07:踏み外しかけた
目の前で血まみれの叔父が何か叫んでいる。しかし、私の耳は彼の言葉を聞くことを拒否していた。事故の時の、クロエッツアの手が私の手をすり抜ける映像が叔父の顔に重なって見える。教会で見た、何の憂いも無いような、一見幸福な昼寝の最中であるかのような彼女の死に顔も。
数個の質問をするうちに、さすがの彼も私の物騒な雰囲気に気がついたらしく、そわそわとし始めた。その様子を見て私はようやく演技を全て止めて、証拠のリストを彼に投げつけた。そのリストを確認する叔父の顔はまず青くなり、続いて赤くなった。リストを確認し終えてから自分は無実だとわめき、内密に調査を進めた私を詰るので、煩くて聞いていられ無かった。その為、大口を開けてわめく彼の口に小さなナイフを投げつけた。最初の約束どおり、嘘をついたから舌を切ろうと思ったわけだ。ナイフは思いのほか上手く舌に刺さり、慌てて抜き取った叔父は大量の血を飛ばしながら私に命乞いをしはじめた。
「クロエッツアは命乞いさえ出来なかった」
私がそういうと彼は庶民の女と自分を同じ秤で比べるなと言い放った。この期に及んで、彼の選民思想には一分のかげりも見えなかった。もうこの騒音を出す醜いモノを1秒でも早く消し去りたい。そう思って懐から取り出したナイフを握り直した時だった。
――ドンッ――
鈍い音と共に私の頭に衝撃が走る。振り向く間もなく世界が暗転した。
目が覚めるとどこかの屋敷の客間に寝かされているようだった。シンプルながら天蓋つきのベッドは広くやけに寝心地が良い。身体を起こすとあまたがクラクラとした。後頭部に鈍い痛みが残っている。
「目が覚めたか?」
そう言ったのは私の良く知る人物だった。灰色の瞳はいつに無く剣呑な光を宿している。
「どういうことだ?」
「それはこちらのセリフだ」
私の怒りを飲み込みかのように、ジェラルドは静かな怒気を垂れ流している。武人である彼の本気の怒気に当てられては私のそれなど子どもの癇癪と少しも違わない。
「あの男はどうなった」
「警備隊が連れて行った。あのリストも一緒にな。既にお前の屋敷にあった証拠の押収が済んだ。数日と空けずに裁判になるだろう」
「やけに、手際がいいんだな」
「ずっと見張っていたからな。…私が王都に居たこと、神にでも感謝しろ」
ジェラルドの言葉は私の気持ちを逆撫でした。私は鼻で笑って見せる。
「どうして感謝などできるんだ。……どうして、私に決着を付けさせてくれなかった!!」
ジ ェラルドは足早にベッドに歩み寄ると、私の襟ぐりをつかんでベッドから引きずり出した。
「本気で言っているのか?」
彼は今まで見たことの無いような鋭い目を私に向けている。殺気にも似た視線だけで殺されてしまいそうな気がする。しかし、今の私に死ぬ事に対する恐怖は無い。
「本気だとも」
「そうか」
ジェラルドは私を床に立たせるとそのままやけに体重の乗ったこぶしを振りぬいた。それは見事に私の左頬に当たり、私は頭から壁に激突する。目の前でチカチカと星が瞬いた。口の中にじわっと血の味が広がるが、それが血の味だと気づけないくらいの衝撃だった。
「なにをする……」
そうそう言って立ち上がろうとしたが、ジェラルドを視線の端に捕らえた途端、今度は右頬に衝撃が走った。
「お前が犯罪者になったとして、夫人は喜ぶのか?」
ジェラルドの声が苦々しく響く。
「お前を犯罪者にするために、使用人達は昼も夜もなく情報集めに奔走したのか?」
目が回って立ち上がれない私を無理やり立たせると、ジェラルドは腹にもう一撃を入れた。
「シンディーレイラ嬢を犯罪者の娘にするつもりなのか?」
私は目の前がぼやけるのを感じた。頬に先ほどまでとは違うヒリヒリとした痛みを覚える。私はやっと防御を思い出した見習い兵のように座り込んだまま腕で顔を隠した。
「しっかりしろよ、ルーカス。自棄になるのは早すぎるだろう。お前にはまだ守らなければならない者がいるんだ」
ジェラルドは私の目の前にしゃがみ込んで肩に手を置く。その温かさが今の私には一番痛い。私は嗚咽が漏れないように歯を食いしばった。ポンポンと子どもを宥めるようにジェラルドは私の肩を数度叩いた。
馬車で送るというジェラルドの申し出を断り私は街を歩いた。すっかり夜がふけた街には明かりが少ない。帽子を目深に被れば顔の痣に気づかれる事もない。ジェラルドは早く家に帰れと言ったが、この顔ではさすがに帰れない。シンディーレイラが怯えるだろう。痣はともかく腫れが引くまで2、3日どこか宿でもとろうと思っていた。さすがに、今回の事を説明するにはシンディーレイラは幼すぎる。何か上手い言い訳を思いつく必要もあった。それに、ジェラルドの言うとおり、ここ数週間私はシンディーレイラの事を少しも慮らずに行動していた。その事で後ろめたさもあった。どんな顔をして娘の前に立てばいいのかわからない。ボロボロのまま、私はフラフラと歩いた。行く当てもないことがえらく寂しいかった。今までわざと家に戻らない日もあったのに、自分勝手なものだと自嘲する。痛む身体を引き摺りながら、結局私の足が向かったのはあの酒場だった。
素っ気無いドアを開けるといつものカウンターに男装のマゼンダが座っていた。私はなんだか彼女が私を待ってくれていたかのように感じた。私は帰るべき場所に正しく帰ってきたという様な安堵感が有った。彼女はこちらをみて驚き、慌てて駆け寄ってきた。私はその場で戸惑う彼女を抱きしめると、なんだかもう全てが馬鹿らしくなって、吠えるように泣いた。マゼンダを抱きしめながらクロエッツアの名を呼ぶ。マゼンダは怒る事も無く、そんな私を抱きとめてくれていた。
泣き叫ぶ私はかなり迷惑だったようで、いつかと同じように酒を持たされて追い出され、いつかと同じ安宿に部屋をとった。マゼンダは何があったのか一切尋ねずに、てきぱきと傷の手当をしてくれた。店主が持たせてくれた酒は度数が高く一応の消毒と痛み止め代わりになった。宿から手桶と小さな布を借りて腫れた頬や熱を持った後頭部を冷やす。終始無言で向かい合っていたが、定期的に私の目じりに溜まる涙をマゼンダは飽きもせずに拭ってくれた。涙がこぼれる前にそっと細い指で拭われて、困ったような励ますような、小さく灯る明かりのような微笑を向けられた。私はそんな彼女の指先に小さく触れるだけのキスを落とす。するとマゼンダは何かに耐えるように一瞬震えてから、おずおずと私を抱きしめてくれる。その感触があまりにもクロエッツアとは違う事に、私はほっとため息をつく。
手当てが終わると、彼女はてきぱきと後片付けをした。その様子はとても貴族の夫人には見えない。彼女はどうして家事に慣れているのだろうか…私には想像もできない。
「ごめんなさい」
彼女の発した言葉に私ははてと首を傾げる。謝るのは私のほうだと思う。かなり迷惑をかけてしまった。
「約束を守らずにごめんなさい」
彼女は言葉を重ねるが、それでも私は一瞬何の事か分からなかった。が、次の瞬間あの酒場に居た事を指しているのだと気づいて、彼女をいじらしいと感じてしまった。