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汚部屋と毛玉(臭い)

アーロット・グレイヴ。

社交界でその名前を聞いた事がない者などいない。それほどまでに彼は有名だった。

社交界に全く馴染みのないレアナでも、その名を聞いた事がある。

アーロットの開発した数々の魔導具によって、この5年で飛躍的に国の生活水準は跳ね上がった。時代が生んだ天才魔導工学士。

これが表向きの彼の評判。

しかし裏では、家臣や使用人が全て逃げ出すほどの偏屈伯爵として有名だった。

馬車に揺られながら、レアナは緊張した面持ちで外を見る。

私はうまくやっていけるのだろうかと。


しばらくして、馬車が止まったのは、王都からかなり離れた郊外だった。

「……え?」

レアナは、思わず声を漏らした。

目の前に広がっていたのは――

灰色にくすんだ石造りの屋敷。

……いや。

屋敷というより、廃墟だった。

壁には無数の亀裂。窓ガラスは半分以上割れ。屋根の一部は崩れかけている。蔦と雑草が好き放題に絡みつき、まるで長年放置された遺跡のようだ。

(……ここ、人住んでるの? 本当に?)

王命で嫁がされる先が、これ。

人生とは理不尽である。乾いた笑いが漏れる。

門の前に立つと、ぎい、と音を立てて開いた。

中から現れたのは、整った顔立ちの青年だった。

茶色の髪に、緑の瞳。 姿勢も良く、騎士らしい凛とした佇まい。

「ようこそお越しくださいました。私は護衛騎士のヴィクセンと申します」

丁寧に一礼される。

この人だけ、異様にまともだ。

(……この人が最後の良心か)

レアナは、そっと問いかけた。

「……あの。旦那様は、どんな方なのでしょうか?」

ヴィクセンは、一瞬だけ視線を逸らした。

「……ええと……」

数秒の沈黙。

「あ………少々……いえ、とても研究熱心な方でして」

 ……濁した。

 ものすごく濁した。

(あっ、これヤバいやつだ)

 確信。

「どうぞ、こちらへ」

案内され、屋敷の正面扉へ。

ヴィクセンが扉を開けた瞬間。

 ――むわっ。

「……っ!?」

鼻を突く、重たい臭い。

カビ。埃。湿気。古い紙。放置された生活臭。

全部が混ざり合った、最悪の匂い。

中は、さらに酷かった。

廊下の床は見えないほど物で埋まっている。

積み上げられた書類。壊れた魔導器具。謎の金属片。割れた試験管。

歩くたびに、ぐしゃ、ばき、と嫌な音がする。

「……足の踏み場も、ないですね……」

思わず呟く。

「……申し訳ありません」

ヴィクセンは深く頭を下げた。

(謝るの、あなたじゃない)

さらに奥へ。

「アーロット様のお部屋はこちらです」

そう言って、扉を開けた瞬間。

 ――ぶわっ!!

 空気が、殴ってきた。

 鼻を劈くような臭気。

熟成されたような汗の匂い。薬品。焦げ。腐敗寸前の何か。いろんなものが混ざりあって鼻腔から脳天へと突き抜けていく。

「……んぐっ……」

レアナは、反射的に口を押さえた。

視界に入った光景は、もはや異界だった。

床一面に積み上がる書類の山。机は完全に埋没。ベッドは物置化。

 そして。

 その書類の山の中で――

 もぞもぞ。

 何かが、動いた。

「……え?」

レアナは目を凝らす。

真っ黒の毛玉のような物体が動いてる。

なに?毬藻?けもの?

「……何、あれ……」

次の瞬間。

「ぴぃっ……!」

情けない悲鳴。

「だ、だ、だ、だれ……!?」

書類の山から、ずるずると這い出してきたのは――

青年だった。

……一応、人間だった。

だが。

髪は鳥の巣のように絡まり、脂で束になっている。前髪は目を完全に覆い、顔はほぼ見えない。肌は不健康なほど青白く。頬はこけ、唇は乾ききってひび割れ。服はシミだらけで、しわしわ。どこか焦げたような臭いすらする。

全身から放たれる、「生活終わってます」オーラ。

これあかんやつや。

「ひ、ひ、人……?」

人型の毛玉は震えながら、こちらを見ている。

レアナの気が遠くなる。

もしかしなくても、彼が……

「い、い、い、いま……実験中で……!」

「し、し、し、し、侵入者…!?」

さっきからずっと吃って震えてる。

あ、なんか薄汚れたトイプードルに見えてきた。

レアナは現実逃避を始めていた。

「ま、まさか……暗殺……!?いや……強盗……!?」

完全パニック状態の毛玉に、ヴィクセンがため息混じりに言う。

「旦那様……本日、ご結婚相手が来られると申し上げましたよね?」

「え?」

青年は固まった。

「……え?」

数秒後。

「……あ」

ぽつり。

「……そ、そういえば……なんか……言ってた……ような……」

完全に忘れていたらしい。

なるほど、自分の興味のあること以外は全てダメダメなやつね。

「で、で、でも……」

青年はレアナを見る。

突然現れた若く綺麗な女性。

脳内警報、爆音。

「……ふ、不審者じゃ……」

「なわけないでしょう……」

ヴィクセンは深く溜息を吐きながら、レアナに向き直る。

「こちらが、我がグレイヴ家当主、アーロット様でございます。」

うん、知ってた。

レアナは笑顔のまま気が遠くなっていく。

「そして、アーロット様。こちらの女性が結婚相手のレアナ・アシュフォード様です」

「ぴぇっ……」

また変な音を出してる。

誰も取って食おうともしてないのに、アーロットは両手をグッと握りしめたまま肩を震わせている。

(これは……前途多難ね……)

荒れに荒れ果てた部屋を見ながらレアナは途方に暮れるのだった。

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