第43話 好敵手と友誼
嵐子が誰もいない廊下を一人ポツネンと歩いていると、その向こうの角から二つの人影が射した。
生徒会会長の清流院靖と副会長の神崎玲花だ。
二人は毎年夏に行われる冥王名物、地獄の合同合宿の打ち合わせに来ていたのだ。
嵐子と靖が正対した。
「やあ、怪我の方はもう良いの?」と靖が気さくに尋ねた。
嵐子がニッコリとほほ笑んだ。
「ええ、この通りピンピンしてございますよ。そうだ、会長さんこそ怪我の方は大丈夫ですかぁ?」
「ああ、君の母上が急所を外してくれたお陰で死なずにすんだよ」
「試合中、わたしも会長さんの急所を外してしまいました。でもあの必殺金玉潰しをかわすなんて、流石は会長さん、わたしの完敗ですぅ」
嵐子がアハハ!と大口開けて笑った。
「ーー!」
玲花が顔を背けた。"金玉゛という単語に拒絶反応を示したのだ。
が、靖は微かに口元を綻ばせた。
「僕の方こそ、ついムキになって。高校生同士の試合に生き死にの観念を持ち込むなんて。大いに反省しているよ」
嵐子が玲花の方へ顔を向けた。
「反省というなら、わたしも大いに反省しております。副会長さん、あなたに対する数々の御無礼、平に御容赦を」
頭を垂れた嵐子に玲花が微笑みを向けた。
「わたくしも真剣であなたを切り捨てようと……、いくら自分を見失ってたとはいえ、決して許される行為ではありません。どうやらわたくし達三人とも、今回の試合から大変貴重なことを学んだようです。有意義な試合でした」
沈黙。
場の空気が和んだのは数々の遺恨から解放されたせいだろう。その瞬間、三人は好敵手という名の友人となったのだ。
玲花が眩しそうに手をかざした。窓ガラスから夏の陽光が差し込んだのだ。
嵐子の差し出した手を二人はしっかりと握り返した。
「では皆さん、お元気で……」
去り行く嵐子の背中を見つめながら玲花が呟いた。
「あの娘、なぜあなたとの試合に拘ったのかしら? あなたが冥王最強の生徒だから? ううん、わたくしにはそれだけではないように思えるのだけど……」
「……」
まるで別れを惜しむかのように、靖は嵐子の背中から目を離さなかった。
彼女の姿が長い廊下の角に消えたとき、靖はようやく玲花に目を向けた。
「多分、絆を確かめたかったんじゃないかな」
「絆、ですって?」
「彼女、僕の妹なんだ」
「ーー!?」
「つまり僕らは兄妹だったという訳さ。どう、驚いた?」
試合後、靖は帰宅途中の車中で、父親からこの衝撃的事実を告げられた。
「一番合戦嵐子君なぁ、その娘さんの方なんだが、あれ、わたしの娘なのだよ」
「……」
「つまりだ、おまえの妹でもある訳だ。どうだ、可愛い妹が出来て、おまえも嬉しいだろう?」
冷房が利いているにも拘わらず、理事長の額には玉のような汗が浮いていた。
後部座席に身を沈めていた靖が双眼を開いた。
「父上、それは浮気した末の不始末ということですか?」
「まあ、そういうことになるが、もう十五、六年前の話だし」
「母上にはなんと申し開きをするつもりです? 冥王の理事長らしく腹を斬って詫びますか? 介錯なら喜んで引き受けますよ」
「母親には内緒にしてほしいのだが……」
「では今頃になってなぜ、そのような話を?」
「それはだなあ、おまえの最高の好敵手が妹だということを知っておいてほしかったからだよ」
「つまり、僕は実の妹と生き死にの試合をしたと?」
「いや、すまん。あんな凄惨な試合になるとは思わなかったから。それにしてもおまえ、女の子相手に随分と無茶したな。ええ、この鬼畜がぁ」
理事長の声は強張っていた。
靖が鬼畜に相応しい冷たい瞳で言い放った。
「父上、切腹の御覚悟を! 浮気の件、帰宅したら直ちに母上に報告します!」
「お、おい、一寸待て、靖!」
「……」
玲花の大きな瞳がこれほどまでに見開かれたのは生まれて初めてのことだ。
