第34話 神崎玲花の秘めたる想い
神崎玲花が伊集院邸を訪れたのは約半年振り、靖が生徒会役員の労をねぎらうべく主催した去年の暮れの忘年会以来だった。
玲花の恥ずかしい思い出、ーーカクテルをしこたま呑んで酔っ払った挙句、靖に凭れ掛かって介抱をお願いしたのだが、靖の「君、冷たい夜風に当たって、酔いを醒ましてきたまえ」という冷たい一言と共に、一人テラスへ追い出された。を彼女は伊集院邸を目の前に複雑な想いで噛み締めていた。
だが今日は、そんな遊び半分の不埒な目的で来た訳ではない。彼女の武闘家としての誇りを賭けた、言うなれば靖の恋人という地位すら凌駕するほどの至高の地位、次期試合のタッグパートナーの地位を不動のものとすべく直談判に来たのだ。
彼女の耳にした噂、ーー伊集院靖、次期対戦を拒絶。
「僕はあんな下品な試合形式を認めない」
もしその噂が本当なら、あらゆる手段を以て前言を撤回させなければならない。愛する彼との夢の試合形式は、万難を排してでも成就させるのだ。
応接間で女中の出した紅茶を嗜んでいた玲花は、棚に飾られた数十のトロフィーの中に、厳しくも甘い思い出、小六の時、靖とペアで出場した競技ダンスJr大会の優勝トロフィーを発見した。
まあ、懐かしい。
あの時、靖は挫けそうな自分を支えて見事優勝へ導いてくれた。
お互い、学年ではトップの成績を争う好敵手同士。そんな二人が反目しあいながらも、最後には力を合わせて勝利する。人生最高の充実感! その時から靖は彼女の心の想い人となった。
「やあ、待たせたね」
不意に声がした。
振り向けば、そこには静かにほほ笑む靖の姿があった。
心の奥底に秘めた大切な思い出に浸っていた玲花からすれば、気配を消して忍び寄る靖は迷惑な闖入者に過ぎない。本来なら不快に感じても不思議ではないのだが「さあ、かけたまえ。話を聞こうか?」と素っ気ない口調で言われれば、嘆息してその言葉に従うしかない。
「で、何だい? 話って」
「それが、会長に関する良からぬ噂を耳にしたので、もしやと思い、その真偽の程をお尋ねしようと……」
「……噂?」
「ええ、実は、会長が次期試合を棄権した。という噂なのですが……」
「……」
「もし事実であれば、会長の真意を確かめたく……」
「噂を気にするなんて、君らしくもない」
靖は紅茶を一口啜ると、玲花の碧眼を正面から睨み据えた。
「この際だからはっきり言っておこう。ーー事実だ」
「ーー!」
「僕は次期試合を棄権する」
「……」
もしや……、とは思っていたものの、いざ当人の口から聞かされると、やはり衝撃は大きかった。
何としても翻意させなければならない。
玲花はテーブルに両手をついて立ち上がった。
「なぜですの? 理由をおっしゃってください」
「問題は今回の試合形式にある」
「試合形式? それは、つまり……」
「そうさ、タッグマッチだ!」
靖も負けじとテーブルに片手をついて立ち上がった。
「武道とは本来、一対一で行われるべきものだ。だからこそ相手の力量を、そして己の力量を正確に知り、またそこから相手への深い畏敬と、己への厳しい陶冶が生まれてくる。僕はね、たとえどんなに弱い相手であろうと、今まで一度も対戦相手を蔑んだことはない。なぜならどのようなレベルの相手にも、必ず僕を凌ぐ何らかの長所を見い出せるからだ。それを厳しい鍛錬で我がものとし、己をより高い境地へと導く。それこそが武道の、否、武士道の理想の有り様だと、僕は信じてる。タッグマッチという試合形式は、それを根本から否定するものだ。断じて受け入れる訳にはいかない」
自身を密かにサムライと自認する靖にとって、それは当然の理なのだろうが、それでは玲花の目論見が外れてしまう。彼女は奥の手を出すことにした。
「時に、会長は一番合戦蘭子さんという方を……、いえ、嵐ではなく、花の蘭の蘭子さんという方をご存知かしら?」
「どうして、君がそれを?」
