1 人間の腐敗する匂いが水辺を一様に覆っていた。
人間の腐敗する匂いが水辺を一様に覆っていた。
アイルは森の狩人だった。彼は匂いの中心へ向かった。
森では常に幾万の生と同じ数の死があった。
動物は自らの同族の死の匂いを避ける。蛆の集る仲間の死体は言葉を持たない動物たちの心も悲哀で突き刺す。彼らはめったに見ない未来の不安から常に逃げた。そして病や疫病を避けたのだった。
同族の死体の匂いは全ての動物が本能から真っ先に避けるものだった。
今、人間の死体の匂いが水辺を一様に覆っていた。
アイルは水辺の葦際に近づいた。朝方の川辺は濃い霧に覆われていた。湿気を吸った腐敗臭は肺の奥底に貯まるほど濃くなっていた。彼は憂鬱になった。
葦の向こうに何かがあった。彼は臭い空気を吸い込み息を止めた。そして葦をかき分け水辺を覗き込んだ。
水辺に死体が浮いていた。
死体はうつ伏せに浮いていた。濃い色に淀んだ水底に向かって両手両足をだらんと垂らしていた。黄色い蝶が死体の周りを羽ばたいて背中にとまった。
死体の背中は緑色だった。死体は人間ではなかった。
死体はゴブリンだった。子供の背丈しかない痩せたかなしい体つきをしていた。水辺の濃い淀みに波紋の一つも立てずにゴブリンの死体がただ浮いていた。
霧が少し動いた。陽の光が少し射した。川底の何かがわずかに煌めいた。
アイルは身を乗り出し目を凝らした。そして水中の何かを覗き込んだ。ゴブリンの死体の真下に赤い色をした何かがあった。
霧が晴れた。水中に光が射した。光は水中の何かを照らし出した。
それは人間の死体だった。死体の顔は白く蝋化し膨れ上がっていた。白く濁ったむき出しの青い双眸がアイルを見返した。死体は赤い服を着ていた。煌めいたのは甲冑だった。
アイルは水に飛び込んだ。そして死体の両足を握り葦際に引きずりあげた。溶けた両足の肉にアイルの両手がくい込み跡を残した。死体の甲冑は何本もの矢で貫かれていた。鼻はもげて黒い穴が空いていた。
彼は水中に垂れたゴブリンの腕を掴むと、それも葦際に引きずりあげた。そして死体を仰向けにした途端おもわず驚きのけぞってしまった。
死体が急に動いたように感じたのだ。
ゴブリンの大きな重い頭が急に転がりぐるっと回転したのだ。顔面が裂けるほどに開いた口には黄色い犬歯と虫歯で黒く腐った奥歯が並んでいた。大きく虚ろな双眸がアイルを真正面から覗き返した。
しかしもちろん死体は死んでいた。膨れた下腹部に短剣が突き刺さっていた。アイルは短剣を抜いた。しかし、裂けた下腹部から嫌な色をした液体が吹き出し水辺に飛び散ったためアイルは後悔した。
アイルは短剣を葦で拭うと地面に置いた。そして兵士の死体を硬い地面までずりあげると、人を呼ぶため村に走った。
岸辺に上げられた死体の周りには大人たちが集まっていた。アイルが呼んだ村の住人だった。
「北部連隊のようだな」もっとも年長の老人がいった。彼はアイルが住むトリコロ村の村長だった。ハゲ上がった頭に茶色の外套を着ていた。そして太いねじれた木の杖を握っていた。彼は魔法使いだった。
人類とオークは長らく戦争状態にあった。北部連隊とは北の国境を守るロードラン国の軍隊だった。アイルの住むトリコロ村もロードランに属していた。
「年のほどは40といったところか。認識票がある」村長が言うと、首から下げられた銀片を取り上げた。
「お名前は何とおっしゃるのですか」アイルが聞いた。
「名前は書いてない。数字が書いてあるんだ」屈強な体躯をした短髪の中年男性が答えた。彼はヤゴーといいトリコロ村の猟師たちのリーダーだった。
「数字はなんと」アイルが聞いた。
「2264だ」村長は答えた。男たちは死体を横倒しにすると甲冑の紐をはずし脱がせた。ベルトや鞘を取り外し服の中をまさぐった。
「ありました。」痩せた男が答えた。彼はゲイルといい同じく猟師だった。彼は甲冑の裏側を見せると封が貼り付けてあった。遺書だった。
「ここではまだ読まん」村長が言った。「彼は魔物と戦い村を守った。丁重に葬ってやろう」
「ゴブリンはどうしますか」アイルが聞いた。
「川に捨てて魚の餌にでもしておけ」村長が言った。ヤゴーがゴブリンの死体を蹴り飛ばすと音のない水面に派手な飛沫をあげて落下した。そしてそのままゆっくりとどこかへ流れていった。
男たちは兵士の死体を運んで村に戻った。
村の広場では男衆が集まり火を囲って朝食の粥をかきこんでいた。火の中では一人につき一本の焼き魚が串に刺されて焼かれていた。アイルは鱒の背中にかぶりついた。塩の効いた背中の身は柔らかくてうまかった。
「食いながら聞け」村長が言った。「皆も知っての通り今朝オド川のほとりで死体が上がった。死体は北部連隊の所属の兵士だ。恐らく北の砦のどこかが突破されたのだろう。彼はゴブリンと戦い我々の村を守った。丁重に葬ってやろう」
「北へ使いを出したい」村長が続けた。「他の魔物が侵入しているかもしれないから3人使いをだす。ヤゴー、ゲイル、アイルの三人で行け。領主様にもこのことを知らせねばならぬ。ルー、お前が行け。飯が終わったら墓を造ってやろう」
飯の後に男全員で村外れの墓場に穴を掘った。鎧、革靴、剣を外された兵士は穴の中に手を組んで横たわっていた。武具は村で再利用される予定だった。
「遺書を読み上げる」村長が言った。「我、若年より皇軍の栄光に仕え一片の悔いなし。しかし壮年にて故郷に残せし母を思う。我の僅かな蓄え是非母に贈り給え」村長は皆を見渡していった。「この遺言託された。必ず砦に届けようぞ」死体は埋められ名前の刻まれない墓石が立てられた。
アイルは村の入口で出立の準備をするヤゴーとゲイルを待っていた。そこに若い男が近づいてきた。
「アイル、受け取れ」男は鞘に入った短剣を手渡した。短剣はゴブリンに突き刺さっていたものだ。鞘は兵士の死体からもらったものだった。男は鍛冶見習いでルイといった。
「研いだ」ルイはいった。「よく切れると思う」
「ああ」アイルはそう言って短剣を鞘から抜いた。肉厚の両刃は鈍く重たい光を放っていた。ただ刃の縁だけは銀色に一線にとがった光を放っていた。彼はこの短剣を非常に気に入った。
準備を終えたヤゴーとゲイルがやってきた。三人は村を出発した。