緑の地平線
第一部 夏の汗と苗
第一章 到着
七月半ば。東京の蒸し暑さから逃れてきた健司にとって、バスを降りた瞬間に肌を撫た空気は、まるで別世界のもののようだった。乾いていて、どこか甘い草の匂いが混じっている。目の前に広がる光景に、彼は息を呑んだ。
空が、あまりにも広い。東京のビル群に切り取られた空とは違う、どこまでも続く青。地元の人々が「十勝晴れ」と呼ぶ、一点の曇りもない蒼穹が、緑と黄金色の広大な大地を覆っていた 。ジャガイモの濃い緑、小麦の熟れた金色。それらが巨大なパッチワークのように、どこまでも、どこまでも続いていた 。そして、その区画をきっちりと縁取っているのが、天を突くようにそびえ立つカラマツやトドマツの防風林だった 。それは自然の風景というより、緻密に設計された巨大な幾何学模様のアートのように見えた。
「バイトの、高橋健司君?」
声に振り向くと、一台の軽トラックの運転席から、日に焼けた顔の女性が降りてくるところだった。彼女が、藤田あかりだった。二十四歳。健司より三つ年上。Tシャツから伸びる腕はしなやかで、その動きには一切の無駄がない。彼女は、都会の女性とは違う、大地に根差した力強さに満ちていた。
「はい。よろしくお願いします」
健司が頭を下げると、あかりは「ん」と短く応え、荷台を顎でしゃくった。 「荷物、そこ乗せて」
健司は言われるがままに、都会暮らしの名残であるバックパックを荷台に放り込む。軽トラックが土埃を上げて走り出すと、彼は改めて周囲のスケール感に圧倒された。ここは、彼が想像していたような、のどかな「田舎」ではなかった。日本の食料供給を支える、巨大な生産工場。それが北海道の農業の正体なのだと、肌で感じさせられた 。
藤田農場は、その広大な土地利用型農業を営む典型的な経営体だった 。母屋は古いが頑丈そうな造りで、その隣には巨大な納屋がいくつも並んでいた。中をちらりと覗くと、トラクターや耕運機、そしてまだ出番を待つ巨大なポテトハーベスターといった農業機械が、まるで眠れる獣のように鎮座していた 。
「君の部屋、こっちね」
あかりに案内されたのは、母屋から少し離れたプレハブの建物だった。短期バイト用の宿舎で、生活に必要な最低限の設備は整っているようだった 。中はシンプルだが清潔で、窓からは先ほどまで見ていた緑の地平線が広がっていた。
「明日からよろしく。朝は四時半起きだから」
淡々と告げるあかりの目に、健司は値踏みするような光を見ていた。これまでにも、都会から来たバイトが何人も来ては、すぐに音を上げて帰っていったのだろう。自分は大丈夫だろうか。都会の服は場違いに思え、彼女の静かな自信の前で、健司は自分がひどく頼りなく、場違いな存在に感じられた。
第二章 最初の労働
翌朝、健司は四時過ぎに鳥の声で目を覚ました。東の空が白み始め、ひんやりとした空気が部屋に流れ込んでくる。日中は30℃近くまで気温が上がることもあるが、朝晩は長袖が必要なほど涼しい 。
畑に出ると、土の匂いと濡れた草の匂いが混じり合い、肺を満たした。その日の仕事は、ジャガイモ畑の雑草取りだった。藤田農場では、化学肥料や農薬の使用を極力減らす「クリーン農業」に取り組んでおり、そのため多くの作業が手作業に頼ることになる 。
「こうやって、根っこから抜くの。中途半端だと、またすぐ生えてくるから」
あかりは、健司の隣で手本を見せた。鍬を使い、最小限の動きで的確に雑草だけを土から引き抜いていく。その無駄のない動きは、健司には到底真似のできないものだった 。彼は見様見真似でやってみるが、すぐに腰が痛み、腕がだるくなった。汗が噴き出し、Tシャツが肌に張り付く。
農業は「単純作業」などでは決してなかった。どの作物が育ち、どの草が雑草かを見分ける知識。天候を読み、土の状態を判断する経験。そして何より、それを延々と続ける体力と忍耐力。健司がこれまで「勉強」と呼んできたものとは全く質の違う、知性と技術がそこにはあった。
午前と午後の休憩、そして昼食。一日の労働のリズムは過酷だった 。昼食のとき、あかりの母親が作ってくれたおにぎりを頬張りながら、健司は自分が今までいかに体を使わずに生きてきたかを痛感していた。筋肉のあらゆる部分が悲鳴を上げ、情けないほど自分が非力に思えた。
