magenta side④:思い出は酒
やっとルーカス様と再開できた日、私は言葉を失ってしまいました。もちろん再開の喜びの為……ではありません。彼がとんでもない姿をしていたからです。顔には殴られた後があり、服には所々血が飛び散っていました。いったいどんな死地を潜り抜けて来たと言うのでしょう。私を見て目を見開き立ち尽くす彼に駆け寄ったのは、自分自身意外でした。私の意識できるより深い部分で彼を助けなければと思いが沸き上がり、体を勝手に動かしたようでした。
目の前に立った私をルーカス様は次の瞬間抱きすくめ、それから声をあげて泣き出しました。泣くなんて可愛いもんじゃ無かったかもしれません、彼は吠えていました。流れ落ちる涙を隠すことも拭うことも知らないかのように。その無様な泣き方に不覚似も胸をキュンと締め付けられます。嗚咽混じりに今は亡き奥様の名前が聞こえます。あぁ、この人はきちんと愛を知っている人だ……妙な安堵感がありました。私は彼の涙を全て受けとめるつもりで体の力を抜き、彼の肩を諫めるように撫でました。
しばらくして、ルーカス様の勢いが少し衰えた頃、ふと視線を感じて振り向くと、酒瓶を差し出す格好をした店主がすぐ脇に立っていました。今のところ他には誰も居ませんが迷惑をかけていることに変わりありません。店主の態度はぶっきらぼうですが、それでも、私が気付くまで声をかけないで待ってくれていたのですから、ずいぶん優しい対応をしてくれたと思います。私はありがたく酒瓶を受け取るとなんとかルーカス様を宥めて店を出ました。
以前と同じ安宿に部屋をとり、怪我の治療をし終えても、ルーカス様の瞳はポロリポロリと涙を流し続けていました。なんだか、彼の目が壊れてしまったようだと思いながら私は涙を拭わない彼に変わって、彼の涙を受け止め続けました。私が涙を拭うと、彼は私を今見つけたとでも言うような目で眺め、それから涙に濡れた指先に唇を寄せました。それが律儀なお礼の様で……私は私達の間にどうしても存在し続ける壁を感じるのでした。手が届いているのに触れられない、目が合っているのに通わない、そんなもどかしさに思わず彼を抱き締めて、その度に小さく後悔するのです。私ではクロエッツア様――彼が何度も呼ぶので覚えてしまいました――にはなれないのだと、傷心の彼に残酷な事実を叩きつけているような気分になるのです。
結局、彼が話しませんでしたので、彼の怪我について詳細は分かりませんでした。彼が酒場になかなか現れなかったのも何か関係しているのかもしれません。 痛み止め代わりに度数の高い酒を飲んだせいか、ルーカス様は少し落ち着くとベッドで眠ってしまいました。私は熱をもって腫れているあざを冷やす為に、時々タオルを絞りなおして彼の頬に当てます。落ち着いた寝顔が見え始めると、帰ろうと思いましたが、なかなか腰をあげることが出来ませんでした。結局、その日は一晩彼に付き合い、彼が目を覚ましてから家に戻ったのでした。
2度目の朝帰りをすると娘達が仁王立ちで待ち構えていました。私はその様子を見て、張り詰めていたものが急に解けていくのを感じます。ふと気が抜けて、涙が転がり落ちるのを止められませんでした。泣きながら娘達に縋り付く私に、彼女らは戸惑い、怒りもどこかに行ってしまったようです。私はお腹の子の父親とようやく会えた事、彼が大怪我を負っていて宿で看病していた事、お腹の子どもについては話せ無かったこと、きっと話さなくても大丈夫だと思ったを正直に話しました。娘達はそれぞれに喜色を浮かべたり、青ざめたり、頬を赤らめたり、と素直に反応しながらも私の話を黙って聞いていました。私は誰にも何も告げず王都を去ることを決めました。
「私達も一緒に行って良いんでしょう?」
付いてきてくれるかと訪ねる前に2人からそんな風に聞かれました。涙で2人の微笑みが滲むのを、勿体ないような気分で見ることしかできませんでした。
食事などを差し入れするために数度宿を訪れましたが、日が暮れる前に家に帰るようにしました。ルーカス様は少し寂しそうに見えましたが、それは私の願望がみせる幻でしょう。順調に回復されて、3日目の朝には彼は宿を出て屋敷に戻ると言いました。私達はもう二度と会わないと再度約束をしました。この約束は破られる事は無いでしょう。準備が出来次第私は王都を離れるのですから。
もう数日で準備が整うだろうという頃、彼との約束はまたも破られてしまいました。
「結婚してくれないか?」
彼の言葉が上手く理解できず、私は床に手をついたまま呆然と彼を見つめました。今まで子どもを堕ろせと迫っていた口で何を血迷っているのでしょうか?
