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第三章 【2】

 さっと脳裏をよぎる、修学旅行の光景。

 受け持ち学年でもなかった姫島屋先生と、唯一、一緒に行動できた学年行事だ。

 姫島屋先生は担当学年が違うけれど、教員不足のために臨時で修学旅行に付き添うことになったように思う。場所は、京都。海外へ行く学校も多いなか、わが校は伝統を守るという名目のもと、修学旅行は京都へ行った。

 忘れもしない、あれは、二泊三日の修学旅行、二日目の夜。

 鴨川から近い宿泊ホテルの前に、観光客向けの土産物店が並んでいる通りがある。その通りを、夕方、自由に班行動をしてもよいことになったのだ。

 予め決まっていた班行動の時間だったため、同じ班の子たちは彼氏と回ると決めていて、私もそれを知っていた。

 私は不満もなく、ひとり、ぶらぶらと京都の細道を歩いた。

 土産物店が左右に並んでいて、観光客は修学旅行生を中心にかなり多く、私は人込みのなか、店を冷やかして回った。漬物、新選組グッズ、安倍晴明関連商品、お守り、キーホルダー、染めのハンカチなど。京都らしいほっこりと暖かい品々を、私は興味津々に見ていた。

 そんな私に気づいたのが、姫島屋先生だった。

 ほかの先生方が見て見ぬふりをしてくれるなか、規律厳守の姫島屋先生は私の個人行動が許せなかったのだろう。

 私は正直に話して、それから、どうか班行動をとらない自分たちを怒らないでほしいと頼んだ。

 この日まで、私は放課後よく姫島屋先生と理科室で過ごしていたし、譲歩してもらえるかもしれないと思ったのだ。

 結果として、私の頼みは、姫島屋先生の同情を買ったようだった。

 私は、姫島屋先生とふたり、土産物店が並ぶ街路を通り抜け、鴨川のほとりでゆったりと談話した。初めて、理科室以外でした談笑だった。

 僅かな時間だったけれど、あの時間が、私に「私って先生にとって特別かも」という淡い期待を抱かせたのだ。

「……京都」

「京都? 京都へ、行きたいのか」

 驚いた姫島屋先生の表情を見て、慌てて首を振った。

 暫くのあいだ、過去へ飛んでいた記憶を必死に引っ張り戻す。

「いえ、なんでもないです。先生がよかったら、ぜひ、一緒に過ごさせてくださいっ!」

 改めていうと、姫島屋先生が苦笑する。意気込みすぎたらしい。恥ずかしくなって俯くと、前髪をさらう手があった。

 目線だけをあげると、柔和に微笑む姫島屋先生が、前髪の隙間から見える。

 先生の長い指が、垂れた前髪を横へずらしてくれていた。

 ……好きだな。

 愛しい甘さに胸を満たした私は、もう一度ゴールデンウィークの予定について話をしようと、口をひらく。

「あの、それでゴールデンウィーク――」

『ぎゃああああああああ』

「っ」

 突然聞こえた絶叫に、私と姫島屋先生は、弾かれたように顔をあげる。

 甘酸っぱい、青春真っただ中のような空気は吹っ飛んだ。

 私は、鋭く辺りへ視線を巡らせる。声の出所はどこだろう。

 声は、まだ止まない。

 絶叫みたいに聞こえるが、これがミコ先生の言っていた声の正体なのか。現在進行形で、誰かが悲鳴をあげてるんじゃなくて?

