結
6
時は緩慢に過ぎていき、窓から差し込む明かりが仄かに夕刻の憂いを帯びてきた。
「そう思い詰めていても仕方あるまい。珈琲を淹れて来るが、君も飲むかい?」
三嶋は「ああ、頼む」と気のない返事をした。掛川が炊事場の方へ行くと、彼はそれまで掛川が座っていた椅子に腰を下ろした。眉間を摘まんで揉むようにする。
募る苛立ち……それから、疑心があった。
長泉を殺した犯人は、本当に裾野だったのだろうか? 掛川が述べていたように、やはり裾野は疑わしかった。しかし、証拠は何ひとつないのだ。ここぞとばかりに小説の名探偵になりきっていた掛川だって……これは裾野の指摘だったが……怪しいと云えば怪しい。
それにキル子も容疑者なのだ。掛川は、キル子が長泉からアプローチを受けてまんざらでもなさ気であったと云っていたが、実は三嶋はそのことでキル子から相談を受けたことがあった。もっとも、それは男に云い寄られているのを三嶋に相談するという行為によって優越感に浸ろうとする、キル子のような女に特有の心理であったに違いないのだが……だから三嶋もその相談を本気にはせず、適当にあしらったのだが……一方で、もしもあれが本心からの悩みであったのなら、とも今になって思う。吹き矢による犯行と云っても、一階にせよ二階にせよ、あの距離を挟んで窓際に顔を出した長泉を正確に仕留めるなんて難しいんじゃないだろうか?
「~~~♪ ~~~~♪ ~~~~、~~~~♪」
廊下の方から、小さく口笛の音が聞こえた。『森のくまさん』のメロディだと分かった――あるーひ、もりのーなか、くまさーんに、であーった……。
なんて無神経な奴! 三嶋は舌打ちした。
しかし殺人犯が掛川かキル子だったところで、長泉の殺害には成功し、さらに裾野がスケープゴートとして〈死人に口なし〉の状態になったのだ。もう面倒は起こらない……下手に刺激さえしなければ、事件は終わりだ……。
そう結論したところで、カップを両手に持って掛川が戻ってきた。
「ブラックで良かったかい? それにしても、電気の有難さを痛感するね。いちいち燐寸を擦らなければいけないのだ。……味が気に入らなかったら申し訳ない」
「いいや、問題ないよ」
どうせ珈琲の味の良し悪しなんて三嶋には分からなかった。
温かいものを飲んで一息つくと、いくらか落ち着いた。そこで三嶋は、掛川が最前からニヤニヤと自分を見詰めていることに気が付いた。
「何だ」
「ふふ……ひとつ素敵な提案があってね」
その視線が、天井に向けられた。
「どうだろう、熊じゃあるまいが……私と君とで、キル子くんを食べてしまうというのは」
この上なく下種な笑み。眼鏡の奥の瞳まで、異様な光を宿している。
三嶋はそれに、まったく同じ種類の笑みを返した。
「素晴らしい提案だな」
「ほう! 良かったよ。ひょっとすると君は乗らずに、私を叱るかもしれんと思っていたのだ」
「まさか。俺の方こそ、お前がそういうことに感心があるとは意外だったよ」
「ふふふ、互いに要らない誤解があったようだね? しかしこういう場合、私達のような健全な男子であれば考えはひとつだろうに」
「ああ。それにキル子の服装、山登りだってのにタンクトップにショートパンツだなんて、馬鹿にしてるじゃないか。あれは誘ってるぜ?」
「間違いないよ、後期クイーン的問題だってそれには疑問を挟めはしまい。彼女は淫乱なのだとね」
「行くか? 時を見計らう必要もないだろう?」
「まったくだ。君とこんなに気が合うとは感激だな!」
共通の情熱に突き動かされ、二人は仲良く並んで歩き始めた。肩でも組みかねない意気投合ぶりであった。
「さっきから苛々して仕様がなかったからな、発散したいと考えてたんだ」
