第44話 さよなら嵐子ちゃん また逢う日まで
狙い澄ました一発が見事、彼女の頭部へ命中した。
クラクラと眩暈を覚えた嵐子、カクンと首を垂れて数十秒後、母親の意識と入れ替わった。
握り締めた右手をマジマジと見つめる蘭子。
「なるほどねえ、娘の手を離さなかった訳がようやく分かったぜ」
「一言、あなたに別れを告げたくて」
礼次郎の目は真剣だった。
蘭子が呆れて肩を竦めた。
「あたしゃ高校生の娘を持つオバサンだよ? おまけに霊体ときてる。イケメン高校生に惚れられる理由は何もないね」
「いいえ、あなたは十分美しいです」
「まあ、死んだのは三十路の頃だから。自分でも若いとは思っていたけど。どうやら人は死んだ年齢で化けて出るらしいや」
「あなたが霊体なのが残念でなりません。でなければ俺は……」
「ハハッ、笑わせるなよ。嵐子が聞いたら嫉妬するぞ」
「えっ、嵐子ちゃんが?」
「あいつ、あんたのことを憎からず思っているからよ。別れを残念がってたぜ」
「……」
意外な言葉だった。礼次郎自身は漠然と脈なしと諦めかけていたのだが。
礼次郎を見つめる蘭子の瞳は完全に母親の、娘の彼氏を謝意と慰労で見守る瞳だった。
「まっ、あんたのお陰で娘も楽しい想いが出来たし。あいつ、呆気らかんとした性格だから愛情表現が下手でよぅ。なんか素っ気ない素振りが多かったと思うけど、心の中ではとても感謝してたから。その辺、勘違いしないでほしいんだ」
「……」
嵐子の本心に触れて、礼次郎の顔に笑顔が戻った。
蘭子の唇が怪しく歪む。
突然、礼次郎の上体が泳いだ。蘭子に思い切り引っ張られたのだ。
そのまま彼の顔面は蘭子の豊胸の谷間へとのめり込んだ。
膨よかな感触を楽しむ間もあらばこそ、すぐに息が詰まって顔を上げた礼次郎。そこに美しき蘭子の顔を仰ぎ見たとき、彼の心臓は破裂するのでは思えるほどに高鳴った。
蘭子が年下をからかう様な意地の悪い笑みを浮かべた。
「おまえ、デートの最中、公園で娘に接吻しようとしたろ? ええ、どうなんだ!」
不意打ちともいえる発言に、礼次郎、大いに慌てふためいた。
「誤解しないでください! あれは未遂です!」
「誤解してんのはおまえの方だ。あたしゃなぁ、あの続きをしてやろうってんだ。娘に優しくしてくれたお礼によ」
「……」
一瞬、言葉の意味を計りかねて押し黙った礼次郎。彼女の顔が接近するや、ようやくその言葉の意味を理解して、石仏のごとく固まってしまった。
「間近で見ると一段と可愛いじゃねえか。ほんと、娘の彼氏じゃなかったら、あたしが頂いちゃいたいくらいだぜ。まあ、そういう訳だ。悪く思うなよ。では頂きます」
「ちょ、一寸、蘭子さん!」
冥王のナンパ師も形無しというべきか。タメ年以下には機先を制する礼次郎だが、年上の魔力というべきか、今度ばかりは呆気なく蘭子に唇を許した。
「いいか、稽古を怠るんじゃねえぞ。娘の婿は剣術の強い奴、そう決めてるからな。普通のサラリーマンにその資格はねえ、そう心得ておけ!」
「……は、はい、わかりました」
この時、礼次郎の心は決まった。
冥王一、いや、日本一の剣豪となって嵐子ちゃんを迎えに行くと。
「じゃあな、あばよ、礼次郎。今のこと、娘には内緒にしとくんだぞ」
「今のことって?」
「バカ、接吻だよ、接吻」
言いざま、蘭子は自身の頭をピコハンで叩いた。
数十秒後、母親と娘の意識は再び入れ替わった。
「あれぇ、どしたのかなぁ? また髪の毛伸びてる」
しばらくの間、嵐子は自身の髪の毛を弄んでいたが、やがて違和感を感じたのか、微かに濡れた唇に、そっと人差し指を押し当てた。
まずい、まずいぞぉ~~~~~!