 やや不安と不快を伴う絶叫は、ふいに、ぷつりと止まった。

 どれだけ見渡しても声の主らしき人物はいない。

「手分けして、見てきましょう」

「危険だ、私ひとりで行くから待っていろ」

「大丈夫です。それに、私が引き受けた仕事ですから」

 言い終えるなり、私は「こっちに行きますね」と校舎裏の右手をさした。姫島屋先生はもう何も言わず、黙って頷くと、足早に左側へ確認に行った。

 もし、誰かが実際に叫んでいたのだとしたら、急がなければならない。姫島屋先生もそれを理解しているのだ。

 私は軽く走りながら、けれども見過ごしのないように辺りへ目を凝らしながら、校舎の端を曲がる。

 人がいた。

 地面にうつぶせて、ぴくりとも動かない。

「え。……えっ!」

 薄手のシャツを着た男性で、年齢は四十代くらい。目を閉じており、眠っているようにも見えた。

 私はすぐに男の傍へしゃがみこんで、呼吸を確かめる。

 息をしていない。

 脈もみる。

 脈が――ない。

「死んでる⁉」

 咄嗟に叫んでしまって、慌てて口をおさえた。

 周りに犯人がいるかもしれない、と思っての行為だったが、事件とは限らない。持病の発作が出たなどの、なんらかの事故で倒れているかもしれないのだ。

 とにかく、救急車を。

「って、バッテリイイイイ!」

 携帯電話を開いた瞬間、残り一パーセントだったバッテリーが切れた。画面が真っ暗になる。

 もともと、私の携帯電話は電池が古くなっていて、充電の消耗が激しいのだ。

 今日は、途中で充電せずに八時まで学校にいたから、落ちるべくして落ちたと言える。言えるが、このタイミングで落ちなくても。

 私は、姫島屋先生を呼びに走った。

 姫島屋先生は、呼ぶと返事をくれたため、すぐに居場所がわかった。姫島屋先生を連れて先ほど見つけた男性遺体の場所まで戻った私は――唖然と、した。

 私が見た男性遺体は、どこにもなかった。

 場所を間違えたのかと辺りを確認するけれど、やはりここだ。校舎裏から一つ目の角を曲がったところ。しゃがんで地面を見るけれど、なんの形跡もなかった。

「なんで、嘘。だって、ここに、確かに」

 姫島屋先生を振り返る。

 姫島屋先生の目は、私がしゃがんでいる地面に向いていた。

「嘘じゃないんですっ、本当に、ここに死体があったんです」

「嘘だと言っていない。きみは、嘘をつかない」

 姫島屋先生は傍へくると、同じようにしゃがみこんで、軽く地面を手で撫でた。

「せ、せんせぇ。どうしよう、誰か死んでた。警察に連絡しないと」

「信じてくれると思うか?」

「でも、このまま見なかったふりなんて、できません」

 さっきの死体が、頭のなかにくっきりと浮かんでいた。うつ伏せで倒れていた男性。顔は右側を向いていて、年齢は四十代ほどだった。

 私は姫島屋先生と一緒に、村で唯一の交番まで行くと、先ほど見たことをすべて話した。交番勤務の巡査は、私の話を無碍にせず聞いてくれて、場所確認のために現場まで同行してくれたが、やはりそこに死体はなかった。

 姫島屋先生とふたり、帰り道を歩く。

 緩い傾斜を登り始めたころに、姫島屋先生が口をひらいた。

「いい村だな」

「……はい」

 巡査は、証拠もないため動くことは出来ないと言い切ったが、私の言葉を嘘だと決めつけてはいなかった。見間違いの線もあるかもしれないが、先生がそんなことしないでしょうと真剣に言ってくれた。

 けれど、もし本当にあれが死体で、その死体が消えたのだとしたら。

 悲鳴が聞こえたのも事実だ。

 ということは、やはりあそこで、殺人が行われたと考えるべきでは。

「心配はいらない」

 姫島屋先生は、そう言って口元をゆがめた。

「どうして言い切れるんですか」

「きみの心配しているようなことは、起きていないだろう」

 だから、どうして言い切れるのか。

 そう言い募ろうとして、堪えた。これでは、ただのヒステリックな女だ。

 ふと寂しさが胸をしめた。

 卒業後、あらゆる連絡手段をブロックされたときのことを思い出す。生徒でなくなった私は、姫島屋先生のなかから消えてしまったのだ。

「……菜緒子、くん」

 ぼそり、と小さな声が私の名前を呼ぶ。

 ゆっくりと顔をあげた私は、夜でもわかるほど、耳や頬を赤くした姫島屋先生の横顔をみた。

 名前、初めて呼んでくれた。

 生徒時代は神崎と、教師として再会してからは神崎先生と、呼ばれていたのに。

 こほん、と露骨な咳払いのあと、姫島屋先生が話を続ける。

「それで、ゴールデンウィークなんだが。改めてきくが、行きたいところはあるか?」

 私は、本当に現金だ。

 そして単純だ。

 沈んでいた気持ちが一気に浮上して、喜びと照れが一緒になって身体中を駆け巡る。叫んで走り出したいくらいの喜びを抱えたのだから、にまにま笑ってしまうのも仕方がないだろう。

 大丈夫。

 高校を卒業したときの私は子どもだった。

 今は大人で、しかも、当時失ったと思っていた大切なものが、戻ってきたのだ。

 二度と手放しはしない。

「先生と一緒にいたいです」

 えへへ、と笑いながら答える。

「せんせい、な」

 姫島屋先生が呟いた。名前を呼び返す場面だったのか、と気づいて、名前で呼ぼうと思ったけれど。

 想像以上に、恥ずかしい。

 もじもじしていると、ふっ、と笑いが降ってきた。

 姫島屋先生が、笑っている。

「では、こちらで考えておこう」

「は、はい」

 そんな話をしているうちに、あっという間に自宅へついてしまう。

 姫島屋先生は、自分の借家を通り過ぎて、私を家の前まで送ってくれるという、お姫様のような扱いをしてくれた。嬉しいような、恥ずかしいようなこそばゆい気分だ。

 その日、帰宅すると九時を過ぎていたけれど。

 私は、ふわふわとした幸せを抱えたまま、安眠をむさぼることができた。







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