(3)
―― ……コンコン。
「どうぞー」
当たりだ。医務室の扉を叩けば中から聞こえてきたのはエミルの声だった。私は、ほっと胸を撫で下ろし扉を開く。
「ああ。マシロ、どうしたの?」
「エルリオン先生は?」
「うん、ちょっと出てるよ。僕がお留守番」
そして、振り返ってくれたエミルの背後の鍋から上がっている緑の煙はなんですか? と聞いてはきっといけないんだよね?
「えっと、カナイが起きちゃったから……まだ、熱下がってないし、眠れなさそうだから……薬を」
そういいながらエミルに歩み寄る。
「あれ? もう起きちゃったの?」
「えっと、その、私が叩き起こしちゃって……」
ごにょごにょと俯いて告げた私にエミルは「そう」と相槌を打って、多分微笑んだ。ザーっと同時に水の音がする。
「何か怖いことでもあった?」
俯いたままの私の頬に掛かったエミルの手が冷たかった。石鹸の香りが鼻腔を擽る。
ぴくりと肩を強張らせると「冷たかった?」とエミルが笑った。
う、駄目だ……。
「―― ……マシロ?」
我慢出来なくて、私はエミルの胸に額を押し付けて息を殺した。エミルは少しだけ驚いたようだったけど、直ぐにそっと抱きとめてくれる。
「カナイ、凄くうなされてて……私、堪らなくなって」
「うん」
「踏み込んじゃいけない距離が分からないよ」
「―― ……うん」
ぽろぽろ零す私の愚痴に、エミルはただ優しく相槌を打って頭を撫でてくれた。ぐちゃぐちゃになっていた心が少しずつ、穏やかさを取り戻す。
「私も男の子だったら良かったのに」
すんっと鼻を鳴らしてそう締め括った私に、エミルが「それは困るな」と苦笑する。
ひとしきり慰められて、私は医務室をあとにした。
「ただいま」
「遅かったな?」
もう既にいつもと変わらない感じでベッドのベッドボードに背中を預けて、本を捲っていたカナイに眉を寄せる。
「寝てなくちゃ」
「お前が戻るのを待ってたんだろ? なんかもう熱なんて久しぶりすぎて、脳細胞が半分以上死滅したような気がする」
世界の終わりのように口にしたカナイに私は、いいすぎだよ、と笑う。
カナイから本を奪い取って、代わりに運んできた薬を渡す。本を机の上に置いてから、ふと気がつく。
「なんかテーブルがすっきりしてる」
「アルファが戻って『残りですよね!』って食堂に持って行った」
カナイが薬を呷りながら説明してくれたことに、溜息。本当にアップルパイ作ってもらうつもりだったんだね、アルファ……。
「お前も、もう部屋に戻っとけよ。見る夢までは制御できない」
出てきた欠伸を噛み殺して、そういったカナイに私は素直に、こくんっと頷いた。
「いや、別に居ても構わない」
……どっちだ?
カナイの真意を測りかねて首を傾げれば「なんでもない」と纏めてカナイはさっさと横になってしまった。
んー、つまり、居て欲しいんだよね?
