64話 大好きだ
――ガタン。
「なんだ、真人。……盗み聞きか?」
いつの間にか戻ってきていた真人が、扉の前に積まれていたダンボールに躓いたのか、ぼこんと蹴飛ばした。
「……いや、聞いてない。恭哉の母さんが死んだってとこくらいだよ」
「そうか。……私も、このままでいいとは思っていない」
神妙な面持ちで、真司は煙草の箱を握り潰した。
「だが……正直な話。その役目をお前達にはやって欲しくない……と思っている。無責任な話だが、どこかの誰かが、この世界を……あの人を止めてくれたら、と」
「危険な目に合うから、か」
「あぁ……」
「……まだ、どうするかはわからない。優斗の身に起こったこともそうだし、本当に命の危険と隣り合わせなことは確かなんだ。……だけど、俺はこの話を恭哉の所へ持っていく。話はそれからだ」
「そうか……」
「……止めないんだな」
「なんだ、止めて欲しいのか?」
柄にもなく、冗談交じりでそう言って笑う父親を見て、真人は驚いた様子でぽかん、と口を開けた。
「止めれるものなら止めたいが、意味がないからな。それに……心のどこかで期待しているのかもな。お前達が、この世界を変えてくれるのではないか、と」
ぐしゃぐしゃになった煙草の箱から、真司は煙草を一つ取り出した。
「それに、この『KIKYOU』は、桔梗さんの息子である恭哉くんに任せる事に決めていた。……お前達が無事でいてくれるなら、俺は何も文句はない」
その姿は、どこから見ても子供を心配するただの父親で、見慣れない姿がもどかしくて、真人はがしがしと頭をかいた。
「……自分が死ぬのを予期していたのかもな。俺宛の手紙に、母さんから伝言が書いてあったよ。……あんた、読んでないんだろ?」
「お前、宛だったからな。俺宛の手紙がなかった時点で……もしも愛されていなかったら、と思うと怖くて、それを読む勇気はなかったんだ」
「あんた、そんなに弱かったんだな……」
あんなに大きくて、強くて、勝てるイメージが湧かなかった父親の背中が、途端に小さく見える。
「母さんの手紙だけど、私が死んでも泣かないでって書いてあったよ。……俺もあんたも、覚えてる訳がないのにな」
真人は小さな声でぽつりと呟いた。
「それから……あんた宛の手紙を書く度に、涙でぐちゃぐちゃになって、駄目にしちまってたんだと。……安心しろよ。母さんはあんたの事、確かに好きだったよ。……死ぬ覚悟が出来ないくらい、好きだった」
その言葉を聞いた瞬間、真司の瞳が濡れたように揺らいだのがわかった。
「……あー、俺からは以上。じゃあ、俺達は恭哉達に連絡してくるから、ご馳走様。あと、この手紙……貸してやるからなくすなよ。行くぞ、莉奈」
「ま、待ってよ。真人!」
気恥しいのか、さっさと席を立つ真人に呼ばれ、慌てて莉奈もその後を追った。
「それと……今まで悪かった。……心配してくれてありがとう、父さん」
バタン、とリビングの扉の閉まる音に、真司は伸ばしかけた手を引いて、渡された手紙に視線を落とした。
しわにならないようにと思いながらも、ぎゅっと手紙を握る手が震えていた。
「ありがとう、父さん……か」
感慨深げに真人の言葉を復唱する真司の瞳が滲む。
いつかこんな日が訪れるかもしれないと、隠していた写真を、そっと写真立てへと入れる。
写真の中で笑っている桜と桔梗と自分が、あまりにも幸せそうで、隙間だらけになってしまった胸が痛んだ気がして、真司は苦しそうに胸の辺りを掴んだ。
写真を見るだけで、こんなにも複雑な押し潰されそうな感情が溢れてくるのに、その中心にあるべき人を忘れている事が酷く寂しくて、苦しくて仕方がなかった。
「誰一人、いなくなってしまったな……」
唯一、生き残っている男のことを思い浮かべて、最早自分の知る哉斗ではなくなっているのだろう、と真司は目を伏せた。