あかりは、そんな健司の様子を黙って見ていた。しかし、彼が文句ひとつ言わず、必死に作業についてこようとしていることに気づくと、彼女の態度も少しずつ変わっていった。
「無理しないで。最初はみんなそうだから」
休憩時間に、冷たい麦茶の入った水筒を差し出しながら、ぶっきらぼうに言った。それは同情ではなく、同じ労働者としての、ささやかな労いだった。その一言に、健司は少しだけ救われた気がした。
第三章 星空の下の対話
一日の労働を終え、汗を流し、夕食を囲む。その後の時間は、健司にとって特別なものになっていった。縁側に座り、涼しい夜風に吹かれながら、あかりや彼女の両親と話をするのだ。
日中の熱気が嘘のように引き、空には東京では決して見ることのできない、無数の星が瞬いていた 。天の川が、白い帯となって夜空を横切っている。
そんな星空の下で、健司はぽつりぽつりと自分のことを話した。東京の大学での生活。周りに流されるように参加している就職活動。何をしたいのか、何になれるのか、全くわからないまま、ただ漠然とした不安だけが募る毎日。
「みんな同じスーツ着て、同じようなこと話して。なんだか、ベルトコンベアに乗せられてるみたいで」
あかりは黙って聞いていた。そして、自分のことを話し始めた。彼女も東京の大学に行っていたこと。都会の生活は刺激的で楽しかったけれど、どこか地に足がついていない感覚が常にあったこと。両親は東京で就職することも勧めてくれたが、自分にはこの北海道の土地の方が合っていると、自分で選んで帰ってきたこと。
「センチメンタルな話じゃないよ」と彼女は前置きした。「この土地が好きっていうのは、ただ景色が綺麗だからとか、そういうことじゃなくて。もっと、なんていうか…厳しいけど、正直な関係なんだよね。自然は嘘をつかないから。手をかければ応えてくれるし、サボればそれも正直に結果に出る。その方が、私にはしっくりくる」
彼女は、この農場が明治時代の開拓から始まった歴史や 、天候に一喜一憂し、市場価格に翻弄される農業の厳しさも語った 。人手不足で、健司のような短期バイトを募集しなければ回らない現実も。
健司は、彼女の話に引き込まれていた。彼女の言葉には、自分の人生を自分の意志で選択した人間の、静かだが揺るぎない確信があった。彼の抱える漠然とした不安とは対極にある、その確かさが眩しかった。
あかりもまた、健司に興味を抱き始めていた。彼の都会的な悩みは、かつての自分が抱えていたものとどこか重なった。そして、彼の真摯な眼差しと、自分の話を真剣に聞く姿勢に、彼女は少しずつ心を開いていった。
第四章 田舎の休日
農作業に休みはほとんどないが、月に数回、日曜日は休める日があった。そんな貴重な休日に、あかりは健司をドライブに誘った。農村での生活に車は必需品だ 。
「ちょっと気分転換に行こう」
あかりが運転する車で向かったのは、町の中心部から少し離れた丘の上にある展望台だった 。そこからは、十勝平野の広大なパッチワークの風景が一望できた。どこまでも続く畑と防風林。その雄大さに、健司は再び言葉を失った。ここが、あかりが生きる世界なのだ。
その後、彼らは近くの町で開かれていた夏祭りにも立ち寄った 。もし帯広まで足を延くせば、もっと大規模な「おびひろ平原まつり」が開かれている時期だったが 、小さな町の祭りは、地域の人々の顔が見えるような温かさがあった。あかりは、あちこちで知り合いに声をかけられ、笑顔で言葉を交わしている。彼女がこの土地のコミュニティに深く根ざしていることが、健司にもよくわかった 。
昼食は、古い農家の納屋を改装したカフェでとった 。地元の野菜をふんだんに使ったランチプレートは、素朴だが滋味深い味がした。仕事場を離れ、ただの「男の子」と「女の子」として向き合う時間。二人の間の会話は、いつもよりずっと弾んだ。笑い声が、木の温もりあふれる店内に響く。
この日を境に、二人の間の空気は明らかに変わった。それは友情以上の、確かなときめきだった。健司は、日に焼けたあかりの横顔を見るたびに、胸が高鳴るのを感じていた。
第五章 出発
