私との婚約を捨てた王太子様、国の支払いも自力でお願いします
交易国家アルセリアでは、王宮の台所は王家だけのものではなかった。
港で荷を降ろす商人、国境に兵糧を運ぶ馬車組合、冬に備えて穀物を買い上げる領主たち。
その全員に、いつ、どの貨幣で、何を支払うかを知らせる必要がある。
クラリス・ヴァルディア公爵令嬢が十歳で王太子レオンの婚約者になったとき、父は一冊の厚い帳簿を彼女に渡した。
ヴァルディア家は三代前から、諸領の収穫と港の荷動きを王宮へ報告する役目を負っていた。
王家が命じ、各家が出した情報を、実際の支払いと輸送に結び直すのが公爵家の仕事だった。
クラリスは婚約者教育の合間に算術を学び、十二歳で麦の不足を見つけ、十四歳で北方砦への石炭便を増やす案をだした。
レオンは会議の席でうなずくだけだったが、クラリスはそれでよいと思っていた。
いずれ彼が王となるなら、彼の言葉が国の隅々まで届くようにしておきたかった。
十六歳の冬には、港の塩商会が約束した銀貨を待てず、輸入小麦を他国へ回そうとしたことがある。
そこで、クラリスは南部三領の税の受け取り日を二日早め、代わりに春の羊毛取引の関税を一部猶予する案をだし、レオンにその案を伝えた。
それでも彼はいつも通り「検討する」といい、さっさと夜会に行ってしまったため、両親や財務大臣と相談し、王太子の名を使って、案を実行した。
塩商会には半額を先に払い、残りは橋梁修繕費から短期で借りる。
橋の工事を止めずに済んだのは、同じ週に公爵領の石材船が空になると分かっていたからだった。
そんな調整は、王宮の一人の会計官だけではできない。
港の監督官、各領の家令、馬車組合、王家の法務官へ、誰がどの条件を了承したかを伝えなければ、次の荷は動かない。
クラリスは数字を決める前に、必ず相手の困りごとを帳簿の余白へ書いた。
会議で発言しないレオンの代わりに、彼の王国が何に困っているかを覚えておくためだった。
その思いは、卒業夜会の真ん中で粉々になった。
「クラリス。君との婚約を解消する」
音楽が止まり、広間にいた貴族たちが一斉にこちらを見た。
レオンの腕には、伯爵令嬢ミレアがすがるようにして立っている。
「君は地味で、可愛げがない。王太子妃には、もっと国民を明るくする人が必要だ」
クラリスは指先を組み、ゆっくりと頭を下げた。悲しいより先に、明日の支払日が浮かんだ。
「承知いたしました。婚約解消の書面は、王宮法務官を通していただけますか」
「ああ。ようやく分かったか」
「はい。あわせて、王太子妃補佐として委任されていた予算調整と物資配分の職務も、明朝をもって返上いたします」
レオンは軽く手を振った。
「そんなものは、会計官がやればいい」
「では、担当者の名を決めておいてくださいませ」
クラリスは最後まで微笑んだ。
公爵令嬢としての礼を失わず、父の待つ馬車へ乗った。
翌朝、ヴァルディア家の職員は王宮の作業机から、契約控えと運送予定表をすべて引き上げた。
王宮に残したのは、今月末までに支払うべき請求書の束と、各案件の担当欄が空白の一覧だけだった。
一覧の最上段には、王都の食糧庫に残る小麦は十二日分と赤い字で書かれていた。
その下には、春の種まき用の種子を買う南部領主の名、外交使節を乗せる船の出港日、北方砦で交換が必要な毛布の数まで続いている。どれか一つを遅らせれば済むように見えて、実際には別の町で同じ銀貨が足りなくなる。
王宮の若い書記は、空欄を見て「会計官へ回せばよい」と言った。
だが会計官は、帳簿の数字しか持っていなかった。
港の船主が二日待てるのか、南部の領主が税を早く納められるのか、馬車組合がぬかるみを避けるためにどの道を選ぶのか。
その答えは、クラリスが十年かけて育てた信頼の中にしかなかった。
