夫が隠し子を跡継ぎにしました。では、すべて失っていただきます。
「この子を、侯爵家の跡継ぎにする」
夕食前、夫がそう宣言した。
隣には見知らぬ若い女性。その腕には一歳ほどの男の子がいる。
「……どなたですか?」
「私の息子だ。母親はミレーヌ。二人とも今日からここで暮らす」
子供は赤茶色の髪に緑色の瞳。黒髪で灰色の瞳の夫にも、金髪で青い瞳のミレーヌにも似ていない。
祖父母の特徴かもしれない。それより確認すべきことがあった。
「私たちの結婚後に生まれたお子様ですね?」
「ああ。ミレーヌは私の愛する女性だ」
私が妊娠、出産、育児に追われていた頃、この人は別の女性と愛を育んでいたらしい。
「それで、跡継ぎとは?」
「ミレーヌの息子を嫡男にする。アルベルトには譲ってもらう」
アルベルトは私が産んだ二歳の息子だ。最近ようやく、一人で階段を上れるようになった。
「理由を伺っても?」
「愛する女性との子に家を継がせたい。それだけだ。それに、お前は公爵家の娘だ。アルベルトを連れて実家に戻れば困るまい」
「離婚なさるのですね?」
「ああ。ミレーヌを妻に迎える」
ミレーヌが嬉しそうに微笑んだ。
「申し訳ありません、奥様。でも、私たちは本当に愛し合っているんです。アルベルト様にも、きっと新しいお父様が見つかりますわ」
新しい父親が必要かは、今決めることではない。
少なくとも、目の前の父親は必要なさそうだった。
「承知しました。離婚も廃嫡も、正式に手続きをお願いいたします」
「……本当にいいのか?」
「ええ。ただし確認させてください。アルベルトを侯爵家の跡継ぎから外す。後から撤回はできませんよ?」
夫は眉を寄せた。
「何度も言わせるな。撤回などしない。さっさと書類を用意しろ」
「かしこまりました」
◇
翌朝、私は執事長を呼んだ。
「旦那様が嫡男を変更なさいます。王都の法務官を手配してください」
老執事は言葉を失った。
「……本当になさるのですか? アルベルト様は……」
「私が引き取ります」
侯爵家に三十年以上仕える彼は、家の財政事情を誰より知っていた。
「旦那様は、契約のことをご存じなのでしょうか」
「結婚時に説明し、署名もいただいています」
「改めてご説明した方が……」
「法務官から説明があるでしょう。私も撤回できないとお伝えしました」
執事長は深く息をついた。
「……承知いたしました」
◇
三日後、法務官が到着した。
応接室に並んだ書類は三通。
離婚合意書、アルベルトの廃嫡申請書、そしてミレーヌの息子を認知し、新たな嫡男とする申請書だ。
「侯爵閣下。嫡男の変更は王家の承認後、原則として取り消せません。また、現在の嫡男の地位を前提とする契約にも影響します。公爵家との資金援助契約などが――」
「それは離婚の話だろう。妻の実家が継承に口を出す筋合いはない」
「いえ、契約条件として――」
「もういい。署名すれば済むのだろう?」
「契約書の確認を強くお勧めします」
「必要ない」
夫は三通すべてに署名し、侯爵家の印章を押した。
法務官は書類を回収した。
「王家へ申請いたします」
ミレーヌが夫に抱きつく。
「これで私たちの子が侯爵家を継げるんですね!」
「ああ。何不自由ない暮らしをさせてやる」
私は法務官に尋ねた。
「承認はいつ頃でしょう?」
「通常十日ほどですが、今回は早ければ五日です」
「ありがとうございます。では、引っ越しの準備をいたします」
夫がうなずいた。
「そうしてくれ。ミレーヌの部屋も必要だ」
「私の部屋をお使いください」
「ありがとうございます、奥様!」
ミレーヌが微笑んだ。
「どういたしまして」
あの部屋の家具は私の持参財産なので、全部持っていくけれど。
◇
五日後、王家の承認が下りた。
アルベルトの廃嫡と、新しい嫡男の認定が正式に成立した。
私は実家へ使いを出した。
翌日、父が迎えに来た。
「久しぶりだな、エレナ」
「お父様。ありがとうございます」
「孫を迎えに来るのに礼などいらん」
父はアルベルトを抱き上げた。
「おお、大きくなったな!」
「じいじ!」
「そうだ、じいじだぞ」
二人とも嬉しそうだった。
「エレナ、手続きは済んだのだな?」
「ええ。王家の承認も下りました」
「そうか。では契約どおりに処理しよう」
そこへ夫が現れた。
「公爵閣下。わざわざ恐縮です」
「娘と孫を迎えに来ただけだ。それにしても、思い切った決断をしたものだな」
「私には愛する女性がおりますので」
「そうか」
父はそれ以上言わなかった。
夫が立ち去ろうとしたとき、ふと思い出したように尋ねた。
「そうそう。君が連れてきた子供は、赤茶色の髪に緑色の瞳だったな?」