「そのように、からかうのはおやめ下さい。」
「からかってなど居ない。結婚しよう。」
彼の手がそっと労わるように私に触れるので、私は顔に熱が集中していくのを感じます。
「どうして、今の今までこの子を産むのを反対されていたではないですか?」
私がそういうと彼は困った子どもを見るような顔をして私を見下ろしていました。
「何をどう聞いたらそうなるんだ……?」
「つい先ほど、いくら子爵の遺産があっても子ども3人育てるのは厳しい、ろくに教育もできないと言ったのは貴方ではありませんかっ!子どもを産むなということでしょうっ!!」
私はついに口調を荒げてしまいました。無様に怒る私の頭を撫でながら、彼は小さくため息をつきます。
「貴方だけで、子どもを3人も養うのは難しいと言ったつもりだ。つまり、私と一緒に育てようと……そういうつもりで言ったのだ。すまない。」
彼の言葉を聞いて心が浮き立ちます。その浮き立った分だけ疑念もわきます。
「信じられません。」
私は彼の手をそっと振り払いました。
「これが嘘だとして、私に何のメリットがあるというんだ?」
「男の人の考える事などわかりません。頭の悪い女をからかって遊んでいるのでしょう!お引取り下さい。」
私は立ち上がって彼を扉の方に押しました。
「いや、マゼンダ……だから、ちがうって……」
その時、扉が開いて、慌てる彼と私の間に娘達が飛び込んできました。
「お母様をいじめないで!」
「この、ヒトデナシ!!」
幼い娘達はそういうと容赦なくルーカス様を追い払います。よく見ると、手にはほうきやフライパンを握り締めています。結局娘達の剣幕に負け、ルーカス様はまた来ると言い残して家を出ました。私は2人の娘をギュッと抱きしめます。きっと知らない男性の前に立つのはそれだけで緊張したでしょうに、彼女らの勇気と優しさに感動さえ覚えます。3日後、親子そろってルーカス様の必死の説得に応じ、この非礼を謝る事になるとは、この時の私達は想像すらしなかったのでした。
互いに2度目の結婚、しかも既におなかに子どもが居る……ということで結婚式などは行なわず、宣誓書を交わすだけの簡単な手続きを経て、私達は夫婦となりました。現子爵様には結婚後事後報告という形をとりました。互いの気持ちが固まり、結婚にむけて家の状況などを話し合った際、報告は早いほうが良いかと慌てる私を止めて、婚前に報告して何か妨害でもされては面倒だから夫婦になってから報告しようとルーカス様が決めました。そんな彼を私は心配性だなと思います。けれど、彼がそれで良いというのですから私に否やはありません。
いつもの月に一度の訪問の日、変わらずに訪れた子爵様は、ルーカス様が連れてきた伯爵家のベテラン侍女達の出迎えに目を白黒させながら居間に案内されました。上座にどっかりと座る私を睨みつけ、けれどもそれ以上の迫力で彼を迎えたルーカス様を見て慌てています。ルーカス・クランドール伯爵……少なくとも貴族であれば、よっぽどで無い限り、彼の顔と名前を知らない者は居ません。私の着席する前で名を名乗る屈辱に顔を歪ませながら、なんとかルーカス様に向かって挨拶を述べています。一通りの挨拶が終わる頃、侍女達がお茶とお菓子を用意してテーブルに並べました。いつもと同じ品々ですが、一流の侍女が入れた為か、お茶は別物のように芳醇な香りを放っています。
「ブリジアン様、私、こちらの方とこの度結婚しました。かねてよりお勧めいただいていた通り、頼れる男性を見つけることができましたの。これまで最低限の生活を保障してくださってありがとうございます。」
私は居間の上座に座ったまま一気にそういうと、となりのルーカス様に微笑みかけます。この言葉、この仕草、今日の設えや衣装共にルーカス様の提案通りです。私は今まで着た事も無い様な肌を見せるタイプのドレスに身を包んでいます。むき出しの肩は少々寒いですが、ルーカス様がそっと手を置いてぬくもりを分けてくれます。鎖骨辺りには大きな宝石をあしらったネックレスが輝いていて、私にはもったいないくらい華麗です。顔も髪も伯爵家の侍女達によって手入れされ、私は初めて鏡に映る自分を美しいと思いました。色は全てワインの様な赤。私の髪に合わせたそれらは落ち着いていながら情熱的で、華やかでありながら深みのあるそんな色をしていました。