第01話 謎の転校生 一番合戦嵐子
その日も、相も変らぬ日常が繰り返されるはずだった。
佐藤郁恵(15)は毎朝の日課である居合の素振り稽古を終えると、心地よい汗をシャワーで流して、家族の待つダイニングルームへ急いだ。
「おはようございます」
「うむ、おはよう」
父親は大手商社の部長ゆえ、毎朝新聞の経済欄に目を通すことを忘れない。が、同時に、家族への朝の挨拶も欠かさない。
母親も食器洗いの手を休めて、娘へ笑顔を振り向ける。
「今朝は稽古に身が入っていたようね。急がないと、遅れるわよ」
見れば置き時計の長針は、いつもより20分ほど先へ進んでいた。
あっ、大変!
郁恵は手早く朝食を済ませると、バックパックを背負って、脱兎のごとく玄関から飛び出した。
「あっ! 忘れ物」
慌てて引き返すや、玄関に置き忘れた小桜模様の細長い袋を握りしめた。
一見、竹刀袋のように見えるそれは実は刀袋で、中には彼女の愛刀村正が収められていた。それだけが唯一、彼女を非現実の存在へと導く女子高生には不似合な小道具だった。
「行ってきま~す」
二階で洗濯物を干す母親は、遠ざかる娘の背中を見送りつつ単調な日々の雑事に頭を悩ませる。
どこにでも転がっているごく有り触れた日常の風景。それは人々に死まで続く安寧を保証するかに思える。
現に彼女の両親は彼女が今日死ぬなんて露程も考えていないし、彼女自身も何ら死の予兆は感じてはいない。
だが死神は容赦なく大鎌を振るい、遠慮なく人の命を刈り取ってゆく。
彼女の通う私立冥王学院にも、間もなく刈り入れの季節が訪れる。
だがひたひたと忍び寄る死の足音は、まだ誰の耳にも届いていない。
死神が、ーー一番合戦嵐子が転校生として教室に現れるまでは……。
■■■
彼女、一番合戦嵐子が教室に現れたとき、そこは男子生徒の悪臭、……いや、ため息によって満たされた(おまえら、ちゃんと歯磨けよ)。
寝ぼけ眼の者は死んだマグロのような目をカッと見開き、朝弁をかき込もうとした者は握った箸をポロリと落とし、教科書の陰でグラビア雑誌を眺めていた者は、水着姿の美少女の存在を忘れて、誰もが教壇に可憐に佇む美少女の存在に見惚れていた。
女子だって負けちゃいない。寝ぼけ眼の者は充血した目をゴシゴシ擦り、ノートの隅に落書きしていた者は握り締めた鉛筆をポキリとへし折り、教科書の陰でBL本を読んでいた者は美少年同士の愛の成り行きを忘れて、誰もが教壇に華麗に佇む美少女の存在に嫉妬の目を向けた。
全員の目を釘付けにしたところで、その美少女はチョーク片手に、ーー一番合戦嵐子。と黒板に自分の名前を書き記した。
いちまかせらんこ。と読みます。よろしくぅ~。
笑顔でニッコリ、片手を振ってご挨拶。これが小学校一年生のレベルであれば「良くできました」などと担任教師から、お褒めの言葉の一つも貰えたであろうが……。
彼女こと一番合戦嵐子からすれば、心象を良くするための心配りのつもりだろうが、そんな挨拶をされたところで、返す言葉を知った生徒などいるはずもなく。
白けた空気の中で、振った手の置きどころに困った嵐子は、ーーあ~あ、やっちゃった。とばかりに羞恥心に頬を赤らめると、俯き加減にその手を背後に隠した。
「あ~、では自己紹介もすんだことだし、君の得物を見せてもらおうか」
齢72。定年後も依託として教鞭を執り続ける老教師坂田金次郎は、ずり落ちるロイド眼鏡を指で押さえつつ得物、ーー自分の得意とする武器を級友の前でお披露目するよう促した。
得物とはまた何とも物騒な話。とても真面な教師の発言とは思えないのだが、それこそが天下一の武闘派高校、私立冥王学院の依って立つところなのだ。
で、坂田に言われるままに、嵐子が無言で差し出したものはピコピコハンマー。叩くと空気圧でピコピコ音のする例の玩具だった。
生徒の間に何やら不穏な空気が流れた。
理由は簡単。それが余りにも人を食った得物だったからだ。
これ、もしかして挨拶代わりの冗談なのか?