「ええ。それが?」
「王都の商人によく似た男がいる。確かミレーヌという女性と親しかったはずだが」
夫の足が止まった。
「……何という男ですか?」
父が名前を告げると、夫は考え込んだ。
「知り合いか?」
「いえ……」
「そうか。勘違いかもしれんな」
夫は無言で立ち去った。
「お父様。その商人をご存じなのですか?」
「商談で何度か会った。よく似ていたので思い出しただけだ」
「そうでしたか」
それ以上は尋ねなかった。
アルベルトの荷物をまとめなければ。
◇
その日の午後、夫が私の部屋に飛び込んできた。
家具も絨毯も運び出した、壁と床だけの部屋だ。
「エレナ! 公爵家から融資の更新を打ち切ると通知が来た! どういうことだ!」
「契約どおりですわ」
「あの金がなければ領地の事業が止まる!」
「存じております。三年前の資金援助契約を覚えていらっしゃいますか?」
「それがどうした!」
「当時、侯爵家には多額の負債があり、鉱山事業も赤字でした。税収では利息すら払えなかった。そこで公爵家が負債を整理し、再建資金を提供したのです」
「だから何だ!」
「条件は、公爵家の血を引く私の子供が侯爵家の継承権を持つこと。将来アルベルトが家を継ぐからこその援助でした」
夫は眉をひそめた。
「そんな話は聞いていない!」
「結婚前に説明しました。こちらが契約書です」
私は写しを差し出した。
夫は最後のページにある自分の署名を見て、黙り込んだ。
「アルベルトが廃嫡された以上、公爵家には援助を続ける理由がありません。契約にも、継承条件が失われた場合は次回の融資を更新しないと明記されています」
「それでは侯爵家が破産する!」
「そうかもしれませんね」
「お前、最初からこれを狙っていたのか!」
「いいえ。私はアルベルトを廃嫡してほしくなかった。だから何度も確認しました。法務官も契約を確認するよう勧めていましたね」
夫は何も言えなくなった。
「それでも、あなたは必要ないとおっしゃいました」
私は契約書を受け取った。
「ご自身でお決めになったことですわ」
◇
夕方、今度はミレーヌが訪ねてきた。
「奥様! 侯爵様が領地を売らなければならないかもしれないと!」
「そうなるかもしれませんね」
「そんな! 私は侯爵夫人になるんですよ!」
「おめでとうございます」
「おめでとうじゃありません! 王都の屋敷で暮らして、舞踏会に出て、宝石も好きなだけ買えるって!」
「どなたのお約束ですか?」
「侯爵様です!」
「でしたら侯爵様にお尋ねください」
「でも、あなたの実家がお金を出していたんでしょう! これからも出してもらえばいいじゃありませんか!」
「なぜでしょう?」
「侯爵家が困るじゃありませんか!」
「それが?」
ミレーヌは口を開けたまま固まった。
「私もアルベルトも、もう侯爵家の人間ではありません。あなたとお子様が新しいご家族です。ご自分たちの家のことは、ご自分たちでなさってください」
「そんな……聞いてない……」
「そうでしょうね」
私は微笑んだ。
「私も、あなた方のことは聞いておりませんでしたから」
◇
引っ越しの日。
玄関には馬車が三台並んでいた。
一台は私とアルベルト用。残り二台は持参財産を運ぶためだ。
家具、絵画、食器、宝石。公爵家から持参したものは、すべて私の所有物である。
夫が荷物を見つめていた。
「……そこまで持っていくのか。屋敷が空っぽになるぞ」
「新しい奥様がお好きな家具をお選びになればよろしいかと」
「そんな金がどこにある」
「存じません」
私がアルベルトを抱き上げると、夫が声を落とした。
「エレナ。融資の件だが、父上に頼んでくれないか。せめて一年だけでも援助を続けてほしいと」
「理由は?」
「侯爵家を守るためだ!」
「新しい奥様と跡継ぎがいらっしゃいます。お二人とご相談ください」
「ミレーヌに何ができる!」
夫が叫ぶと、玄関の奥からミレーヌが顔を出した。
「……どういう意味ですの?」
「いや、違う!」
「私には何もできないとおっしゃったの?」
「今はそんな話をしている場合ではない!」
「では、いつならいいんですの!」
口論を始めた二人を横目に、私は馬車へ向かった。
「待て、エレナ!」
夫が再び呼び止めた。
「アルベルトを、もう一度嫡男に戻せばいいのではないか? そうすれば契約も元に戻るだろう!」
「王家が承認した廃嫡は、原則として撤回できません。それに、あなたはアルベルトを必要ないとおっしゃいました」
「事情が変わったんだ!」
「何の事情が?」
夫は黙った。
「アルベルトが必要になったのですか? それとも、公爵家のお金が必要になったのですか?」