一ヶ月という期間は、あっという間に過ぎ去った。八月の終わり、北海道の空気には、かすかに秋の気配が混じり始めていた 。
健司の最後の日。彼はもう、最初の頃のような無力な青年ではなかった。体は引き締まり、肌は日に焼け、一連の農作業を淀みなくこなせるようになっていた。やり遂げたという達成感と同時に、ここを去りがたいという強い気持ちが胸を締め付けた。
出発の朝、別れはぎこちないものだった。あかりは、採れたてのジャガイモとスイートコーンが詰まった段ボール箱を健司に手渡した 。
「東京の友達にも食べさせてあげて」
「ありがとう。…本当に、世話になった」
連絡先を交換し、「また連絡する」という言葉を交わす。その約束が、ひどく儚いものに聞こえた。
バス停まで送ってくれた軽トラックの助手席で、二人はほとんど言葉を交わさなかった。バスが来て、健司が乗り込む。窓越しに、あかりが小さく手を振るのが見えた。バスが走り出し、藤田農場の広大な風景が遠ざかっていく。健司は、自分の心の一部を、あの緑の地平線に置き忘れてきたような気がしていた。
第二部 コンクリートのジャングルと耕された畑
第六章 別々の世界
九月。健司が戻った東京は、就職活動本番を前にした独特の熱気に満ちていた。企業説明会、エントリーシートの書き方講座。健司は窮屈なスーツに身を包み、無機質な会議室で、空虚な企業理念を聞かされていた。そこで語られる仕事は、営業、マーケティング、金融…どれもひどく抽象的で、実感の湧かないものばかりだった。畑で土に触れ、作物の成長を日に日に感じ、収穫という明確な結果を手にしていた一ヶ月間とは、あまりにもかけ離れていた。
同じ頃、北海道の藤田農場は収穫の最盛期を迎えていた。特にジャガイモの収穫は時間との戦いだ。あの巨大なポテトハーベスターが、轟音を立てて畑を往復している 。天気予報が雨を告げれば、作業は夜まで続くこともある。一年間の努力が、この数週間に凝縮されているのだ。
健司とあかりをつなぐのは、夜遅くに交わされる短いメッセージだけだった。健司が満員電車の写真を送ると、あかりからは、ハーベスターのシルエットが浮かぶ燃えるような夕焼けの写真が返ってきた。その一枚の写真が、健司にとっては息苦しい都会での唯一の救いだった。あの場所で流した汗、感じた風、そしてあかりの笑顔。その記憶だけが、彼にとっての「リアル」だった。
第七章 迷いの季節
季節は冬を越え、春になった。大学四年生になった健司の就職活動は、一つの節目を迎えていた。いくつかの面接を経て、彼は都内の中堅企業から内定をもらった。友人たちは自分の内定を喜び合い、健司を祝福してくれたが、彼の心は晴れなかった。喜ぶべきことなのはわかっている。だが、その内定通知は、彼にとって輝かしい未来への切符ではなく、ただ社会のレールに乗るための乗車券のように思えた。
彼は、内定先の企業のパンフレットを眺めながら、自分の五年後の姿を想像しようとした。だが、そこに映るのは、情熱も喜びもない、ただ日々をこなすだけの自分だった。その一方で、彼の頭の中には、トラクターを運転するあかりの姿や、広大な畑に種をまく光景が鮮明に浮かんでくる。
このまま、この内定を受け入れていいのか。安全で、誰もが「正しい」と言う道を進むべきなのか。それとも、あの夏に感じた、心の震えに従うべきなのか。健司の中で、何かが限界に達しようとしていた。就職活動という社会のシステムは、彼に「何者かになること」を強要していたが、彼がなりたいものは、その選択肢の中にはなかった。
第三部 二度目の夏
第八章 再び、北へ
夏。大学最後の夏休みを前に、健司は決心した。彼は内定先の企業に、承諾の返事を保留させてほしいと連絡を入れた。そして、受話器を握りしめ、北海道の藤田農場に電話をかけた。
「あかりさん、俺です。…あの、もしよかったら、今年の夏も、一ヶ月だけバイトさせてもらえませんか」
電話の向こうで、あかりが少し驚いたように息を呑む気配がした。 「…就活は?終わったんじゃないの?」 「内定は、もらいました。でも、だからこそ、もう一度そっちに行きたいんです。自分の気持ちを、確かめに」
