第四話:術師の慢心―後編―
「カナイさん、最近ラボに顔を出さないからクルニアさんがサボれないと怒っていましたよ?」
「たまには真面目に常勤しても罰は当たらないだろ? あいつは普段サボりすぎだ」
濃い目の紅茶をことんと俺の机の端へ置き「何をやっているんですか?」と、机の上に開いていた本を覗き込む。
俺は置かれたカップを持ち上げ口を添えながら「古文書の修復」とだけ答えた。
別に嘘をいったつもりはない。本当のことだ。禁書は判別できない文字があちこちに散在していた。それらを修正するくらいならと俺は作業していた。
文字は古代文字だったし、シュシュのような初級階位の生徒には読むことも間々ならないだろうから、シュシュの前で作業を続行することに戸惑いはなかった。
「随分難しい作業なんですね」
「あ? 何で」
「カナイさんがこんなに資料を必要とする文書なんて僕は始めて見ました」
にこにこと特に大した追求をすることなくそういったシュシュに、俺はそうだな、と、頷いて机の上に山と詰まれた本を見た。
―― ……実際……俺が図書館の生徒ならもっと作業は順調に進んでいただろう。
―― ……読み解けば読み解くほど、術の難解さに溺れていった。
気がつけば俺は術を解放することを考えていた。
術の構成は大地の保有している力を吸い上げ具現化する。
そしてそのモノと契約を交わす。
召喚術に似ているが、契約を結ぶ精霊を自ら作り上げるところから始めるわけだから格が違う。
失敗すれば大地は荒廃するだろう。
世界が維持できるか分からない。
こんなもの誰が考えたのかということも恐ろしい限りで理屈では可能なところまで研究は進んでいたようだが、それを実行するだけの術師が存在しなかった。
そして自分の慢心に気がつかない俺は、ついにその禁書の術式を試してみることにした。
駄目で元々。
実行場所に選んだところは森の中心。
人が入り込むような場所ではないし森全体に強い結界を施したから失敗しても俺が一人居なくなるだけだ。禁術の前に俺一人の命なんて大したものじゃないと思った。
その日はやけに空が明るかった。夜だというのに闇を感じさせない。煌々と輝く月はまるで太陽のようだ。
俺は円形状に作った空き地に魔方陣を描いていった。各方位に対応した魔法石も設置して準備は万端。
方陣の中心に立ち呼吸と気を整える。足先で燻っている大地の力を感じる。身体と大地が一体化したような錯覚を起こす。抱かれる感覚が心地良い。足先を二度弾く。それを合図に魔方陣が浮き上がり魔法石が光を放つ。
ゆるりと記憶した詠唱を始める。永い永い呪いだ。
だがその全て順調。全てを掌握できると思った瞬間、足元が揺れた。同時に十六方位に配置した魔法石が砕け散る。
大地が暴走した。
溢れた力は魔法石を破壊し地の波になりその中央へと襲ってくる。
これは自ら描き足したものだ。
もし失敗しても力が外へと流れ出ないよう、中央へと集め自らの肉体を介して地表へと戻す。俺の器なら、そのくらいの尻拭いは出来るだろう。
俺は潔く死を覚悟した。
―― ……!
どん……っと、大きな地鳴りがした。
それと同時に飛び込んできた現実を、俺は信じられなかった。
「ああ、貴方でも掌握できなかったみたいですね?」
俺が地面に膝を付くとどこから様子を見ていたのか、すっと現れた影があっさりと溢れ出た力を拡散させる。
月が明るすぎて姿を隠している星たちがはらはらと降ってきているようだ。
「面白いものが見られると思いましたのに、残念です。仕事を増やしただけのようだ」
黒尽くめの男は月を背に俺を見下ろしている。
陰になってその表情は窺えないがシルエットだけで分かる。
闇猫だ。
「哀れな仔猫。生半可な先詠みの素養を持ったが為に振り回され抗えなかった」
闇猫はくるりと杖を回して悠々とした調子でそう口にする。
完全に蔑まれている。
それは分かったがそんなことどうでも良かった。
俺は地面に伏していた見慣れた姿を掻き抱き自分でも驚くほど掠れた声で名を呼んだ。
「……っ。シュシュ!」
既に生命を維持出来るだけの力は残っていないようだ。
足元から肉体の乖離が始まってしまっている。
降り注いでいる光に瞳を細めて綺麗ですね、と、場違いな感想まで呟き微笑む姿に俺は唇を噛み締めた。
「良かった、です。怪我ないで、すか?」
「何でこんな所にお前が居るんだ! どうして、どうして!」
「僕、夢を見るんです。何度も、なんど、も。いつも、カナイさんを、助ける夢です。だからきっと、本当に、貴方の助けになると……なれ、ました、か?」
「俺なんか」
「カナイさんは居なくちゃ、駄目な人です。僕が、ずっと……ずっと…憧れ、てた。天才、術師……です」
体中が震えていた。
涙を堪えようとして唇を噛み締めると口の中に血の味が広がった。
死ぬのが怖いなんて思ったことはない。
でも、誰かに死なれるのは嫌だ。
俺は誰かを犠牲にして生きなくてはいけないほど価値がある人間じゃない。
―― ……俺は、天才、なんかじゃない。
「平気、です、よ。貴方には、これ、から……すくいとへんか……が、おと、ずれる、から」
シュシュは笑った。
何で、何でこんなときに笑うのか分からない。
俺は救いも変化もいらない。
いらなかったんだ!