「……馬鹿だな。自分の子供宛の手紙に、そんなこと書く奴があるか。……涙で濡れててもいいから、全部、……全部残しておいて欲しかったよ」
独り言を吐き出す度に、愛しさが涙となって零れ落ちる。
「俺はまだ、お前のことが好きなままだ。……ごめん。約束を守れなくて……忘れてしまってごめん。……顔を思い出せなくてごめん……。だけど、記憶がなくても心が覚えているんだ。お前の勝ち、だな。こんなになっても、全てを忘れることは出来ないみたいだ……」
溢れ出る想いが、とめどなく流れ出す。
「……なぁ、桜。そんな、残酷なお前のことが……、俺は嫌いじゃなかったよ。……大好きだ」
その独り言を受け止めてくれる相手はこの場にはおらず、受け取り手のいない言葉だけが空を切った。
*
「……真人。お父さんに、手紙渡せてよかったね」
「……そうだな」
「……お父さん、泣いてるね」
「……そうだな」
「あの……えーっと……」
扉の向こう側から、真司の啜り泣く声が聞こえ、空返事をする真人に何かを話さなければ、と莉奈はぐるぐると考えを巡らせていた。
「……莉奈、ありがとう」
「な、なに? 急に」
「一緒に聞いてくれてありがとな。……それに、傍にいてくれてありがとう。……まだ、少し驚いてるんだ。あいつ……、父さんとあんな風に話せるなんて」
「出来るよ。あたしがいなくてもきっと二人は話せてたよ。……だって、二人ともすれ違っていただけだもん」
ふわり、と優しく微笑む莉奈に、真人は照れくさそうに視線を逸らした。
「いや、莉奈がいなかったら、きっと、まだすれ違ったままだったよ。だって、俺と父さん、似た者同士……なんだろ?」
「……! あははっ、確かに。そうかもしれない!」
冗談めかしておどけてみせる真人に、莉奈は声を上げて笑った。
その様子を見て、自分が酷く安心していることに気づくと、真人はまた小さく笑みをこぼした。
守ってやりたいと思っていた小さな妹のような莉奈に、守られていたのは自分の方だと気づいて、真人はもう一度心の中でありがとな、と莉奈へと告げた。
「恭哉達に、伝えないとな」
「……うん」
「不安か?」
「……不安に決まってるでしょ!」
「……そうだな。俺も怖いよ、流石に怖くなった」
「……うん」
「でも、恭哉が進むって言うなら、俺は……」
真人の言葉を遮るようにして、莉奈は力強く両手の拳を胸の高さで握ってみせた。
「わかってるよ! 恭哉なら、進むに決まってるもん。……それに、あたしだってもう、恭哉の友達なの。姫花は親友だし、美樹も優人も大好き。真人だって……大切な人。……だから、あたしだって皆の傍にいるんだから!」
「それでこそ莉奈だな。……その元気に救われるよ、ほんと」
「任せてよ! 元気だけが取り柄だからね!」
「……別に、莉奈の取り柄は元気だけじゃないだろ」
真人は小さな声でぼそりと呟いた。
「ほら、行くぞ。今の父さんと鉢合わせるのは気まずいからな……。和解記念だ、なんでも奢ってやる」
「ほんと!? じゃあ、あたし、パフェが食べたい!」
何も言わずに差し出した手を、当たり前のように握って微笑む莉奈を見て、満たされるような、穏やかな気持ちになるのを真人は感じていた。
これが家族愛か、なんて的外れなことを考えながら、パフェがありそうな店に思いをめぐらせた。
(……そうだ。この前、莉奈が行きたいと言っていたカフェに連れてってやろう。あそこなら、きっとパフェだって置いてあるだろう)
キラキラと瞳を輝かせる莉奈を想像して、真人はくくっ、と笑みをこぼす。
月明かりの照らす夜道で莉奈の手をひいて、出来たばかりのカフェへと足を運ぶ。
その足取りは軽く、真人の心を表しているようだった。




