第37話 いま運命のゴングが鳴る
体育館の中央に設えたリングを囲む人、人、人。それは奥の舞台や二階の回廊や窓の外やら、見渡す限りに人波を形作り、体育館の床が抜けてしまうのではと心配されるほどの盛況振りを見せていた。
町内会長橋爪伸一の下にも、中に入れなかった者たちの苦情が多数寄せられており、苦慮の結果、放送部が校庭の片隅に大型スクリーンを設けて、試合の様子を実況中継することと相成った。
冥王学院の教諭及び生徒、霞ヶ丘町の町民、法被を着た鯔背なおっさん、お兄さん。霞ヶ丘神社の神主、巫女さん。それに仕事をサボった的屋に至るまで、凡そ二千人は下らない観衆が今や遅し世紀の大一番の開始を待ち侘びていた。
そしていよいよその時は訪れた~! 時刻は十九:〇〇分。
瞬間、体育館内の照明が一斉に落ちて、リングの中央に一条の光が差し込んだ。
暗闇から一人の男の影が浮かび上がった。
冥王学院二年、田中宗一。
放送部期待の美声の持ち主で、その良く通る清々しいテノールは昼休みの一時、女子生徒の心を虜にせずにはおかなかった。
「御来場の皆様、本日は御来館有難うございます。え~、これより~、無制限一本勝負を行います! まずは赤コ~ナ~、清流院靖、神崎玲花組の入場です!」
舞台奥に一条の光が射した。
光の中でお互いを見つめ合う男女。ワルツ゛南国のバラ"の旋律が体育館内に流れるや、女が男に寄り添い、手を取り合って右回りに流れるように踊り始めた。
舞台の中央にかかる梯子段の手前で立ち止まると、今度は左回りに滑るように梯子段を駆け下り、再びステップを踏み変えて観衆の見守る花道を右回りに踊り抜けた。
そしてリングの梯子段を左回りに駆け上がると、その中央でクルクル回り、握り締めた右手と左手を宛ら勝利宣言の如く高々と差し上げたのだ。
夜会服姿で見つめ合う二人。靖と玲花の息の合った美しい輪舞に、場内は熱狂的な拍手と熱いため息で満たされた。
拍手が鳴り止んだところで、田中リングアナがマイク片手に体育館の入り口を指示して「これより~、青コーナー、一番合戦嵐子、X組の入場です!」と叫んだ。
体育館の出口付近に一条の光が射した。
光の中に佇む浴衣姿の嵐子。演歌"北国の春゛の旋律が館内に流れるや、左右の手に握り締めた二本のピコハンを日本舞踊の舞扇子のごとく流しながら、紙吹雪が舞い散る花道をすり足で静々と進んでゆく。その圧倒的な日本の伝統文化の美に魅せられた観衆は、熱狂的な拍手と歓声を惜しまなかった。
が、そこで放送席の実況アナウンサー、放送部部長の三年五組、朽木正信が異変に気付いて絶叫した。
「おや、どうしたことだ? 嵐子ちゃんは一人だ! まさか、まさか、嵐子ちゃんは一人で闘う気か~~~! 無謀だ、余りにも無謀すぎる! これは正気とは思えませんねぇ、どうですか? 解説の本居部長?」
傍らでは、本試合の解説を買って出た本居真一が、リング上に熱い視線を送っていた。
「そうですねえ、我々新聞部の調査でもⅩの正体を突き止めることは出来なかったので、その辺は興味津々だったのですが。これでは試合の成立すら危ぶまれます」
本居の危惧は別にあった。それは嵐子ではなく、蘭子による二対一の変則マッチが執行されることだった。いくら冥王の歴史に燦然と輝く女王様でも、それは無謀というものだ。
嵐子はエプロンから空中三回転で軽やかにリングインすると、二本のピコハンで゛の"の字を描いて、それを赤コーナーに控える靖、玲花の両名に突き付けるという大胆な見得を切った。それこそ挑戦状を叩き付ける感が炸裂しており、観衆は否応なく盛り上がるはずであったが……。拍手や歓声は疎ら、場内は騒然としたままだった。
審判員に指名された坂田教諭も、嵐子の胸や腰を入念に身体検査しながら「君、一人で闘う気かね?」と尋ねた。
嵐子は用意した紐で襷がけをしながら、
「大丈夫ぅ、なぜなれば私は一人ではないからですぅ」
「どういう意味かね?」
「母が……、亡くなった母が夢に現われて、いざとなればあたしが加勢するから心置きなく闘ってこいと」
「……」
納得顔で引き下がった坂田。
彼も玲花や本居のように事の真相を知っていたのかもしれない。
が、納得できないのが靖だ。
審判員の坂田を呼び寄せると、
「どういうことです? 彼女一人では試合は成立しないはずですが」
坂田教諭が上目使いに靖を見た。
「ではどうするね? 試合を放棄するかね?」
靖は苦笑してロープを跨いだ。
玲花が慌てて声をかけた。
「何処へ?」
「知れたこと! 僕は試合を放棄する!」
「……」
「試合なら君一人でやりたまえ。君もそれを望んでいたはずだ!」
「そんな、一寸待って」
彼を引き留めようと手を伸ばした玲花。
刹那、「待ちたまえ!」と鋭い声がとんだ。
振り向いた二人の顔目掛けて、目にも止まらぬ速さでとある物体が飛んできた。
避け切れぬ、と踏んだ二人は素早く愛刀を引き抜いて、その物体を真っ二つに切り裂いた。瞬間、飛沫が跳んで二人は全身びしょ濡れになった。その物体の正体は二つの水ヨーヨーだった。
場内が騒めき立った。
エプロンに佇立する人影。ライダーマンのお面を被った長身の男だ。
「ーー!」
靖、玲花が同時に身構えた。その男の只ならぬ気配が二人に緊張を強いたのだ。
ところが嵐子ちゃんはどこ吹く風。袂から取り出したる舞扇子で頻りに顔を扇いでいる。
男は審判員にマイクを要求すると開口一番、「私が噂のパートナーXだ。可愛い娘、いや、可愛い女学生の窮地を見兼ねて助太刀いたす。一番合戦君、共に勝利を目指そうではないか!」
場内がどよめいた。差し出された手を嵐子が握り返したのだ。そして耳元で囁いた。
「あなたならあの二人を相手に遅れを取ることはありますまい。でもライダーマンのお面を選んだのは失敗でした。なぜなら象徴の口髭が丸見えだからですぅ。ねえ、そうですわよねえ? 理事長先生」
ライダーマン、いや、理事長は照れ臭そうにハハッと笑うと、
「なんだ、バレてたのか……」
坂田教諭が不意の闖入者に歩み寄った。
「理事長、いや、その、あなたのリングネームは?」
「そうだな、ライダーマンとでもしておこうか」
「ハッ、承知しました」
坂田教諭、リングの隅に控える田中リングアナにその旨を伝えると、彼はリングの中央に進み出て高らかに嵐子、ライダーマン組の名を叫んだ。その呼び名に応えて、観衆に両手を振る二人を見つめる玲花の口元に笑みが浮かんだ。
「どうやらこれで一件落着ね。それにしてもあの男、ライダーマン? なかなかの手練れのようだけど」
だが靖は不満顔だった。
「父上、一体何を?」
「ーー?」
その独白の意味を計りかねた玲花。が、彼女に熟慮の時間はなかった。
今、運命のゴングが鳴った。
時は十九:〇五分。ーーカァ~~~~~ン!