そういう結果に行き着いて、私は部屋に居座ることにした。
「―― ……もし」
「うん?」
こちらに背を向けたまま、ぽつりと口を開いたカナイに相槌を打つ。
「もし、俺が死んで、誰かが俺の種を飲んで、お前の前に同じように”俺”だといって出てきたら、それは俺?」
「……大丈夫、風邪くらいじゃ死なないから」
ごにょごにょと理解しかねるカナイの問い掛けに、私は小さく肩を竦めてあっさりと答える。手洗い盆に新しく水を張り浸したタオルを固く絞ってカナイの傍に寄った。
「別にここじゃ珍しくねーよ。今日こうしてても、明日には消えてるなんてこと……ぶはっ! 冷てっ!」
私は、むっとして、タオルを広げるとカナイの顔全体に、ぼそっと落とした。カナイの慌てる様が楽しい。
「そんなのカナイじゃないよ。じゃあ、私がもし死んで私……」
いいつつ黙する。私は種にはならない。多分。だから、ここの人たちはみんな私の代わりはないと思ってくれる。本当はみんなの代わりだって誰にも出来ないのに、私だけが常に浮いた存在で、異世界人だ。
「悪い、別にそんなつもりでいったんじゃない」
ぺいっと濡れタオルを弾いたあと、カナイはしょぼんとしてしまった私の頬に、つっと手を伸ばし指先で触れる。とても不安げなその所作に、じわりと優しい気持ちが広がってくる。大丈夫だと伝えるようにゆっくりと暫らく目を伏せたあと、顔をあげれば、ふとカナイの表情も緩んだ。
そして改めてゆっくりと口を開く。
「ただ……俺は自分の失敗で、殺したことがある」
どくんっと心臓が震えた。驚いたのも確かだけど、なんというかカナイが口にしたことは、きっとカナイの闇の部分だ。
『マシロがそんなに遠慮することないよ。知りたければ聞くと良いと思う。それを迷惑だなんて、僕らは思わないと思う』
エミルはそういってくれたけれど、私はやっぱり自分から問い掛けることは出来ないと、そう思っていた。
「俺が大罪人だって、いったことあるか?」
私は静かに首を振った。
「昔、禁忌に、禁書に手を出した。解いてはいけない魔術を紐解いたんだ。俺は馬鹿で思い上がっていて、自分の力を過信していた。出来ると……俺なら、いや、逆に俺でないと成せないと思った……」
「―― ……カナイ」
「その失敗の代償に俺は殺した。あいつは俺を生かすために自分を殺した……今でも、忘れられない。寝るのは嫌だ……それを思い出すから。馬鹿みたいに満足そうなあいつの顔を思いだす」
薬からくる睡魔から逃げるように瞳が泳いでいる。目を開けているのが辛くなってきているのだろう。私は、そっと傍に放られたタオルを畳み直して、額から瞼まで全て覆うようにそっと被せた。
はぁ……と細く長い息を吐き、カナイはやや閉口した。そして、ようやっと音になっているような息声で続ける。
「俺はもう、間違わない……間違え、ない……大丈夫、だか、ら……逃げるな、よ……」
意識が朦朧としているのだろうなと思う。きゅっと私の手を握るカナイの手が熱い。私はその手を握る手に力を込めて、空いた手を重ねる。
「大丈夫。大丈夫だよ……カナイはもう、何も失くさない。カナイはもう間違えないよ」
だから、早く良くなって。と締め括って身体を伸ばし、額のタオルの上からキスを落とす。もう、カナイから返事はなくて、静かな寝息だけが部屋の中に響いた。
―― ……こんな殊勝な弱々しいのは、らしくない。
カナイのそういう部分を認めないわけじゃないけれど、それを含めてカナイなのだと思うけれど、そうやって自分を責め続けることしか出来ない彼はとても生き辛いと思うから。
せめて体調の回復するまでの間くらい、良い眠りに恵まれるように願って、私はカナイの手を握り締めていた。
でも結局そのあとは私も眠ってしまって、カナイがゆっくり休めたかどうかは定かではない。
ただ、私の寝起きが最悪だったことだけは、是非とも強くいいたい。
部屋中にアップルパイとオレンジシフォンの甘い香りに満たされて、その胸焼けしそうな香りで目が覚めたのだから……。
ほんの少しカナイの本質に歩み寄れた満足感もあっさり吹き飛んでしまうインパク値があった。
「ちょ、アルファ……その量どうするの?」
「僕たちが食べるんですよー、はい、マシロちゃんの分もあります」
「―― ……そ、か……っくしゅん」
そして、カナイ回復時と同時に私は風邪を貰って寝込み、種屋に連行された…… ――