第30話 闇討ち
「なんだ、ありゃ?」
「さあ、なんですかねえ」
脱兎のごとく廊下を疾走する本居を、擦れ違いざま訝し気に見送る一人と一匹。
ご存知、足柄山の金太郎とその子分の熊公。
彼らがなぜ冥王の廊下をとぼとぼとさ迷い歩いているかというと、別段深い理由がある訳ではなく、単に暇を持て余した挙句「そうだ、久し振りに嵐子ちゃんに会いに行こう!」と二日振りに会うことを思い付き、こうして冥王までのこのこやって来たという訳なのだが。
一年一組の教室で彼女を見つけたものの、厳粛な授業風景を眺めているうちに「金さん、こりゃ、声をかける訳にはいきませんねえ」と熊公が遠慮がちに呟き「仕方ねえ、授業とやらが終わるまで、その辺でもブラついてるか」と金太郎が奇しくも現代教育に理解を示したことで、結局一人と一匹は校内散策に足を向けたのだ。……とは言うものの、校内に面白いものなどあろうはずもなく、せいぜい体育館でバレーボールの授業に勤しむ女子生徒の露わな太腿に見入ってしまう程度の楽しみしかないのだが、それもほんの10分程度の時間潰しに過ぎず「わざわざ学校くんだりまで来るこたなかったか」「そうっすね、一旦出直しますか」等と空虚な会話を交わしているうちに、女子トイレの中から「いいこと、あなた達。生かして帰しては駄目! 絶対に息の根を止めるのよ!」とひそひそ怪しい声が聞こえてくれば、ーー何事! と一人と一匹が顔を見合わせるのも当然だ。
「おい、ちょっと覗いてみるか?」
「ええっ! 金さんともあろうお方が、そんな野暮なことを」
「何も個室の中まで覗こうってんじゃねえんだ。ただ臭うんだよ」
「そりゃ、トイレの中は臭いますが」
「いや、厠の臭いじゃねえんだ。そうよ、犯罪の臭いよ」
「犯罪? 知ってます? 覗きってのは立派な犯罪ですよ」
「俺ら姿が見えねえんだから、検非違使に捕まる心配はねえよ」
「それを言うなら警察」と熊公が大きな掌で、金太郎の胸板にドンと突っ込みを入れたそのとき、女子トイレからぞろぞろと数名の女子が姿を現した。
「授業中に厠で密談とは……、こりゃあ、どう考えても悪だくみに違えねえ。おい、熊公。後をつけるぞ」
「合点、承知!」
姿が見えないにも拘わらず、なぜか物陰に身を潜めなが尾行を始めた一人と一匹。
行きがかり上、仕方のない成り行きとはいえ、熊公は、ーーもしかして俺らの方が犯罪者? 等と尾行という後ろめたい行為に一抹の疑念を感じつつ、それでも息の根を止めるなどという殺人予告を見逃す訳にもいかず、彼女達が犯罪に手を染めることがなきよう神に祈りつつ、不安と焦燥に身を窶して着いた先は剣闘部の部室だった。
剣闘部? と疑問を抱く読者もいるだろうから一言言い添えておくと、剣術は格闘技! と称してよく言えば自由闊達、悪く言えば作法無視の喧嘩剣法で、学院内でも余り評判の良くない部活だった。
彼女らは各々、壁の刀掛けから木刀を外すと、
「ねえ、本当に殺っちゃうの?」
「フフッ、まさか命まで取ろうとは思わないわ。でもね、二度とお姉様に手出しできないように、腕の一本くらいは」
そんな物騒な会話の最中にも、彼女らは握り締めた木刀の感触を確かめるべく、何度も気合の入った素振りを繰り返し、元武士の金太郎をして、ーー流石は冥王生! と唸らせるだけの力量を示した。
「さあ、行くわよ」
彼女らが次に移動した場所は校舎の玄関。
下駄箱の前に立ったので、そのままお帰りかと思いきや、集団の中心人物と思しき女子がポケットから一通の封書を取り出した。
「彼女、敵前逃亡しなければいいんだけど」
刮目する一人と一匹。
その指間にひらひらと挟んだ封書の表にはこう認めてあった。
決闘状。
思わず顔を見合わせた一人と一匹。
集団が高笑いを残して去った後、一人と一匹は決闘状が放り込まれた下駄箱の名前を確認した。
一番合戦嵐子。
思わず息を飲む一人と一匹。
「金さん。俺ら、嵐子ちゃんの力になれそうですよ」
「おうよ! さっそく姫(嵐子)に御進駐じゃあああああ~!」
……という訳で、一人と一匹は肥満気味の身体を持て余しつつも、ドタドタと息を切らせて一年一組の教室へ急いだ。
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「遅いわ」
音羽冬華は苛立っていた。
約定の時刻はとうに過ぎているのだが、決闘相手の一番合戦嵐子は一向に姿を見せず、決闘場所に指定した体育倉庫の中は、他人の顔も判別できぬほどの闇に包まれていた。
「ねえ、冬華。もしかして嵐子の奴に逃げられたんじゃ……」
傍らで囁き声がした。親衛隊副長高坂真奈美だった。
他の三人、親衛隊員の高山みなみ、支倉明日奈、遠部梨花も無言でその意見に同調する。
腕時計に目を落とすと時刻は午後七時を回っており、誰の目にも決闘をすっぽかされたのは明白だった。
「こんなことなら帰路を狙って闇討ちにするんだった」
心の片隅に僅かに残った玲花親衛隊の誇りが、その卑怯な手段を回避させたのだが、相手が敵前逃亡した以上、最早どのような手段も許される。ふとそんな気がしたのだ。
「今日はここまで。明日、もう一度作戦を練り直すわ」
その一言が場の空気を弛緩させた。
高坂が背伸びしつつ立ち上がり「お腹すいたなあ。早く帰って晩御飯……」
その口を素早く冬華の左手が塞ぐ。ドアの外に人の気配を感じたのだ。
来た!
