第27話 夕陽の中の幻影
礼次郎は気になっていた。
女の子相手なら大概は外さない服飾の話をしているにも拘わらず、なぜか嵐子ちゃんはちらちらと余所見をして、会話が滞りがちになってしまう。
その視線の先に何があるのかと見てみれば、夕暮れの生暖かい風にガサガサと音を立てて揺れる茂みがあるのみ。
終いには心ここにあらずという感じで、茂みの方をジッと見たきり、まったく耳を貸さなくなった嵐子ちゃん。さすがの冥王のナンパ師も打つ手なしの状態となり「嵐子ちゃん、服飾の話、つまらないかな?」とただ苦笑を浮かべるだけだった。
ところが嵐子ときたら「いえ、そんなことありませんよぅ。わたしだって女の子。ちゃんと甘い物にも興味ありますぅ」と服飾と甘い物を取り違えて、話をろくに聞いていないことを露呈した。
自身の話題を無視されたと知って、青春の淡い失望を味わった礼次郎。それでも彼女の屈託のない笑顔を眺めていると、何でも赦してあげる気になるから不思議だ。
「嵐子ちゃんはさ、何に興味があんの? 熊と料理以外にさ」
「それ以外ですかぁ? そうですねえ~、今なら金太郎さんに嵌ってますぅ」
「えっ、金太郎? あの昔話の?」
「昔話というよりは現代の話なんですけどぉ」
「……現代?」
またまた煙に巻かれた礼次郎。そんな彼を放置して、嵐子は一人ベンチから立ち上がった。
「わたし、もう帰りますね。今日はとても楽しかったです。いろいろありがとう」
「あっ、待って、嵐子ちゃん!」
別れ難い気持ちから思わず立ち上がった礼次郎。
それが奏功して、振り向いた彼女と一気に距離を縮める結果となった。それこそ吐息が相手の顔にかかりそうなくらいの距離に。そのとたん眼下に見えた可愛らしい朱色の唇。それは中坊時代に数度の接吻を経験した彼にとっても、抑えがたい衝動を感じるほどの魅力に満ちていた。
「嵐子ちゃん!」
本能の赴くままに身を屈めて己の唇を寄せた礼次郎。が、それは得体の知れない感触により阻まれた。
うん?
思わず目を見開けば、そ、そこには防波堤のごとく立ち塞がる熊のぬいぐるみがぁぁぁぁぁ~! そう、彼は嵐子とではなく、彼女が二人の間に滑り込ませた熊のぬいぐるみと接吻してしまったのだ。
茫然自失の礼次郎をそのままに、軽やかなステップで背後に跳び退いた嵐子。顔前にかざした熊のぬいぐるみの片隅から、なんか申し訳なさそうに相手の様子を伺っている。
「あ、あのぉ~、もしかして怒りましたぁ?」
「い、いや、悪ぃのは俺の方だから」
「そっ、よかった」
ようやく笑顔を取り戻した嵐子。そのまま小走りに駆け去ろうとして、再び背後を振り返ると、熊のぬいぐるみを高々と掲げて、
「これ、一生大切にしますぅ! そうだ、我が家の家宝にして、代々子孫に受け継がせますぅ!」と叫んだ。
「いや、そこまでしなくてもいいから」とは言ったものの、つい笑みが零れてしまう礼次郎であった。
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「いや~、よかった、よかった。一時はどうなることかと思ったぜ。令和の光源氏もザマねえな。ククッ、久々に笑わせてもらったぜ!」
ドヤ顔で安堵した金太郎。
美少女が自力で貞操の危機を回避したことで、助けは必要なしと判断したのだろう。握り締めた鉞を再び肩に担ぐと、
「さてと、彼女の無事も見届けたことだし。おい、熊公。俺らも引き上げるぞ」
ところが熊公、金太郎の言葉が耳に入らないのか、茂みの中から飛び出して、ふらふらと美少女の後を追いかけ始めた。
「おい、熊公! おめえ、それ以上深入りしたら立派な追跡者だぞ。礼節を弁えろって言ったのはてめえじゃねえか! おい、熊公、聞いてんのか!」
