隻手の音
ある小僧が、一念発起、出家して僧になり、山の中の禅寺に入った。
禅寺の老師は彼に言う。
「我が宗門は、主に座禅によって悟りを得ようとするものである。しかし、ただ座っているだけでは気が散りやすいものでもあるし、座禅をやる者には“公案”という問題を出して、その答えを考えてもらっている。君にも、座禅の間これを考えてもらおう」
「どうぞ、おっしゃって下さい」
と小僧。
「では、これだ。”隻手の音を聞け“…つまり、両手を叩けば、これこのような音がするが、片手を叩けばどのような音がするか?
私はこれから用事があって出かけてくるが、帰ってきたら答えを聞かせてほしい。夕方頃には帰ると思うよ」
そう言って老師は出かけていった。小僧は座禅をしながらじっと考える。しかし答えが分からないので焦りを感じ始め、またその焦りを抑え、努めて心を落ち着け、また考え…と繰り返した。
一時間ほどで座禅は終了したがまだいい答えが思い付かず、しばらくしてまた座禅を始め…とやっていると、突然すばらしい答えを思い付いた。
どう考えても、まさに正答としか思えないもので、小僧は随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、早くも悟りを開いたかのような気さえした。
答えがわからない間は、老師が帰ってくるのを不安に思っていたが、今は答えが言いたいので、早く老師が帰ってきてくれないかと思ったりした。
しかしなかなか帰って来ないので、庭の掃除をしようと思って外に出たが、浮かれていたせいで、苔むした飛び石に足を滑らせ、転んで頭を石にぶつけ、額が切れて血が出てきた。
小僧は驚き、動揺してしまい、動揺したことに動揺してしまい、あたかも心が乱され、心臓が裂かれ、両足をとらえられてガンジス川の彼岸にまで投げつけられたかのような気がして、がっかりして落ち込んで、すっかり意気消沈してしまった。
小僧が傷の手当てをしていると、老師が帰ってきて言った。
「どうだね、答えは分かったかね?」
「一時は、分かったように思いましたが」
と、小僧はしょげかえって言う。
「今では、それが分かったからといって何になろう、という気がいたします」
「そうだろうね」
と老師。
「だが無駄ではあるまい。君はこれからも精進することだ。
“つとめ励むは不死の道、おこたりこそは死への道”
と、釈尊も言っておられるからの」