「素晴らしい。それに二人の男から一晩凌辱され続ければ、彼女のヒステリーも鎮まって少しはしおらしくなるだろう。ここは先輩としてひとつ、躾をしてやる良い機会だよ」
「ははははは……」
「ふふふふふ……」
二人は階段を上がり終えると、手前の扉から開けていくことにした。するとひとつ目で当たりを引いた。お誂え向きにも、キル子は寝室にこもっていたのだった。
「やぁキル子、お前も随分と気が利くじゃな――」
「キル子くん、君を治療してやる良い方法が――」
ベッドに歩み寄り、そこで二人は唐突に呆けた。高まっていた気分が、一挙に転落して打ち砕かれた。
キル子は手足を投げ出した格好で、死んでいた。
絞殺であると、一目見て分かった。首にはロープか何かで絞められた跡がくっきりと残っており、鬱血した顔は醜く変貌していた。天井へ向けられた瞳は濁り、口からは舌がだらんと垂れていた。
三嶋と掛川は、ゆっくりと、顔を見合わせた。互いに、玩具を取り上げられた子供のような情けない表情を見ることになった。
「お、落ち着こうじゃないか」
先に口を開いたのは掛川だった。
「そ、そうだな、落ち着こう……」三嶋も取り繕って応える。「俺もお前も、キル子を殺す機会はなかった……そうだな、さっき珈琲を淹れに行ったときにも、二階に行ってキル子を絞殺する時間的余裕はなかったよな……」
「もちろんさ、私は確かに淹れたての珈琲を持って戻ったのだからね……。となると、可能性はひとつしかあるまい?」
「俺達の他に、誰かいるんだな?」
「この家の住人に違いない。はじめから潜んでいたのだ!」
掛川は戸口の方へ振り返った。其処に見えない敵でもいるかのような振る舞いだった。だが三嶋も、同じくそちらを睨み据えた。
「俺達に……部外者に、敵意を持っているんだな。こんな変な場所に好んで住むような奴だ……人間嫌いで、頭がおかしいんだな!」
「長泉くんを殺害したのもそいつの仕業だろう。うむ……なにも私や裾野くんがいた部屋からだけではない、裏手に面したあの廊下……あそこの窓からだって長泉くんを狙い撃ちできたのだ。あのときの探索も完全じゃなかった。巧妙に隠れながら、長泉くんと、そしてキル子くんをも殺したのだ……キル子くんは眠っていたのだろうか? いずれにせよ、声を出せないように絞殺したのだな……」
「探し出してやろう。二対一だぜ、タネが知れれば袋の鼠だ。どうせ家からは出られない……探し出して、引っ括ってやる」
「うむ、徹底的に、だね。二人いれば、入れ違い式にこちらの目をかいくぐることもできない。二階の奥から始めて、追い詰めてやろうじゃないか」
二人は、自分達でも不思議なくらい激情に駆られていた。そして憑かれたような熱心さで、家の中を虱潰しにしていった……。
7
終点が近づくにつれ、三嶋は予感を強めていった。それは掛川とて同じだとも分かっていた。鼠一匹逃すまいとする微に入り細を穿つ捜索は、その中ほどから既に形式的なものになっていた。
果たして、最後に一階の炊事場に至り、最後の抽斗までひっくり返したところで、明らかになったのは此処に他の人間はいないという事実のみだった。
三嶋と掛川は、互いに手が届かない絶妙な距離感を保っていた。どちらからともなく、いやにわざとらしい、渇いた笑い声が洩れた。
「ふっふっふ、恐れ入ったよ。私が珈琲を淹れに行ったあの短時間で、よくも仕事を遂行できたものだ」
「はっはっは、こっちの台詞だぜ、凄まじい早業だな。器用な奴だ」
「面白い、実に面白いよ。マザーグースという道具立てこそ欠けていたが、クリスチーの『そして誰もいなくなった』のオマージュかい。あの微笑ましい終盤の一幕を自ら演じることになろうとは」
掛川は一歩、退いた。