健司の真剣な声に、あかりはしばらく黙っていたが、やがて、少しだけ柔らかい声で答えた。 「…わかった。待ってる」
再び北海道の土を踏んだ健司を、あかりは以前と同じように、しかしどこか違う眼差しで迎えた。彼はもう、ただの都会から来た学生ではなかった。一度この土地の厳しさと喜びを知り、そして今、人生の岐路に立って戻ってきた青年だった。
第九章 確信
二度目の夏は、一度目とは違っていた。健司はもう、作業に戸惑うことはない。むしろ、あかりや彼女の父親がなぜその作業をするのか、その理由を積極的に尋ねるようになった。輪作の重要性 、天候と土壌の状態を読むことの難しさ。農業が、単なる労働ではなく、深い知識と経験に裏打ちされた「経営」であることを、彼はより深く理解していった 。
定期的な休みなど、やはり存在しなかった 。天気と作物の都合が、すべてに優先される。だが、その不自由さが、健司には心地よかった。都会の、時間に追われるだけの生活とは違う、もっと大きな自然のリズムの中に自分がいると感じられた。
そして何より、あかりと過ごす時間が増えた。共に汗を流し、食事をし、語り合う。健司は、彼女の仕事に対する誇り、家族への愛情、そしてこの土地で生きていくという揺るぎない覚悟に、日に日に強く惹かれていった。彼の夏へのロマンティックな憧れは、この厳しい現実と、それを生きるあかりへの深い尊敬の念へと変わっていった。
第十章 防風林の告白
ある日の夕暮れ。長く過酷な一日の作業を終え、健司とあかりは、畑を縁取る防風林の木陰に座り込んでいた 。開拓者たちが植えたというカラマツの巨木が、西日に傾く太陽の光を遮り、涼しい影を落としている。
風が木々を揺らし、ざわめきが二人の間を通り過ぎていく。その静寂の中で、健司は決心した。
「あかりさん」
彼は、土に汚れた自分の手を見つめながら言った。
「東京に戻ってからも、ずっと忘れられなかったんだ。汗を流してトラクターを運転する姿も、真剣に土と向き合う横顔も。俺は、ただ農業がしたいんじゃない。あかりさんと一緒に、この土地で農業がしたいんだ」
それは、飾り気のない、まっすぐな告白だった。
「就職して、東京で生きていく未来が、どうしても考えられない。俺は、ここで、あなたの隣で、生きていきたい」
あかりは、驚いたように目を見開いた。彼女の頬が、夕日のせいだけではない赤みに染まっていく。健司の言葉は、彼女が心の奥底で期待し、同時に恐れていたものでもあった。
第十一章 人生の重み
健司の告白に、あかりの心は激しく揺さぶられた。だが、彼女の口から出たのは、甘い愛の言葉ではなかった。
「健司君の気持ちは、嬉しい。…でも、覚悟は、あるの?」
彼女の眼差しは、どこまでも真剣だった。
「せっかく決まった就職を、本当に辞める覚悟があるの?ここで生きていくっていうのは、東京での生活を全部捨てるってことだよ。安定した収入もない。体はきつい。友達や家族とも、簡単には会えなくなる。都会から来て、うまくいかなくて、結局帰っていく人を、私は何人も見てきた」
それは、彼を試すような言葉ではなかった。彼の人生を、そして自分の心を、安易な決断から守ろうとする、彼女なりの誠実さだった。
「私は、あなたに不幸になってほしくない。だから、簡単には返事できない」
彼女は立ち上がり、健司に向き直った。
「まずは、大学をちゃんと卒業して。そして、もう一度、自分の人生と向き合って。それでも気持ちが変わらないなら…その時に、また話を聞かせて」
それは、健司に突きつけられた、人生の重みを問う、あまりにも真摯な問いかけだった。
第四部 決断
第十二章 最後の東京
二度目の夏が終わり、健司は東京へ戻った。彼の心は決まっていた。卒業までの半年間、彼は自分の決意を揺るぎないものにするために時間を使った。
まず、内定先の企業に、正式に辞退の電話を入れた。人事担当者は驚いていたが、彼の誠実な説明に、最後は理解を示してくれた。
両親には、正直に自分の決意を話した。最初は驚き、心配していた両親も、彼の真剣な眼差しと、北海道での生活を語る時の生き生きとした表情を見て、最後には静かに頷いてくれた。友人たちは、彼の突飛な決断に呆れながらも、「お前らしいよ」と笑って背中を押してくれた。
