第17話 私闘! 嵐子対佐馬之丞
終業時間の予鈴を聴いた嵐子は、ア~アッと思い切り背伸びをすると「よしっ!」と気合を入れ直してピコハン片手に女子トイレへ直行。そこでジャージに着替えると、軽やかな、それこそ天女の羽衣を纏ったかの様な軽やかなステップで階段をフワフワと駆け下った。
既にグラウンドには気の早い数十名の生徒が待機しており、体操服にジャージ姿の嵐子を認めると「オッ、こりゃ、なかなか大胆な」とか「ウ~ン、彼女、萌えるねえ~」とか「彼女、考えたわね」等とその服装に対する評価の声が上がった。
と言うのも通常、対戦は稽古着に袴の服装で行われるのだが、古武術の"礼に始まり礼に終わる゛という精神性を重んじる余り、運動性で勝るにも拘わらずジャージの着用は"有り得ない゛。つまり盲点となっていたのだ。
その点、ピコハンは古武術とは言い難く、また正装などあろうはずもなく、それ故に何の拘りもなくジャージを選択できたのだ。
その服装を非礼とみる向きも少なくないが、大事な決闘の前ゆえ、あえて声高に指摘する者はいなかった。
が、唯一人、佐馬之丞だけはその非礼を捨て置かなかった。
「無礼千万!」
そう叫ぶや否や、校舎の玄関口よりノッシノッシと大股で嵐子に歩み寄り、腰に下げた打ち刀を突き付けると「その服装は何だ!」と一喝した。
嵐子が不敵な笑みを浮かべた。
「あら~、知らないんですかぁ? これはぁ、ジャージという運動着なんですよぉ」
「そんなことはわかっている! 俺が言いたいのはな、男と男が命懸けで勝負する決闘に、そのラフな恰好はなかろうということなのだ」
「あら~、わたしも五月雨さんもぉ、女の子なんですけどぉ」
「いちいち人の揚げ足を取るな!」
「でも困りましたねぇ~、あたしぃ、稽古着持ってないしぃ~、それにジャージって、とても動きやすいんですよぉ~」
「け、稽古着を持ってない、だと?」
佐馬之丞の額に青筋が浮かび上がり、打ち刀を持つ手がプルプルと震え出した。
「それでもお前は誇り高き冥王の生徒か?」
「一応、そのつもりなんですけどぉ、そうだぁ! 今、生徒手帳お見せしますねぇ」
そう言って体操着のポケットに指を滑らせた嵐子は、それが制服のポケットでないことに気付き、
「あらぁ~、生徒手帳、教室に置いてきてしまいましたぁ~。なんなら後でお見せしましょうかぁ?」
「面白いのか?」
「……ハイ?」
「俺を愚弄して、そんなに面白いのかと訊いておる」
佐馬之丞の顔面が三倍くらいに膨れ上がった、……ように周囲には見えた。
多分、怒りが昂じた末の熱膨張のせいと思われる。
それはそれは恐ろしい顔なのだが、普通の高校に通う普通の女子高生なら間違いなくオシッコをちびってしまうくらいの恐ろしい顔なのだが、そこは嵐子も冥王の女子生徒。
う~ん、と腕を組んで考え込んだ挙句、ふと空を見上げて、夕方でもないのになぜかカラスが、あほ~、あほ~、と鳴きながら夕陽を背景に飛んでゆくのを見て「うん、わかった!」と頷くと、まるで深呼吸でもするかのようにスゥ~~~~~と息を深く吸い込んで、
「と~~~~~ってもぉ、楽しかっーー」
刹那、佐馬之丞が目にも止まらぬ早業で怒りの一撃を打ち下ろした。
「おのれぇ~~~~~、天誅~~~~~!」
「あれ~~~~~! 何卒、何卒、お赦しをぉ~~~~~!」
と悲鳴を上げつつも、すかさずピコハンで横一文字に受ける嵐子。
激しい鍔迫り合いの末、互いの顔が間合い一尺まで接近した。
「そこへ直れ! 下郎ぉぉぉぉぉ~~~~~!」と唾を撒き散らして、ぐいぐい押しまくる佐馬之丞。
「あ~ら、不意打ちなんて武士道に悖りますわよん!」と必死こいて力の限り腕を突っ張る嵐子。
世紀の大一番を前に、誰もが見たがるAクラス一位と三位の大喧嘩がおっ始まった。
が、形勢は誰の目にも膂力と身長に勝る佐馬之丞が有利で、嵐子は持ち堪えるだけで精一杯。ジリジリと圧倒されて、とうとう頭頂が地面に着きそうなくらいに海老反りの姿勢になった。
ギリギリと歯を食い縛り耐える嵐子の姿に、萌え~ときた男子は少なくないのだが、それ以外に別の問題を危惧する生徒も少なくなかった。
誰の目にも私闘を挑んだ佐馬之丞の校則違反は明らかで、もし教師の目に留まれば停学処分は免れない。
止めなければ! の空気は周囲に醸成されつつあるのだが、そこはAクラス一位と三位の対決。両者の間から立ち昇る殺気が壁となり、容易に他者を寄せ付けなかった。
幸か不幸か、担当教諭の坂田はグラウンドの片隅にパイプ椅子を広げ、うつらうつらと船を漕いでおり、止めるなら今が好機のはずなのだが……。
観戦者の一人、生徒会副会長にしてSクラス二位の三年生神崎玲花は、学院の規律者としてそんな暴走行為の対処を心得ており、誰もが私闘の仲裁をためらっているのを見て「では、わたくしが」と銘刀"飛龍゛を携えて静々と前に進み出た。
「待ちたまえ、神崎君」
その透き通った声の主は見ずとも分かる。振り向けば、そこには銘刀"流氷゛を携えた生徒会長清流院靖の姿があった。
玲花が静かに微笑んだ。
「いつもながら背後を取るのがお上手ね」
「それより、あれを見たまえ。君にはあれが見えないのか?」
その指差す方向を見れば、そこには校門から侵入してくる不審者の影が。
玲花は最初、自身の目を疑った。何度も何度も自身の目を擦って、その影を直視した。
常に冷静にして気品を失わない彼女が碧眼を丸くて、紅唇を戦慄かせて、更に美しき金髪までもクルンクルンとカールさせて、全身で衝撃を物語り始めた(因みにこの人、日本人です)。
「あ、あれは……」
彼女が狼狽えるのも無理はなかった。
そこには熊が……、熊がいたのだ。
体長は五尺二、三寸だろうか? 意外に小振りな熊だ。全身褐色の、あれは羆だろうか? 全身が弛んで何故か皺が寄っている。ともかく熊が二足歩行で、八尺は下らない大薙刀を携え、のそりのそりと我が物顔で校庭を闊歩しているのだ。
その時点で玲花はその熊の中身が人間であることを理解したのだが、それでも血の気を失った唇が再び言葉を噤むことはなかった。