全員、素早く物陰に隠れる。
ドアが左右に開いて、人影が音もなく倉庫内に侵入した。
今よ!
冬華が無言の指示を出す。打合せ通り、明日奈と梨花が人影の背後に回ってドアを閉めた。
人影を袋のネズミにしたところで、冬華が跳び箱の陰から躍り出る。
同時に真奈美とみなみも飛び出して、人影に向かって石灰を投げつけた。
闇の中にもわっと白い粉が舞って、一瞬、人影は棒立ちとなった。
もらったわ!
勝利の予感に心震わせて、上段から相手の頭頂へ木刀を振り下ろす。が、それよりも早く人影の右手が動いて、冬華の腹部へ何かをのめり込ませた。
ピコッ! と空気圧の音がして、冬華は前のめりに倒れた。そのまま腹部を抑えて苦し気に蹲る。
そのとき人影の背後のドアが開いて、暗闇の中に薄明かりが射した。
冬華が顔を上げた。
暗闇の中から人影の顔が浮かび上がる。ーー嵐子だ。
左手に白い粉が付着した大きなビニール袋を握っている。
冬華は悟った。それを頭から被り、石灰の目潰し攻撃を防いだのだと。
そして彼女の背後に浮かぶ二つの人影。一人は新聞部部長本居真一。そしてもう一人は……。
「ああっ、お、お姉様!」
冬華は絶句した。
そこには闇討ちの現場を最も見られたくない人物が……、敬愛して止まない生徒会副会長神崎玲花が佇んでいた。
「音羽さん、あなた、よくもこのわたくしの顔に泥を塗ってくれたわね!」
玲花の言葉が怒りのために震えている。
でも憎悪の感情は本来なら嵐子に向けられるべき。
冬華が必死に叫んだ。
「いえ、違います! 私はお姉様の受けた恥辱をそそぐために」
「音羽さん、それを要らぬお世話と言うのよ。わたくしは自分の受けた屈辱は自分の手で返します。それにこの怯懦な振る舞い」
玲花は闇討ちに参加した他の生徒を一人一人睨み付けると、暗闇に舞う石灰の粉に咽ながら「あなた方はそれでも冥王の生徒ですか? 恥を知りなさい!」と一喝した。
「……」
肩を落として俯く冬華ら五人に「以後、親衛隊を名乗ることは許しません。いいですね?」と念を押して、嵐子共々、体育倉庫を後にした。
校門へと続く道すがら、玲花は嵐子と肩を並べて歩いた。
「御免なさいね。後輩がご迷惑かけて」
「いえいえ、副会長さんのお蔭で私闘にならずにすんだのですから、わたしの方こそ感謝感謝ですぅ」
嵐子が無邪気にほほ笑んだ。
玲花も釣られて微笑み返す。
そんな二人を背中から眺めていた本居は、ーーやはり副会長に連絡したのは正解だったな。と自身の判断に満足を覚えた。
放課後、近所の喫茶店で嵐子に取材を申し入れた本居だが、その場で決闘状と書かれた封書を見せられ「あたしぃ、用事が出来たので、残念ですが取材をお断りしなければなりません」と告げられたのだ。
これはまずいぞ。もし学校側に私闘がバレたら。
そうなれば世紀の一戦、清流院VS一番合戦の対戦はお流れとなり、本居の掴んだ世紀の大スクープも泡沫と消える。それだけは絶対に避けたい本居は、窮余の一策として、親衛隊にとって絶対的な存在である神崎玲花に、私闘の仲裁を頼んだのだ。