答えはなかった。
「あなたは息子だけでなく、息子についてくるお金まで捨てたのです」
夫は立ち尽くした。
「では、ごきげんよう」
私は馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる直前、ミレーヌの怒鳴り声が聞こえた。
「あなた! 話が違うじゃありませんか!」
馬車が動き出し、夫の返事は聞こえなかった。
◇
公爵家に戻って一か月。
侯爵家の鉱山は資金不足で操業を停止した。
融資更新が打ち切られ、ほかの商会も取引条件を厳しくしたという。
夫は王都の別邸を売却したが、それでも足りず、領地の一部も売ろうとしているらしい。
「思ったより早かったのですね」
父から報告を受け、私はそう答えた。
「もともと余裕のない経営だったからな。ただし、公爵家が損をするわけではない。古い負債は整理済みで、これまでの融資も契約どおり返済されている。止めたのは次の事業資金だけだ」
「それなら安心しました」
「それと、例の子供のことだが」
「何かわかったのですか?」
「元夫が自分で調べたらしい。あの日話した商人を覚えているか?」
「ええ」
「やはり、あの男の子供だったそうだ」
「……そうでしたか」
「ミレーヌが以前暮らしていた屋敷の使用人から、当時の交際関係がわかった。商人との手紙も残っていたそうだ。本人も、侯爵家の跡継ぎにすれば安泰だと思ったと認めたらしい」
「では、旦那様は?」
「虚偽の申告だった証拠を添えて、王家に認知と継承記録の訂正を申し立てた。そちらは取り消されたよ」
「アルベルトの廃嫡は?」
「別件だ。元夫自身の意思で行ったものだから、取り消されない」
父はお茶を置いた。
「ミレーヌは子供を連れて屋敷を出た。婚姻手続きも取りやめたそうだ」
「そうですか」
夫は実子を廃嫡し、愛人の子を跡継ぎにした。
ところが、その子は夫の子ではなかった。
今の侯爵家には、正式な跡継ぎがいない。
「……随分と、いろいろなことが起きたのですね」
「そうだな。まあ、我々にはもう関係ないことだ」
「ええ」
私はお茶を一口飲んだ。
本当に、そのとおりだった。
◇
数日後、侯爵家から忘れ物が届いた。
アルベルトが生まれた直後の肖像画を収めた、小さな銀の写真立てだ。
届けてくれたのは、かつての執事長だった。
「ありがとうございます。侯爵家は、その後いかがですか?」
「……実は、私も今月でお暇をいただきます。使用人の給金も難しくなり、旦那様が希望者の退職を認められました」
「長い間、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
執事長は頭を下げた。
「昨日、最後の家具が運び出されました。旦那様が売却なさったのです。王都の屋敷も、近く手放すことになるでしょう」
「そうですか」
「私が最後に見た旦那様は、広間にお一人でいらっしゃいました。椅子も机も絨毯もない、何もない広間の床に座り込んで……退職のご挨拶をしても、返事はありませんでした」
私は黙って聞いた。
夫は自分の意思で妻と実子を捨て、愛人とその子を選んだ。
そして、何も残らなかった。
「執事長。次のお仕事はお決まりですか?」
「いえ、まだ……」
「でしたら、父に相談してみましょう。公爵家でも経験豊かな方を必要としているはずです」
執事長は驚いた。
「よろしいのですか?」
「もちろん。長い間お世話になりましたから」
「……ありがとうございます」
私は微笑んだ。
「こちらこそ」
◇
執事長を見送った後、庭へ出た。
秋の日差しが花壇を照らしている。
「かあさま!」
アルベルトが乳母の手を離れ、駆け寄ってきた。
私はしゃがんで息子を受け止める。
「どうしたの?」
「おはな!」
小さな手には白い花。
茎は折れ、花びらも一枚取れていたけれど、どんな宝石より美しかった。
「ありがとう。とっても綺麗ね」
アルベルトは嬉しそうに笑った。
私は息子を抱き上げた。
この子はまだ二歳。
侯爵家の跡継ぎになる必要も、誰かの期待を背負う必要もない。
何になりたいのか。誰を好きになるのか。どんな人生を歩むのか。
大きくなってから、自分で決めればいい。
私はその未来を守りたい。
「かあさま、だいすき!」
アルベルトが首に抱きついた。
「私も大好きよ」
私は息子の頬に口づけた。
夫は愛する女性と、その子供を選んだ。
私は愛する息子と、その未来を選んだ。
お互い、自分の意思で選んだのだ。
その結果は、それぞれが引き受ければいい。
あの人が選んだ人生の請求書を、私たちに回さないでいただきたい。
私と息子は、もう十分に幸せなのだから。




