう戻って来た!?
ケンは暫しの安堵からまた緊張に引き戻される。
バイクはもう動かない。逃げるにも黒い車は目と鼻の先まで来ている。
どうしたらいい!?
答えを見つける暇もなく、黒い車体は目の前に現れ、ゆっくりと停車する。
車のライトが消え、ケンはやっとその姿をはっきり見ることが出来た。もはや逃げだす隙はない。ケンはただ硬直したまま見ていることしか出来なかった。
中から降りてきたのは体の大きな男二人で、一人は銀の長い髪、もう一人は青味がかったグレーの短髪でどちらも真っ赤な目をしていた。二人とも首の詰まった紺のスーツを着ていて、手には手錠のようなものを持っていた。しかし、警察ではない。見たことのない制服だ。
「大人しく一緒に来なさい」
銀髪の男が言う。
「手間を掛けさせないで欲しい」
感情のない声、でも威圧的な物言いだった。
ケンは二人を交互に見返しながら、後ずさりをする。
「何で俺を……? やめてくれよ……」
聞こえていないかのように、大柄の二人はズカズカとこちらに向かって来る。
あと数歩で腕を掴まれるという時だった。
「バカ! 何してるのよ!」
後ろから突然声がした。
驚いて振り返る。
背中に広がる暗闇から、物凄い勢いでこちらに突進してくる薄い影。人。
少女は、長い髪を風に乱れさせ、片手でバイクのハンドルをきつく握り、懸命にもう一方の細い腕をこちらに伸ばしながら叫ぶ。
「掴って!」
差し出された、その決して頑丈そうではない腕に、何も考えず手を伸ばしてしがみつく。
ふわりと浮かぶ体。
バイクは重心を失いながらも、男たちの間を抜けて、その後ろに停まっている黒い車に真っ直ぐ突っ込む。
「う、うわぁ!」
ケンは引っ張られたまま思わず声が出る。
目の前のボンネットに乗り上げて、フロントガラスを割る大きな音をさせ、その勢いのまま車を飛び越した。
ケンは投げ出された足を何度もぶつけながらも、振り落とされないように必死でしがみついていた。振り向くと、男達が急いで車に乗り込んでいる。
二人が乗ったバイクは、黒い車が方向転換をしようと切り替えしを繰り返しているのを尻目に、そのまま闇に姿を同化させた。
小道で右折左折を繰り返し、簡単には追いつかれないよう十分距離を取った。
薄暗い雑木林を見つけそこで彼女はバイクを止める。幸い暗闇が味方してここならそうそう簡単に見つかることはないだろう。
ケンが口を開く。
「あ、あの……ありがとう」
この子が誰なのかはわからない。でも助けてくれたことには変わらない。ケンはまずお礼を言った。
彼女は整った眉を僅かに上げて、顔を動かさず目だけをチラッとこちらに向けて言う。
「来てよかった」
ケンは少し驚く。彼女は続ける。
「ニュースであなたのご両親が事故で亡くなったって知って、気になって。でも、思った通りだった」
何の話だ? 彼女は俺の事を知っている? 両親のことも?
頭がちんぷんかんぷんなまま、質問を浴びせる。
「君は俺に会いに来たって言うの? 俺は君には会ったことなんかない。俺の両親の事も知ってるのか? 君は何者なんだ?」
彼女は、はぁ。と小さく溜め息を漏らした。
それをきっかけにしたように、ケンは今まで抑えていた何かの箍が外れるような気がした。後から後から言葉が口から溢れ出てくる。
「なんだよ、それ。今日一日俺はわからない事だらけだ! 両親が事故で死んだ。その後は得体の知れない車に追われて連れて行かれそうになって、助けてくれた初対面の君はニュースを見て俺を助けに来たって言う。なんなんだよ。一体俺の周りで何が起きてるって言うんだ!? 俺が何したっていうんだ! わからないよ! 何一つわからないよ! こえーよ、あいつ等誰だよ? 家に帰りたいよ! これからどうしたらいいんだよ!」
思いつく限りの言葉を吐き出して、その場で膝を抱えてケンは座り込んだ。もう、何がなんだかわからない。腹が立って、また涙が溢れてきていた。
彼女はしばらくそのままでずっと黙っていた。そしてゆっくり立ち上がり、ケンの肩に軽く手を置いて表情を変えないまま言った。
「行きましょう。そろそろこの辺りまで探しに来るかもしれない。バイクもここにとりあえず置いておくわ。二人なら歩きのほうが目立たないし」
それに、と少女はケンに向き直って続けた。
「あなたが知りたいこと、多分教えて上げられると思うから」
ケンは、どことなく悲しげな彼女の顔を見上げた。