私達のそばには娘達は居ません。でも呼ばれればすぐに出て来られるように待機しています。彼女達もこの日の為にルーカス様が用意してくれた華やかなドレスを着ています。細く背の高いローズは、体に沿うシンプルな形ながらゆったりとしたドレープが美しいラインを描く、椿の様な落ち着いたピンク色のドレスを、背が低く少々肉付きの良いルビーは、腰からふんわりと膨らむスカートにレースやフリルをふんだんに重ねた、向日葵の様に元気なオレンジ色のドレスを着ています。あの可愛らしい姿を見れば、きっと子爵様も彼女達を蔑ろにした事を後悔するでしょう。
うっとりとルーカスを見つめる――演技をしている――私を、我に返った子爵様は顔を真っ赤にして罵倒しました。年増、淫乱、身の程知らず、恩知らず、恥さらし、等々……彼が知っているだろう罵詈雑言が出尽くした頃、静かに静かにルーカス様が声をかけます。
「それは、我妻に向かって仰っているのかな?」
私には彼の横顔しか見えませんが、その目に剣呑な光が宿っているのは十分わかります。ブリジアン様は子爵、ルーカス様は伯爵、私は既に伯爵夫人……子爵と伯爵夫人どちらが公式な立場が上なのか私にははっきりとは分かりませんが、夫の目の前で妻を愚弄するのは、すなわち夫を愚弄しているととられてもおかしくありません。子爵様は真っ赤な顔を真っ青にして口を噤みました。目の前の男性がクランドール伯爵だという事と、既に私が彼の妻となって居る事を今やっと実感を伴って理解されたのでしょう。
「あぁ、そうだ。今までの彼女達の生活費については私が返済しましょう。」
言葉を無くした子爵様の変わりにルーカス様がゆっくりと言葉を紡ぎます。彼がパンパンっと手を叩くと侍女達が大きな盆に載せた金貨を運んできます。ざっと今まで子爵に貰った金額の3倍以上あります。実はこれ、私がセルリアン様に頂いた遺産を換金したものの一部です。再婚することになり、子爵家の財産を私が持っているのは筋が通らないだろうと、娘達とブリジアン様の3人で当分したのです。正直に説明しては全てよこせとごねられてしまうでしょうから、ブリジアン様の分はこちらで換金して適当な理由をつけて彼に渡す事にしました。その額を見て、ブリジアン様は汗をダラダラとかいています。自分の渡した額以上だと一目で分かり、どんな無理難題を押し付けられるのだろうと冷や冷やしているのでしょう。
「今後一切、マゼンダにも娘達にも関わらないと念書にサインを下さるかな?」
「え?いや、あの……はい」
「あぁ、そうそう、彼女の実家からは既にこのような書類を頂いているのでね、心配なさる事はない」
「は、はい」
「本当に、今まで彼女らが世話になったね。もうこれで何も気に病むことはなくなった。これからは奥方と領民のために過ごされるといい。」
ルーカス様の有無を言わさぬ言葉に、ブリジアン様は涙目になりながらコクコクとうなずくのでした。要は今後一切私達と関わろうと思うなと言っているのです。それだけを約束させる為に念書まで用意するとは、ルーカス様はやはり心配症です。私はというと、いつまで演技を続ければいいのかと、彼にしなだれかかるために無理な体勢になっている自分の体を眺めるくらいしかすることがありません。あとで腰が痛くなりそうだと恨みを込めてルーカス様を見つめますが、彼はそれを無視して、更に私を引き寄せました。テーブルの向こうでは子爵様が唇を噛んでいます。真っ白になった唇を見て、私は初めて子爵様に同情するのでした。彼は私の息子でもあったのだ……と愛おしい様な気持ちまで沸くのですから女とは分からないものです。けれど、もし、互いに上手く歩み寄ることができていれば、セルリアン様とブリジアン様と私とでお酒を酌み交わす事すらできたのかもしれないと想像して、そうできなかった過去を懐かしいものと感じるのでした。
これにてマゼンダ視点完結です。
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ブリジアン子爵はマゼンダを愛人に……と思っていたのですけど、結局最後まで彼の思いは届きませんでしたね。愛人に……という思いに恋や愛が含まれていたのか否か、知る由もありません。