「冥王高校の不敗神話。伝説の女王一番合戦蘭子。もし彼女と対戦できるのなら、あなたはお受けになるかしら?」
靖の視線が床に落ちた。が、それも一瞬のこと。
「君は何が言いたいんだ?」
「わたくし、調べましたのよ。彼女が、あの嵐子さんが、実は不敗の女王の実の娘だということを」
「ーー!」
靖の顔色が変わった。
放った餌に食いついたのだ。
「彼女の実力は母親に引けは取りません。いえ、それどころか母親そのものといっても過言ではありません。冥王の頂点に立つ者なら、ぜひ一度は対戦すべきです!」
靖が目を細めて冷笑した。
「凄い入れ込みようだね。意外だよ。君がそれほどまでに対戦を熱望するなんて。それも娘とではなく、死んだ母親の方と」
「……」
思わず口を噤んだ玲花。
さすがの彼女も娘の身体に母親の霊が憑依しているとは言い出せなかった。
靖がソファーにひっくり返った。
「実は僕も彼女、母親の蘭子さんに興味を持って、独自に調べたことがあるんだ。まっ、後ろを見てごらん」
言われるままに振り返った玲花の瞳に映った一枚の写真。そこにはテニスウェア姿で優勝カップ片手に微笑む靖と、その傍らでテニスウェア姿でラケット片手に大口開けて笑ってる彼女……、一番合戦さん!
「これは!?」
「勘違いしないでほしい。その人は僕の父、清流院擾だ。そして隣の女性こそ、彼女の母親、一番合戦蘭子さんだ」
「……」
「驚いたかい? 高校時代、父は彼女とペアを組んで、インターハイで優勝したことがあるんだ」
「……」
そういえば……、玲花は再び写真を見遣った。
写真の男子は、靖とは髪型も違うし、顔付にも多少の違いが認められる。その特徴の違いは傍らの女子にも、娘との比較において見受けられた。
靖は話を続けた。
「父は三回ほど彼女と果し合いをしたそうだ。いずれも完敗だったそうだが。高校時代のこととはいえ、剣聖といわれる父につけ入る隙を与えなかったほどの強豪だ。僕が興味を持ったとしても不思議ではあるまい?」
「では、なぜ対戦を拒否するのです?」
「娘は娘、母親は母親だろ? 確かに娘の嵐子君も強いが、母親の資質に匹敵するかはまだ未知数だ。それをどうして君は母親と対等の資質を備えているなどと……」
「その理由を、わたくしの口から言うことはできません。もし知りたければ、御友人の本居さんにお尋ねくださいな」
「本居に? そういえばあいつ、変なことを言っていたな。確か、嵐子君の正体は冥王最強の……」
玲花が素早く遮った。
「ともかく、彼女の実力はわたくしが保証いたします。会長の貴重なお時間を決して無駄にはいたしません。ですから、この試合をぜひ承認していただく……」
靖の視線が床に落ちた。
しばし考え事にに耽っていたが、やさて面を上げると、
「分かった。君がそれほどまでに言うのなら、この試合を承諾しよう」
玲花が深々と頭を下げた。
「心から感謝いたします。会長」
応接間から退出の折、玲花が尋ねた。
「あの、競技ダンス大会で優勝したときのこと、覚えてます?」
「ああ、覚えてるよ。それが?」
「あのとき二人で撮った記念写真、今、どこに?」
「自室に飾ってあるよ。応接間に飾るのが気恥ずかしくてね」
「そう……」
愛する人の身近な場所に、自身の写真が飾られている。
気のないふうを装ったものの、内心、喜びを抑えきれない玲花だった。
そのとき彼女の脳裏にあるアイデアが閃いた。それは良識を逸脱したアイデア、普段の彼女なら歯牙にもかけない発想だが、このときばかりは彼女の心を捕らえて離さなかった。
「今、お暇かしら?」
「ああ、別に用事はないけど」
「ならば付き合ってほしい店があるのですが」
「なんの店?」
「ブティック。新しい稽古着を仕立てようと思いまして」
「ブティック? 稽古着だろ。スポーツ用品店では?」
「いえ、ブティックです。今度の試合に備えて、特別な稽古着を仕立てようと思いまして」




