思惟
あの後、結局図書室へこっそり引き返し、ノートを一度回収した。
「これで、いいだろう」
私達はお互いに関わり合うと立場が悪くなるから交換日記はやめましょう。
最後に一行付け足して、空間の裂け目に再び送り出した。
やりとりを絶ってしまうことに後悔がないといえば嘘になるが、面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。他の人間ならまだしも、聖女となれば致し方ない。聖女と関わると魔界の今後に影響が及ぶ。これでよかったのだ。そもそも知り合ってしまったことが間違いだったのだ。そう言い聞かせ心を静める。
一瞬ロッキングチェアの脇に置いてあるサイドテーブルに転送させていた『ひとりぼっちの王女と紫陽花の約束』の五巻が目に入ったが、何となく読む気になれず、視線を外した。念入りに空間の裂け目を塞いで、図書室を出た。
翌日。日課としている人間界の観察で、リベルが人間界へ降りて仕入れてきた情報と自分の目で視た情報を照らし合わせた。リベルが得意とする固有魔法は、私自身の物とは違って情報収集に優れており、汎用性も高い。主従契約を結ぶにあたり、相互で固有魔法を使えるようにしてあるので、彼の魔法を借りることも多い。リベルの言う通り、一位の本隊と三位は先日新聞で報道されていた位置から動いていない。また、西から五位が、北から一位の分隊がレトナークに攻め入っている。世界全体を見ると、彼の国が最も大きな戦渦に巻き込まれているようだ。
元二位の配下達は、と探しかけて、北部は国境域以外に戦火がないことに気が付いた。そこで何とはなしに王都へ目を向けると、遠征から帰城するのであろう一団が目に入った。
一団を率いているのは、銀の甲冑に身を包んだ黒髪の少女だった。
聖女を子細に見るのは今日が初めてだった。彼女は王宮へ帰ると、解散を命じたようだ。そのまま自室であろう部屋へ帰る。ドアを閉めてから注意深く周囲を確認すると、彼女は手刀で空間を切り裂いた。裂け目に手を入れて取り出したのは、見知ったノートである。
私はそれを嬉しさと気まずさがない交ぜになった気持ちで見ていた。
しかし、楽しそうにノートを見ていたつむぎが、徐々に顔を曇らせて何か叫んでいるようなのを見て、気まずい気持ちが勝り、私は目を閉じてしまった。きっと最後に付け足した一文を読んだのだろう。
目を開けるとリベルが控えていた。
「世界の動きは、概ね昨日の報告通りだった。……ひとつ気になったが、一位の本隊にもシニスはいないようだ。魔界に帰っているのか?」
「お調べいたしましょう。本日も少しお傍を離れてもよろしいでしょうか」
「よい。頼む」
リベルが転移で去った後、他の従者へしばらく一人になると言い置いて、私は再び目を閉じた。
蘇るのはあの日の魔王の声。
――君なら僕と同じものが視えるかもしれない。聖女が魔界を滅ぼす未来を視たんだ。
――それで、あのような戯れを?
――今より先の未来に、魔界をまとめ上げた者が増長して人間界へ侵攻し、足元を掬われるんだよ。戦争で両親を失って覚醒した聖女によって。
反目させて魔界統一を難しくし、人間界を荒らすことが魔族のガス抜きになって、しかも聖女が生まれてくること自体を防げるなら、力に眩んだ同族の命の幾許かを犠牲にするくらい安いものだとは思わないかい?
(しかし、聖女は生まれてしまった)
あの時、飲み込んでしまわずに、そんなことをすれば聖女が生まれてしまった時に魔族に恨みを抱く結果になりかねない、と言えばよかったのだろうか。
魔界を滅ぼす聖女とつむぎが同一であるかは分からない。
魔王の話によると、未来で聖女を産むはずだった男女は子を成す前に戦争に巻き込まれ、魔王の目論見通り死んでしまったという。
しかし突如として現れたつむぎは、二位を再起不能にすることで頭角を現し、同族が聖女へ関心を示すという結果となった。
つむぎが魔界を滅ぼす聖女であったなら。やはり魔族が彼女の気を引き続けるのは得策ではない。人間が行う魔族への手痛いしっぺ返しは、魔族を憎んだ聖女の手による魔界の滅亡、という最悪の結末になる可能性も十分ある。
烏合の衆だった魔界が派閥という形でまとまりつつあるのも、魔界の滅亡を示唆しているようで思わしくない。
そこでふと、魔王に動く気配がないことが気になった。新聞で報道されたのだ。魔王ももちろん聖女が現れたことを知っているはずだ。
なぜ、魔王は動かない?
何か訳があるのだろうが、全く見当もつかない。
そしてこの状況で、私はどう動くべきなのか。
答えの出ない問いに、私はずんずん思考の海に沈んでいった。
気付かぬうちに、意識は再び人間界へ向いていた。レトナークの王城では、つむぎが豪奢な広間のような場所で、何某かと話をしているようだった。すぐに意識は滑り落ちていき、どこかの室内に切り替わる。
心落ち着く暖色の明かりの下、つむぎが正面にいた。明らかな怒気を放ち、何かまくし立てているようだ。無声の映像なので内容までは分からない。場所に見覚えがある気がして、そこはどこなのか彼女の背後に目を凝らそうとしたが、私が意識を向けただけ、徐々に暗転してしまう。
とても不味い気がしたが、場所が掴めないまま情景は流れていった。その後もとりとめのない映像がいくつも流れたが見たそばから零れ落ちていく。
どうもそのまま眠っていたようだ。
「……ッく、……う」
唐突に右目が疼いて意識が覚醒した。手で押し込めようとするが、右目は、ぐりん、ぐるん、と不規則に運動を続ける。息を詰めて発作が収まるのを待っていたが、眼球が一際大きく疼き、椅子の背もたれに身体を押し付け耐える。
――君には、僕の右目の能力を分け与えよう。
なぜか、あの日の魔王の声が頭を過った。
(――来る)
「あれは……」
しばらくの間、私は椅子に座りこんだまま動くことができなかった。脳が灼けるようだった。働かない頭で、視えたものの意味を考えていた。
だが、答えが出る前に、事態は無情に動いたのだった。
数日後、私は絶句することとなる。
つむぎが、私の屋敷の、図書室の、私のロッキングチェアで、気持ちよさそうに寝息を立てていたのだ。
ヘタレ。