それとは対照的に靖の妹を想う瞳は限りなく優しかった。
■■■
「嵐子ちゃん、待っていたよ」
学院の玄関口で嵐子は呼び止められた。振り向けば、そこには柱に凭れ掛かって寂しげな笑みを浮かべる岡田礼次郎がいた。
「岡田君!」
嵐子の顔が綻んだ。
それもそのはず。わずか三か月の間とはいえ、級友の中で最も親しくお付き合いしたのが彼なのだから。それは彼女にとって唯一の日常的な思い出なのだ。
「岡田君、短い間だったけど友達でいてくれてありがとう。わたしぃ、友達作りが下手だから、あなただけが唯一の友達でした」
「と、友達ぃ!?」と愕然とした礼次郎。
「はい、友達です。でもあなたと知り合えたお陰で初デートを楽しめたし、日本の風物詩、夏祭りも楽しむことが出来ました。本当にありがとう」
嵐子の感謝の眼差しを、礼次郎は照れ笑いで受け止めた。
「いや、俺の方こそ豪華な昼めし御馳走になって。ファミレスでも昼めし奢ってもらったし。祭りでは金魚に水ヨーヨーにスーパーボールにミドリガメに射的の景品のポッキーに輪投げの景品のセミの縫いぐるみに焼きそばや綿菓子やら、ああ、そうか、焼きそばと綿菓子奢ったの俺だっけか」
嵐子がフフッと小声で笑った。
「あの、金魚とミドリガメ、お元気ですかぁ?」
「うん? ああ、ミドリガメは元気だよ。金魚も……」
礼次郎は口籠った。実は金魚は三日と経たずにお亡くなりになったのだ。
だが嵐子ちゃんを傷付けまいとする彼の優しい心が、敢えて彼に嘘をつかせたのだ。
あの金魚、ゴミにポイ捨てせずに、墓でも造ってやりぁよかったかな。
礼次郎は微かな悔悟の念を覚えた。
人差し指を額に当てた嵐子、
「ええと、確か金魚は千年、亀は万年という諺が日本にはあると聞きました。だから長生きするように大切に育ててあげてくださいね。わたしもこれ、いつまでも大切にしますから」
そう言ってショルダーバックから熊の縫いぐるみを取り出した。
それは二人の思い出の品、そして足柄山の熊の垂涎の的、あのクレーンゲームの景品だった。
礼次郎の顔から喜びが溢れ出た。
「そ、それ、持ち歩いてるの!?」
「ええ、あなたにプレゼントされてから肌身離さず持ってます。寝る時だって枕元に置いてますから」
「そうなんだ」
感極まった礼次郎、薄っすらと目に涙を浮かべると、「嵐子ちゃん、俺も君からプレゼントされたセミの縫いぐるみ、一生大切にするよ」
それが本棚の上で埃を被って放置されていることに、礼次郎は激しい慚愧の念を覚えた。
嵐子が手を差し伸べた。
「それでは岡田君、お元気で」
「また日本へ帰って来るんだろ?」
「ええ、そのつもりです」
「待ってるぜ、嵐子ちゃん!」
礼次郎も彼女の手を力強く握り返した。そして名残惜しいのか、いつまでも放そうとしなかった。
嵐子の表情に気合が入った。前腕の筋肉が微かに隆起して、握り締めた手に力が込められてゆく。
冥王の男子生徒の間で頻繁に行われる名物゛握力比べ"を挑まれたと勘違いしたのだ。
「痛ッ!」
思わず顔を顰めた礼次郎。
五十キロを下らない握力を誇る彼だけに、女子に後れを取った衝撃は大きかった。
「ら、嵐子ちゃん、握力、どれくらいあるの?」
「さあ、ハッキリとは分かりませんが、リンゴを握り潰すことは出来ますよ」
「リ、リンゴ!?」
ということはだ。推定握力八十キロォ超ォォォォォ~~~~~!
礼次郎は驚愕に打ち震えた。
血の気を失い麻痺した右手から、骨の軋む音が聞こえてくるのは、彼の幻聴だろうか?
「ら、嵐子ちゃん、最後に、お、お願いがあるんだけど……、そのピコハン、貸してほしいんだけど」
「えっ、ピコハンですかぁ? いいですよ。どうぞ」
言われるままにピコハンを差し出した嵐子。
礼次郎、空いた左手でピコハンを受け取ると、「嵐子ちゃん、ごめん」と呟いて、それを彼女の頭頂へ打ち下ろした。




