55話 お願い、死なないで
「やあ、誰かと思えば……美樹と優斗じゃないか」
まるで道端でばったりと出会って世間話でもするかのような穏やかなトーンの声で、血塗れで倒れる優斗とそれを抱える美樹を一瞥すると、首をこてんと傾げてみせた。
「……どうしたんだい? って、聞くまでもないかな。ここに来てしまったから、手を下されてしまったんだね」
そう言うと、恭哉にそっくりな顔で困ったような表情で、黒服の男の方へと歩み寄った。
「……君が、彼を刺したのかな?」
ぽん、と肩に手を乗せられると、黒服の男がびくりと肩を震わせる。
「君は、まだここに来て日が浅かったよね。……教授にしてやられた挽回がしたかったようだけれど、一度のミスでそんなに焦らなくていいんだよ。僕はこんなことで、怒ったりしないんだから、ね?」
にっこりと微笑む表情からは、なんの感情も読み取ることが出来なかった。
「恭哉くんじゃ、ない……?」
血塗れの優斗と美樹を見ても、何も焦る様子を見せない時点で、この男が恭哉ではないことはわかっていた。けれど、同じ顔付きだというのに能面のように貼り付けたようなその笑顔が、何を考えているのかわからなくて酷く不気味に見えた。
「違うよ。そんなに似ているかな? ……いやぁ、僕が恭哉くんだったら、君達も困るでしょ?」
しれっと、別人であることを認めると、男は優斗の様子を観察しているようだった。
「哉斗さん、これは……!」
黒服の男よりも立場が上なのか、哉斗と呼ばれた恭哉そっくりの男へと黒服の男がなんとか言い訳をしようとする。
にこにこと頷きながら話を聞いていた哉斗は、黒服の手をそっと取ると、持っているナイフを流れるような動作で回収した。
「……これはね、最終手段であって、僕達がやりたいことではないんだ。だから、次からは手荒な真似をする前にしっかりと指示を仰いでから判断しようね」
「……っはい! 申し訳ありません……」
「ほら、ここは後は僕に任せて。君は教授の後処理を手伝っておいで」
人を一人刺しているというのに、仕事のミスを窘める上司と部下のような事務的な会話をする二人を、理解が追いついていない美樹は、ぽかんとただ見つめていた。
「……っう。……ぐっ!」
今にも力尽きてしまいそうな優斗のうめき声に、我に返った美樹が消え入りそうな涙声で懇願するように優斗の手を握りしめる。
「……嫌、です。優斗、くん……。お願いだから、死なないでっ……!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪める美樹のこの言葉に、哉斗の表情が一瞬だけ暗く曇った。
「君は、悲しいんだね……。彼はもう、助からないよ。早く、その記憶を手放すといい。君が辛くなってしまう前に」
美樹へとそう告げる哉斗は、嫌味や投げやりなことなどは一切なく、まるで心配するかのような表情で、ただ美樹のことを気遣うように見つめていた。
淡々と告げられる死の宣告と、寄り添うような慰めの言葉。その正反対の本音から、アンバランスな哉斗の精神が伺える。
「……嫌、です! 優斗くんを忘れるなんて、出来るわけない。……ましてや、このまま諦めるなんて、わたしには出来ません……」
「どうして記憶の忘却を拒むんだい? ……君は、その記憶のせいで、今にも壊れてしまいそうじゃないか」
「……耐えられないですよ。でも、存在が無かったことになるなんて、絶対に駄目なん、です……」
美樹の言葉を心底理解が出来ないといった様子で、哉斗は首を捻っている。
「貴方が……悪魔でも何者でもいい。……なんでもします。わたしは、どうなってもいいんです。……私の我儘に付き合ってくれた優斗くんを、こんなところで失いたくないんです……っ!」
どうして、この男に縋ったのか。それは美樹にもわからなかった。
虫の知らせか、恭哉に似ているせいだろうか。こんな状況だというのに、ゆったりとした空気を纏っているこの男なら、優斗を救う術を持っているような気がして、美樹は藁にもすがる思いで哉斗の白衣の裾をぎゅっと掴んだ。
「……お願いします。……優斗くんを、助けて……っ!」
自身の足元で、ぼろぼろと涙を零している美樹に懇願さると、哉斗は見ていられない、とでも言うかのように、小さくため息をついた。
「はぁ……。その表情を見ていると、何故か心がざわざわするよ。……悲しんでいる人を見るのは嫌なんだ、君の望み通り、僕が助けてあげるよ」
ばっ、と顔を上げて、期待と希望を込めた眼差しで見つめてくる美樹を見て、哉斗はもう一度、深いため息をついた。
「……ついておいで。僕なら、彼を救うことが出来る。……その結果、彼が彼でなくなってしまったとしても、ね」
この絶望的な状況で美樹の目の前にぶら下げられた奇跡。それが蜘蛛の糸だろうと、悪魔の囁きでも、優斗が助かるのならばなんでもよかった。
「刺されたのがこの場所だったのは、君は運がいい」
哉斗は、大きな機械のある部屋へと入り、荷台をがらがはと引きずってくると、そこに優斗を乗せてその部屋の中へと運び込んだ。
「ぅ……ぐっ……」
少しの衝撃でも身体への負荷は大きいようで、優斗は度々苦しそうな呻き声を洩らしながらも、哉斗に支えられて荷台から手術台のような台へと身体を移した。
美樹へ補佐をするように指示を出しながら、哉斗がテキパキと傷口への応急処置を行っていく。
「一刻を争う状況だ。もう、君には猶予が無いから、君の希望を聞いてあげることは出来ないけど……」
そう言った哉斗の言葉を遮ると、優斗は覚悟を決めた強い眼差しを向けて、絞り出した声で精一杯の虚勢を張ってみせた。
「……死なないなら、なんだっていい。ボクは、こんな美樹ちゃんを遺して、このまま一人には出来ないから」
こんな時ですら、にっこりと微笑んでみせる優斗が、何よりも痛々しくて、美樹は精一杯の笑顔で応えることしか出来なかった。
「……大丈夫ですよ。優斗くんなら、絶対に大丈夫です。だから……目を覚ましたら、わたしと、デート、してくれますか……?」
「……うん。すっごく、楽しみだなぁ……」
また泣き出しそうになるのを、ぐっと堪えて、美樹は優斗の手を強く握りしめた。
「それじゃあ、手術を始めようか」
哉斗が手術台の隣に置いてある大きな機械へと手を伸ばす。
がこん、と重々しい音を立てて大きな機械の蓋が開くと、予想していなかったその中身に声を上げそうになり、美樹は思わず自身の口を掌で覆った。