「ああ、そこだ――そういうところだよ。俺は前々から、そうやってお前がいちいち変な気取り方をするところが鼻持ちならなかったんだ。シャーロック・ホームズをシャアロック・ホルムスと云ったり、クリスティーをクリスチーと云ったりな!」
三嶋は一歩、詰め寄った。
「何だい、その突っかかり方は! 通はクリスチーと呼ぶのだよ、君はマニアを自称するには情熱が足りないと思っていたのだ……例えばクロフツの『樽』を読まないのに『黒いトランク』について語ったりだな! そういう横着が多々あるじゃないか!」
退く掛川。
「鮎川哲也は『樽』を意識しないで『黒いトランク』を書いたんだ! あの類似は後から外野があれこれ云ったに過ぎないんだよ――ああ、鮎川と云えば、お前は『りら荘』をわざわざライラック荘なんて云っていたっけな! そんな気取り方があるか! ホルムスだのクリスチーだの、通がそんな呼び方するもんか!」
詰め寄る三嶋。
「呼ぶのだよ、ホルムスと! 昔の作家はこう読んでいたからね――古風で洒落ているじゃないか! ワトスンをワトソンなんて云ってる下品な輩には理解できまい!」
「ワトソンと呼ぶことのどこが下品なんだ! 馬鹿じゃないのか! 上っ面ばかり格好付けやがって――その姿勢が何よりミステリを侮辱している!」
「ええい!」
掛川は壁に掛かっていた包丁を手に取り、三嶋に向かって勢い良く突き出した――が、三嶋はそれを間一髪かわすと、そうしながら背中のベルトに挟んでいた鎌を取り出して素早くカバーを取り去り、眼下にあった掛川の頭部目掛けて振り下ろした。
ざくんっ――鎌は呆気なく、しかし深く掛川の脳天に突き立った。掛川は狂ったような奇声を発しながら床に倒れ伏した。全身がバタバタと痙攣し、鎌の刺さった隙間からピューピューと血が噴き出した。
「はは、はははは……」
間もなく掛川が絶命するまで、三嶋はそれをジッと見下ろしていた。
「ざまぁみやがれ……変態野郎が、殺されて当然だ……」
三嶋は死体に背を向けた。フラフラと覚束ない足取りで、リビングへと向かった。とにかく椅子に座って……残りの珈琲を飲みながら……煙草を吸おう……こういうときに吸う煙草は、きっと格別に美味いはずだ……なにせ、一仕事した後だからな…………。
「どいつもこいつも……手間取らせやがって……俺を誰だと思ってやがる……まったく、腹立たしい連中だったぜ……」
廊下を曲がった。正面には玄関扉が見えていた。その錠が、カチリ……と控えめな音を立てて、開いた。
「…………ああ?」
続いて扉が、開いた。
「……………………」
其処には、あの熊が立っていた。全身、返り血で赤黒く染まった熊が、人間のように二本足で立っていた。おまけに、猟銃を構えていた。
硬直してしまった三嶋の方へと、熊はのそりのそりと、歩いてくる。銃口がこちらに向いて、構えられる。
三嶋は熊の二つの目を見ていた。その目の奥に、それぞれ、もうひとつの目があることが分かった。三嶋はその意味を理解した。この家の住人であれば鍵を持っているのは当然だし、自由に出入りできたのだ。長泉を殺した吹き矢だって、すぐ目の前から吹いたのだ。まずは外から、中にいる人間を殺して、仲間割れを起こさせて、そうして…………。
銃声が響くと同時に、三嶋の顔面はグチャグチャに破裂した。すべては無に閉ざされた。
※
山には夜が訪れていた。満天の星空に覆われ、清浄な空気に満ち、静寂に沈んだ夜が。
熊の着ぐるみを脱いだ男は、計六名の男女の死体を離れにある倉庫へと集め終えた。
これだけあれば、またしばらく食うものには困らないだろう。
男は上機嫌で口笛を吹きながら、月明かりの下で解体を始めた。メロディは『森のくまさん』。彼らしい選曲であった。
『そして誰もいなクマった』終。
21歳の冬に書いた小説でした。