第十一章
十一
ケンは、唸っていた。
体中がズキズキと痛い。服は破れ、その隙間からは血の滲んだ皮膚が見えている。背中もヒリヒリと痛む。多分大分擦れているのだろう。時間が経てば経つほど、痛みが増していく。
大男は歩いている途中に「腹が減った」と言い出し、途中で屋台に寄った。男はケンを屋台の脚に紐で縛って、油濃そうな肉料理を先ほどからずっと食べている。見るからの大食漢。まだまだ満腹になる気配はなさそうだ。
ケンは痛みに耐えつつ、大男の顔を伺う。食べるのに夢中でこちらには意識が向いていないようだ。他に客はいない、店主がいるだけだ。その事に気づいた瞬間、緊張が一気に体に走る。
『今なら、逃げられるんじゃ?』
心臓がドキドキする。同時に思う。
『逃げたりして、失敗したらどうする? どうせすぐ見つかる。やるだけ無駄だ』
二つの思いが交代で押し寄せる。緊張で顔が赤くなるのがわかる。
大男は尚も食べ続けているが、いつ席を立つとも限らない。
やるなら、今だ!
体中の血が一気に巡る。
逃げようと思えば思うほど、体が動かない。頭で考えれば考えるほど、見つかる恐怖に揉み消される。
どうする!?
だめだ。
いや、いけるか!?
でも!
何度も何度も何度も繰り返した。
しかし、時間の経過は負の連想に味方する。共に気力は失せ、頭の火照りも冷めていく。自分に嫌気がさし、言い訳をしたくなる。
逃げたって捕まってたさ。どうせ、無理に決まってた。
生きる為の苦労より、諦めることでの責任逃れの方が魅力的に見える。
ケンは、そう納得しようとしていた。体中の痛みが、落ち込む気持ちをも消し去っていく。
大男はしばらくして立ち上がる。
「あああ、腹いっぱいだ。待たせたな坊主。親分のとこはもうすぐ先だ」
と言いながら、ケンを繋いでいた紐を解こうと巨大な体をかがめた。
ケンは体を強張らせ、再開する苦痛に身構えた。
その瞬間。何かが頭上を越えていった気配。
ゴン。
音と共に、大男の顔が地面に突っ伏した。そのまま動かない。
誰か上の方から降ってきて、大男の頭をフンづけて行った……?
ケンは目を丸く開けたまま何事かと周りを見回す。すぐに屋台の店主の姿が目に入る。店主は驚いた表情でケンの後ろをただ見ている。
ケンが振り向く前に声が聞こえた。
「逃げるよ」
キン、という音と共に振り上げられた短剣が、ケンを縛っていた紐を断つ。
「こっち。走れる?」
と、その声は後ろから聞く。
「た、たぶん」
ケンはフラフラしつつも、膝に手を置き、なんとか立ち上がる。
まだ大男が地面とキスしているのを背中越しに確認しながら、とりあえず走る。
助けてもらった、のか。
ケンは笑う足をなんとか前に出しながら状況を確認する。
前を行くその後姿は、銀髪で、ケンより背の低い小柄な少年のようだった。身軽そうな体に、シャツをゆったりと纏っていて、腰には鞘に入った短剣が揺れている。
ケンは何かひっかかるような気持ちを抱えながらも、それを頭の中で紐解くような余裕もなく、置いていかれないようにがむしゃらに走った。
入り組んだ街を、暫く男について走った。大通りから一本入った路地で足を緩め、息を整える。あの大男なら走りは苦手だろう、ここまで追いかけてくるのは当分後になるはずだ。とりあえず、急場は凌いだという感じだった。
「ここでちょっと休もうか」
その言葉に、体中が悲鳴を上げていたケンは、すぐに座り込み、なんとか声を出す。
「はぁ、はぁ。あ、あの。ありがとうございます」
男は既に乱れのない声で答えた。
「敬語なんてやめろよ、気持ち悪いな」
この声。
「あれ?」
ケンはすぐ横に立つ、よく見知る顔を確かめようと立ち上がる。
「なかなかチャンスがなくて、助けるのが遅くなっちゃった。ごめんな、ケン」
「んあああああー!」
さっきから、何か聞き覚えのあるような声に、引っ掛かりを感じていたのは、これだったのか。
「ラウ・ジン!」
すっきりしたのと、びっくりしたのとで、つい大声が出てしまう。
「おいおい、そんな大きな声だすなよ、人目につくだろ?」
いけね、という表情で、片手で口を押さえようとするが、その動作に激痛が走った。情けない悲鳴が喉から漏れる。
「痛むだろ? それ」
ラウ・ジンの目線の先を追うように、ケンは自分の体を改めて見る。至る所が擦り傷だらけで、血も出ている。見るも痛々しい限りだ。
「まあ、痛いけど、擦り傷ばっかりだし大した事は……。っていうか! こんなところになんでお前が?」
ラウ・ジンは事もなく笑いながら言いのけた。
「実は、ずっとケンを追って来たんだ」
ケンはぽかんとする。
「追う? いつからだよ。ああそういえば、昨日デールさんも、お前が探しに来たって。昨日から?」
ラウ・ジンは変わらず笑顔のままで言う。
「もっとずっと前からだよ」
「……は?」
ケンはラウ・ジンとはよく話してはいたが、それは全てインターネットを介した空間であった。実際にどこに住んでいるのか、学校以外ではどんな生活をしているのか、なんて詳しく聞いたこともなかったし、直接会うのは、今日この時が初めてであった。思い返せば、ケンはラウ・ジンの何も知らなかった。
見慣れたはずの友人の顔が、その瞬間、鏡越しに見るときのように、どこかが歪んで見えた。
「どういう……事だよ」
ケンの顔に猜疑の表情が表れたとき、ラウ・ジンの肩越しにある顔が見えた。
「ケン!」
レンジだった。レンジはすぐに後ろに向かって叫ぶ。
「いたぞ! こっちだ!」
額に汗をにじませ、傍に寄る。
「ケン! 探したぞ。どこに行ってた……って、どうしたんだよ、おまえその格好!」
すぐにアッシュも追いついた。
「レンジ……、アッシュも……。なんでここに」
二人に会えてほっとするのと、反面、ばつの悪い気持ちもした。
アッシュは痛々しげなケンに顔を顰めつつも、冷静に問う。
「ケン、この人は?」
二人は揃って、LUVであろうその少年を見ていた。レンジにいたっては、あからさまに怪訝な表情を見せている。
「ああ、俺の友達、ラウ・ジン……。助けてもらったんだ」
ラウ・ジンは親しげに笑顔を向け、挨拶をした。
「俺はラウ・ジン。君はレンジかな? で、君がアッシュ。はじめまして」
三人は思わず顔を見合わせた。
「とにかく、ここにいると、あいつにまた見つかるかもしれない。どこかへ移動して、ゆっくり説明させてもらえない?」
二人はあいつ?と、いう顔だったが、ケンが頷くのを見て、仕方なく言葉に従った。
他に安全な所も見つからず、ケンの怪我の手当てを第一に、一行は隠れ家に向かうことにした。