冷や汗もんの礼次郎、知らぬ間に唇を奪ったことがバレれば、今の別れが今生の別れになりかねない。
が、嵐子ちゃんは納得したように"うん゛と力強く頷くと、「礼次郎君、それではお達者で」そう言って踵を返した。
安堵に胸を撫で下ろした礼次郎、彼女の背中へ声の限りに叫んだ。
「嵐子ちゃん、千年は金魚じゃないから! 千年は鶴だから!」
「ええ、覚えときます!」
嵐子が振り返って手を振った。
礼次郎は我知らず涙を流して、去り行く彼女の背中を見送っていた。
■■■
「待っていたぞ、一番合戦」
校門を出たところで、嵐子を呼び止める者があった。
振り向くと、そこには門柱に寄りかかり腕組みする関佐馬之丞がいた。
傍らには彼の愛車が止めてあった。
「……」
嵐子は押し黙ったままだった。
殺気を感じたのだ。
「一番合戦、おまえは肝心なことを忘れているぞ。拙者との決着がまだついておらぬ」
嵐子がホッとため息をついた
警戒心を解いたのだ。
「関君、どうしてもわたしと闘いたいの?」
「明日、おまえは日本を立つのであろう? ならば機会は今しかない」
佐馬之丞が傍らに立てかけた冷艶鋸を握り締めた。
嵐子が呆れて肩を竦めた。
「まあ、冥王生らしいお見送りだとは思うけど。夏休みだからといって私闘が許されるとは。それも校門の前で。わたしはもう冥王生ではないので構いませんが、あなたは歴とした冥王生、しかも生徒会役員。夏休み明けに不祥事で退学、なんてことになっても知りませんよ」
「心配は無用。三分、いや、一分で片を付ける」
「仕方ありません。では」
ピコハンを下げて自然体に構えた嵐子。
「ーー美しい」
佐馬之丞は悟った。
夕日に映えるその美しき立ち姿こそ、彼が求めて止まない完成された武闘家の姿なのだと。それを飽くことなく眺めていたいと願うのは、才に劣る者の我意なのだろうか?
美しき野の百合を手折る愚かさを自身に認めつつ、佐馬之丞は冷艶鋸を下段に構えた。
嵐子は自然体のまま。佐馬之丞の闘気を柳のように受け流す。
「御免!」
前傾姿勢で急速に間合いを詰める佐馬之丞。二間ほどの距離まで接近したとき彼は気付いた。
嵐子の左肩が不釣り合いに下がっているのを。
クッ、拙者としたことが!
嵐子が上段から打ち下ろしたピコハンを、佐馬之丞は悔悟の念を以て弾き飛ばした。
ピコハンが地面に落下して、パフっという気の抜けた音を立てた。
「どうやらわたしの負けのようです」
振り返った嵐子の表情はどことなく寂し気だった。
佐馬之丞、ピコハンを拾い上げると、「おまえ、まだ傷が癒えてなかったのだな」と呟いた。
「でも負けは負けです」
「いや、負傷した女子を負かしても何の誉れにもならぬ。それにおまえの言う武士道に悖る行為でもあるしな」
嵐子の顔に笑顔が戻った。
「では今回の勝負はなしということで?」
「うむ、決着はおまえが日本へ帰ってきたときだ。そのときを楽しみに待っているぞ」
「では関君、再戦の日までお達者で」
嵐子の差し出した手を、佐馬之丞は力強く握り返した。そして冷艶鋸を背負うとバイクに跨り振り返った。
「さあ、乗れ、一番合戦。駅まで送っていこう。何時ぞや、暴走族に絡まれた折に救ってもらった礼だ」
戸惑いの表情を浮かべた嵐子、「でも関君、確か二人乗りは交通法規に違反しているんですよねぇ?」
「いや、構わん。もし警察に捕まったら全責任は拙者が負う。だから安心して乗れ」
嵐子が呆れて肩を竦めた。
「関君って、とても真面目な人かと思ってたけど、結構、平気で規則を破りますよねぇ。意外です」
ハッハッハッハッハッ! 佐馬之丞が夕日に向かって大笑した。
「拙者をそのような不届き者にしたのは、何を隠そうおまえなのだ。だが一番合戦よ」
「……」
「感謝しておるぞ」
佐馬之丞、礼を言うのが気恥しいのか、そこだけは蚊の鳴くような小さな声だった。
「えっ、なんですか? 今の、聴こえなかったのですが」
「いや、なんでもござらん」
佐馬之丞が頬を赤らめるなど天地開闢以来なかったことだ。
嵐子が自身の背に抱き付いたのを確認すると、佐馬之丞はアクセルを吹かしてバイクを発進させた。
(了)