現状で満足していないといけなかったんだっ!
俺みたいなのは満たされることを望んだら、いけなかった、んだ。
ありがとうもいわせては貰えなかった。
乖離を終えた肉体は小さな種しか残らなかった。
「それ、渡してください」
その声で我に返った。
俺の前に立っていた闇猫は顔色一つ変えずにそういって手を伸ばす。伸ばされた指先を眼で追うと握り締めていたはずの種が手の中から抜け出して闇猫の手に治まった。
「さてと」
そのまま帰ろうとする闇猫に待てと凄むと、闇猫は首だけでこちらを見下ろした。
「何故シュシュを止めなかった! 傍に居たんだろっ! 見ていたんだろっ!」
誰かが俺の張った結界に穴でも開けないとシュシュはこの場に近づけなかった。あいつに俺の結界を破るだけの力はない。
「それを私に問うのですか? 私には貴方を助ける義理も彼を助ける義理もありません。ただ、私は慢心した術師が起こした不義で世界が乱れるのは後々面倒だと思ったので止めただけです」
それではと向き直った闇猫をもう一度引き止めたが奴はもうそこには居なかった。
そのあと俺は禁書を持ち出した大罪人ということで捕まった。元々俺が持ち出したものではなかったが、今更な話だ。
俺は禁書を持ち出した上に使用したのだから死ぬまで牢につながれていてもおかしくはない。しかし俺はそんなことどうでも良かった。
薄暗く湿っぽい牢の中で唯ぼんやりと過ごした。
時間も分からない。
漏れ聞いた話では俺のことは内々に処理され表立った事件にはならなかったようだ。確かにあんなこと国としても漏らしたくはないだろう。
それから俺に太陽が昇ったのは思いのほか早かった。
「ごめん、遅くなったね?」
―― ……城を出よう。
そんな言葉に顔を上げたのはきっとシュシュがいい残した『救いと変化』に俺自身縋った結果だろう。
「あれ? カナイ珍しいね。館内以外にいるなんて?」
眩しすぎる空を見上げていると、ひょっこりと現れたマシロが遠慮無しに俺の顔を覗き込んでくる。
「お前こそ何してんだ?」
「私? 私はシゼを日干ししようと思って引っ張ってきたんだけど?」
あんたも日干ししたほうが良いわよ、と、失礼なことをいって笑うマシロの後ろをちらと窺うとものすごーく迷惑そうなシゼが居た。持たされているバスケットに入っているのは水筒と微妙な色合いのクッキー……一目でマシロが作ったのだろうと分かる。
俺は嘆息して腰を上げると、ぽんぽんっとシゼの肩を叩いた。恨めしそうに睨みつけられたがマシロお手製物は勘弁して欲しい。
妙なトラウマがある。
「あれ? カナイ、戻るの? 一緒に食べよう。今日のは自信作で」
「遠慮する。お前の自信作に味が伴っていたことは今まで一度もないだろう? それに、俺は忙しいの!」
「たった今まで暇そうに日向ぼっこしてたくせに!」
「はいはい、今度な、今度」
激高しそうなマシロをほったらかしにして俺は屋上庭園から降りる階段へ続く扉を開いた。まだ後ろからぶーぶーいってる。
シュシュの予言通り俺には救いと変化が訪れた。
それが世界に必要なことなのかなんて大それたことは分からない。でも少なくとも俺自身には必要なことだったのだろう。
「あ、カナイ。君だけ逃げようなんて無理だよ」
階段を途中まで降りるとエミルに捕まった。
がっしりと腕を取られて階上へと引っ張り上げられる。
「そうですよー。逃がしませんよ」
勘弁してくれと多少暴れたもののそれをあっさり無視して反対側をアルファに捕獲されてしまった。こいつに捕まったら逃げられない。
何かが変わるということは楽しいことばかりではないらしい……。