「熊美ぃ~~~~~、熊美ぃ~~~~~」
「うん、なんだと?!」
金太郎は悟った。
熊公は美少女を追いかけていたのではなく、彼女の持つ熊のぬいぐるみを追いかけていたのだ。今は亡き妻の面影を追い求めて。
「そうか、おめえ、そこまで熊美さんのことを……」
涙に暮れた金太郎。曇った視界を、ーーてやんでぇ~。とぶっとい腕でごしごし拭いて、再び濡れた瞳で前方を見た。
そのとき奇跡が起こった
彼は確かに見た。
沈みゆく夕陽の中で、二匹の月の輪熊が熱い抱擁を交わしているのを。
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美少女が振り返った。
熊公が立ち止まった。
彼女の丸い大きな瞳が自分を見つめているように思えたから。
美少女が口を開いた。
熊公が聞き耳を立てた。
彼女の紅い唇が自分に囁きかけているように思えたから。
「あのぉ~、熊さん。何かわたしに用ですかぁ?」
熊さんと問われれば、やはり自分しかいないのだろうが、もしかしたら傍らに大工の棟梁の熊さんがいるんじゃないかと思い、一応念のため左右を見回して確認してみる。
で、やっぱいないのが当然な訳で、一応念のため、自分自身を指差して確認してみる。
美少女がニッコリと微笑んで肯首した。
熊公が吃驚して叫んだ。
「み、見えるんだ?」
「ええ、勿論!」
そうとなれば話は早い。彼女が熊に好意的なのも幸いして、熊公の話はとんとん拍子に進み、彼が追跡者となった訳を理解してもらったところで「あの、出来ればそのぬいぐるみ、譲ってほしいのですが」と控えめに申し出た。
「そうですねえ~」
額に人差し指を当てて、悩ましげに夕焼け空を仰いだ嵐子。
三羽のカラスが仲良くアホ~、アホ~と夕陽を横切ったところで、ーーうん! と決断すると、彼女としては珍しく毅然とした態度で「やはり、このぬいぐるみは大切な思い出なので、あげる訳にはいきません」と言い放った。
そんなことは百も承知の熊公。それでも無念の想いは拭いきれず、がっくりと肩を落とすと「やはり、そうですよねえ」と寂しげに呟いた。
でも彼女は微笑みを絶やさなかった。
「でもですねえ、今日のわたしの幸せを、あなたに分けてあげることなら出来ます」
「あの、それはどういうことでしょうか?」
「今から、その方法を内緒でお教えしますから、ちょっとお耳を貸してくださいな」
「はあ、よくは分かりませんが、そういうことなら」と巨体を屈めて、彼女の口元に耳を寄せた熊公。
そのとき熊のぬいぐるみの唇が、熊公の頬にそっと押し当てられた。
「あなた、愛してる」という囁きと共に。
熊美!
相手が人間であることを忘れ、力の限り彼女を抱き締めてしまった熊公。
もし自身が霊体でなければ、彼女の背骨は間違いなくへし折られていたはずだ。
そのまま数分の時が過ぎた。
熊公の太い腕から解放された彼女は、にっこりと微笑むと「では熊さん、お元気で」と言い残して、夕陽の彼方へ駆け去っていった。
なんていい娘なんだ。
感無量の熊公。しばらくドヤ顔で感動に浸っていると、そこへ金太郎がやって来て「おい、今ここに熊美さんがいなかったか?」と尋ねた。
「ええ、いましたとも。あれは間違いなく熊美でした」
「で、彼女、どこ行った?」ときょろきょろ辺りを見回す金太郎。
「帰りましたよ」
「帰っただとぉ? どこへだよ?」
「俺の、心の中へ」
「はぁ? なに言ってんだ、おまえ? 意味わかんねえぞ!」
「いいんですよ。金さんにはわからなくとも」
「ヘン、そうかい!」
一人と一匹はそのまま夜の帳の中へ姿を消した。