最初に止まったのは、王都のパン屋へ渡す小麦の代金だった。
商人は代金が確約されなければ港の倉庫を開けない。
次に、南部の染料商会が外交使節への贈答品を出せないと告げた。
海賊被害で高騰した保険料を、どの予算から補うか決める者がいなかったからだ。
三日目には、北方砦から緊急の早馬が届いた。
石炭を運ぶ馬車が、雪解けでぬかるむ道を避けるための迂回費を受け取れず、出発していないという。
王宮会議で、レオンは会計官を怒鳴った。
「支払いを出せば済む話だろう!」
「殿下、同じ銀貨を三つの契約に使うことはできません」
老会計官は青ざめた顔で答えた。
「小麦代は港湾税の前借りで払えますが、それをすると春の橋梁修繕が止まります。修繕を後回しにすれば、北方への石炭輸送が危うくなります。クラリス様は、領主の納税時期と商会の信用枠を照合し、先に運ぶべき物だけを決めておられました」
レオンは初めて、クラリスの机に積まれていた色違いの帳票を思い出した。
青は穀物、赤は輸送、金は外国商会。
彼女は夜会で踊る代わりに、何度も数字を並べ替えていた。
それでも彼は、彼女に「無理をするな」と声をかけたことがなかった。
クラリスが会議の後に温かいお茶を飲みながら、商会への返書を書いている姿を、王太子妃になるための地味な勉強だと思っていた。
国を支える仕事に名がついていなかったから、彼には見えなかったのだ。
王は事態を聞き、ヴァルディア公爵へ使者を送った。だが返事をしたのはクラリス本人だった。
「王宮から委任された職務は、婚約の解消とともに返上いたしました。公爵領には領民の備蓄と春の種まきがございます。王宮のお手伝いをする余裕はありません」
使者が必死に頭を下げると、彼女は一枚の契約案を差し出した。
「ただし、王宮が公爵家へ正式に業務を委託なさるなら、お受けします。作業者の賃金、責任の所在、支払い日を明記してください。婚約者だから無償で担う仕事ではありませんので」
その契約には、王宮がこれまで曖昧にしてきた費用がすべて並んでいた。予算調整室の常設、輸送路の確認、非常時の備蓄。どれも国を動かすために必要で、誰かが当然のように背負っていたものだった。
レオンは署名の前で手を止めた。
「クラリスは、こんなものを十年も」
「十年、誰にも見せずに整えてくださいました」
会計官の声は静かだった。
「殿下がご自分の手柄として民へ話せるように、と」
その夜、レオンは誰もいない執務室で帳簿を開いた。
余白には小さな字で、港の子どもたちへ配る冬のスープ代、洪水で作付けを失った村への種子代まで記されている。
地味で可愛げがないと笑った令嬢は、彼が知らない国民の顔を、ずっと数字の向こうに見ていた。
翌月、王宮はヴァルディア家と正式契約を結んだ。
クラリスは王太子妃ではなく、王国の物流顧問として初めて王宮へ戻った。
新しく設けられた調整室には、王家の会計官だけでなく、港の監督官と領主の代理人も月に一度集まることになった。
クラリスは、誰か一人の婚約者が黙って抱える形ではなく、支払いの優先順位と非常時の備蓄を全員の前で決めた。若い書記には、帳簿の数字の横へ「待てる日数」と「代わりの道」を書かせた。
仕事を見える形にすると、以前なら見過ごされていた小さな声も会議へ届いた。
港の荷運び人が雨期の安全靴を求め、北方の村長が毛布の枚数を知らせる。
クラリスはそれらを予算の余白ではなく、国を守るための項目として扱った。
レオンが会議室の前で深く頭を下げても、彼女は以前のようには笑わなかった。
「仕事の話をいたしましょう、殿下。今度は、誰の負担で国が動いているのか、書面に残しますわ」
その声に逆らえる者は、もう王宮にはいなかった。