彼は残りの大学の単位をすべて取得し、卒業論文を書き上げた。それは、彼がこれまでの人生に、きちんと区切りをつけるための儀式でもあった。その傍ら、北海道の「新規就農支援センター」のウェブサイトを調べ、移住と就農に必要な手続きや、利用できる支援制度について情報を集め始めた 。彼の行動には、もはや迷いはなかった。それは、不幸からの逃避ではなく、幸福への確かな歩みだった。
第十三章 約束
東京に戻って数日後、健司はあかりに電話をかけた。
「あかりさん。俺、決めたよ。大学を卒業したら、必ずそっちへ行く。内定も、断った」
彼の声は、静かだったが、揺るぎない決意に満ちていた。防風林の下で問われた「覚悟」への、明確な答えだった。
そして、彼は尋ねた。
「あかりさんの気持ちを、聞かせてほしい」
受話器の向こうで、長い沈黙があった。健司は、自分の心臓の音だけを聞いていた。やがて、あかりの、少し震えた声が聞こえた。
「…私も、健司君と、一緒にいたい。一緒に、ここで生きていきたい」
その言葉を聞いた瞬間、健司の全身から力が抜けていくようだった。数ヶ月にわたる不安と緊張が、温かい安堵に変わっていく。夏の幻想ではない、厳しい現実を共有した上で結ばれた、二人の固い約束だった。
第十四章 家族の食卓
あかりは、その夜の食卓で、両親に健司のことを話した。彼の決意と、それを受け入れた自分の気持ちを。
父親は、黙って娘の話を聞いていた。そして、一言だけ、こう言った。
「あいつなら、大丈夫だろう」
母親は、目に涙を浮かべて微笑んだ。
「よかったね、あかり」
彼らは、驚いていなかった。二度にわたる滞在期間中、健司の真面目な働きぶりと、農業に対する真摯な姿勢を、ずっと見ていたのだ。後継者不足が深刻なこの地域で 、一人の若者が人生を賭けてこの土地を選んでくれたこと。それは、藤田家にとって、何よりの喜びだった。
「健司君が来たら、うちの近くのアパートを探してやろう。最初はそこから二人で始めなさい」
父親の言葉は、健司を「よそ者」ではなく、新しい「家族」として、そしてこの地域の農業の「担い手」として受け入れるという、温かい証明だった。
第五部 未来を植える
第十五章 北へ
年が明け、大学の卒業式を終えた健司は、北海道行きの片道切符を握りしめていた。長い冬が終わりを告げ、雪解け水が大地を潤す季節。彼が降り立った空港の空気は、まだ冷たかったが、その中に春の確かな息吹が感じられた。
到着ロビーで彼を待っていたのは、あかりだった。言葉少なめに、しかし満面の笑みで彼を迎える。二人の再会に、もはやドラマチックな演出は必要なかった。これから始まる、穏やかで、確かな日常。その始まりを告げる、静かで深い喜びが、二人を満たしていた。
第十六章 ふたりの部屋
二人の新しい生活は、町の中心部からほど近い、小さなアパートの一室から始まった 。荷物を運び込み、必要な家具を揃え、初めて二人だけの食卓を囲む。広大な畑とは対照的な、そのささやかな空間が、二人にとっては世界で一番安らげる場所だった。
仕事のパートナーであり、人生のパートナー。彼らは、これから始まる農作業の計画や、家計のこと、そして未来のことを語り合った。その会話は、もはや不安を埋めるためのものではなく、希望を形にするための、前向きなものだった。
エピローグ 初めての、ふたりの収穫
一年後、秋。 あかりと健司は、夕日に染まるジャガイモ畑の端に立っていた。目の前では、すっかり見慣れたポテトハーベスターが、最後の畝を掘り起こしている。
二人で乗り越えた、初めての一年。春の種まき、夏の管理、そして秋の収穫。健司はもはや見習いではなく、あかりの隣に立つ、頼もしいパートナーだった。
疲労感と、それを上回る達成感が、二人を包んでいた。
「来年は、新しい品種にも挑戦してみようか」 あかりが言う。
「いいね。自分たちだけのブランド、作れたら最高だな」 健司が応える。
二人は、自分たちの土地と、その向こうに広がる未来を見つめていた。その未来は、十勝の空のように、どこまでも広く、そして希望に満ちて輝いていた。二人の物語は、今、始まったばかりだった。