多くの生徒が、そう判断して口元に愛想笑いを浮かべたそのとき、
「ぐはははははっ!」
落雷のごとき哄笑が教室内に鳴り響いた。
それは強風を伴って嵐子に襲いかかり、背中にかかった長い髪と、膝下10センチまである丈の長いスカートを揺らめかせた。
突風が止んで、嵐子が顔を上げた。
前髪が乱れたせいで、表情を窺い知ることはできないが、口元に漂う微笑だけは確認できる。
自信の表れと取れなくもないが、その視線の先にいるのが、あの学級委員長の関佐馬之丞だ。
一年生を代表する怪物生徒だ。
彼を知る者なら、即座にその自信を過剰と判断するはずだ。
「笑止! そんな得物で人が殺せると思うのか?」
机からはみ出さんばかりの体躯(身長200センチ)。椅子を潰さんばかりの重量(体重110キロ)。気の弱い女子なら一睨みで失神しかねないほどの、その岩のような厳つい風貌。
性格は謹厳実直。成績優秀。教師には礼を、先輩には忠を、そして級友には義をどこまでも貫く、孔明と劉備と関羽と張飛の性格を併せ持つ、そんな一人三国志な男なのだ。
無論、冗談など大嫌い。できることならこの世からお笑い芸人を一掃したいなどと考える、生真面目で不遜な男でもある。
転校早々、そんな男に睨まれたのだ。並の女子なら即座に硬直失禁卒倒してしまうところだが、嵐子はどこ吹く風。愛らしい微笑みを絶やすことなく、傍らに控える担任の坂田へ、ーーピコピコハンマーで手のひらを叩いたり、机を叩いたり、肩を叩いたり、挙句の果ては自身の後頭部を叩いたりしている、老教師へ手を差し出した。
「あの~、すみませんけど、そのハンマー、返してもらえます?」
「おっ、うんうん、ほれ」
口の中で何やらもごもご呟いていたが、握ったハンマーの柄の部分を差し出すと、彼女の耳元で「いいのかね? 彼はクラス最強、いや、学年最強の猛者だよ」と囁いた。
「かまいませんよ。どうせ、いずれは当たるんですから」
「ほう、自信だねえ」
その人を小バカにしたような視線を無視して、嵐子はキラキラと闘志輝く瞳で佐馬之丞を睨みつけた。
「さあ、どこからでもかかってきなさい!」
ピコピコハンマーを突き出して、颯爽とポーズを決めた嵐子の肩を坂田がツンツンして一言。
「君、うちは武士道を重んじる学校だよ。礼節は弁えるように」
「ああ、すっかり忘れてました。ごめんなさ~い」
それが反省のポーズだとすれば、余りにも礼節を弁えぬ所業。
ピコピコハンマーで自身の頭をピコッと叩き、ーーてへっ、と男子に媚を売るがごとき笑顔を振り撒けば、女子全員と堅物の左馬之丞の反感を買うのは当然だ。
女子生徒の嫉妬と憎悪の渦巻く中、とうとう左馬之丞の怒りが爆発した。
「痴れ者めが。どうやら、おまえは転校する学び舎を間違えたようだ」
巨体に似合わぬ物静かな立ち振る舞いで、壁に掛かった青龍偃月刀に手をかけると「1年1組出席番号12番、関佐馬之丞。おまえに勝負を申し込む!」鎌倉時代の荒武者のごとく、声高々と名乗りを上げた。
嵐子は傍らの担任を顧みると、
「ええと、先生。あたしの出席番号、何番でしたっけ?」
坂田は出席簿を捲ると「14番」と手短に答えた。
さよですか、では。
「1年1組、出席番号14番、一番合戦嵐子。謹んでお相手仕る」
ピコピコハンマーを脇下段に構えた、その立ち姿の美しいこと。
男子生徒はおろか、女子生徒までもが嘆息せずにはいられない。それは刀剣を得物とすることの多い冥王学院生ならではの見識だった。
左馬之丞の双眼が険しい光を帯びた。