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 リビングには異様な空気が漂っていた。

 先ほどの探索で、現在この家の住人が留守であるのは確かめられたし、固定電話もなく、他に目ぼしい発見もなかった。そのうえで、殺人事件が起きたのだ。吹き矢が用意されていたということは、無事に廃村に到着していたとしても其処で同様の事件が起きたはずで、それが熊との遭遇によってさらにややこしい事態になってしまったということ……まるで悪い冗談だ。何も知らずに山を登っていた数時間前が、現在とは断絶した遠い記憶に感じられる。

 四人は疑心暗鬼に陥っていた。長泉を殺したのは掛川か、裾野か、キル子か……。容疑者が二人であったなら、少なくともその二人には互いに真相を了解し得るが、そうでないがゆえの、この膠着状態である。決定的なことがないという、生殺しの状態。これは幸いなのかどうか……三嶋は肉体的疲労も相まって思考がまとまらず、立て続けに煙草を吸った。

 最も余裕そうな――ポーズを取っているだけかも知れないが――掛川は、持参していたサンドウィッチを食し、この家にあった珈琲を勝手に淹れて飲んでいる。キル子は隅の方で膝を抱えて座っており、険しい顔つきで床を見詰めている。裾野は落ち着きなく歩き回っては窓際に戻るというのを繰り返している。久しく会話はなかった。

「熊は……いなくなったんでしょうか」

 やがて耐え切れなくなったのか、裾野が誰にともなく云った。

 長泉が殺されてから、熊の姿は見えなくなっていた。リビングの窓からも、浴場と炊事場を結ぶ廊下の窓からも。とは云っても死角は多いし、まだ森に這入ってすぐのところにいる可能性もある。

「熊がいないなら、僕はもう帰りますよ」

 大胆な発言だった。掛川が「おや」とわざとらしく眼鏡のふちを持ち上げた。

こらしょうがないのだね。清水くんの死の叫びは、未だその耳に鮮明に残っているだろうに」

「それよりも此処にいる方が我慢ならないんですよ……」

 裾野はジロリと横目で掛川を見た。爪先で床をコツコツ鳴らしながら、

「みんな、僕が長泉を殺したと思ってるんでしょう? こんなに不愉快な空間がありますか?」

「そうだねぇ、私は自分が犯人でないことを知っているから君かキル子くんかに絞っているが、そうでなくとも君が最も疑わしいとは共通の見解だろう」

「ど、どうして!」

「君はコンプレックスの塊だからさ。長泉くんのような明朗で容姿も良い人物は、それだけで憎悪の対象だったんじゃないかい? それに君は以前から、キル子くんをポーッと眺めていることが多かったと記憶しているよ。その点でも、長泉くんはキル子くんにアプローチを掛けていたし、君の苛立ちを倍加させただろう。また、長泉くんは君を軽蔑しているようでもあった。君のそういう、落ち着きがなく、陰険なところをね」

 掛川には珍しくもなかったが、それでも露骨が過ぎる物云いだった。裾野は目を見開き、もはや途方に暮れたかの如く立ち尽くした。

「ふふ、図星だろう? うむ、殺人の手口も場当たり的で落ち着きのなさが窺えるものだったし、遠隔から狙い撃つというやり方は卑怯で陰険そのものだ。少なくとも、私が犯人ならもっと狡猾に、また折角の機会でもあるのだからミステリ読みとして気の利いたトリックのひとつでも考案するだろうな、それこそ『本陣殺人事件』のように。こういった動機の面、あるいは人物像を推察すれば、誰しも君を疑うさ。キル子くんなら、彼女は長泉くんからたびたびアプローチされているのがまんざらでもなさそうであったし、女性蔑視とは取らないで欲しいのだが……殺す動機が芽生えたとしても、女性というのは衝動的な犯行に及びこそすれ、吹き矢を用意しておいて山奥で殺害するなんて計画は立てないものだよ」

「ちょっと! そんな云い方――」

 自らも言及を受けて、キル子はまた何かしら叫ぼうとしたが、掛川は掌をそちらに向けて制した。

「まぁまぁキル子くん、君が疑わしいと云っているのではないのだからゆるしてくれたまえ。さて、お分かりいただけたかな、裾野くん。ああ、それから君は、高校時代は弓道部に所属していたと話していたね? 矢には馴染み深いというわけだ」

「か……関係ない……関係あるわけが、ないじゃないか……」

 裾野は全身を小刻みに震わせていた。なおも落ち着き払って珈琲をすする掛川を、充血した双眸そうぼうで食い入るように見詰め、両の拳を血管が浮き出るほど強く握り締めていた。

「弓道と吹き矢じゃ全然違う……よくも、そんな馬鹿げた話が思い付けるもんだ……」

「嬉しいね。私の敬愛する名探偵たちは往々にして馬鹿馬鹿しいくらい突飛な思い付きから、事件の全貌を明らかにするものさ。シャアロック・ホルムスのような手堅い推理法も味わい深いが、ハッタリもまたミステリの浪漫ろまんなのだよ。君も心得ているだろう?」

「話にならない! 貴方とは話になりませんよ!」

 裾野は女みたいに裏返った声で叫ぶと、窓に顔を押し付けた。どうやら外の様子を確かめているらしい。掛川は鼻を鳴らし、テーブルに片手をついて静観していた三嶋に目を向けた。三嶋は「ちょっと云い過ぎだぞ」とたしなめたが、掛川に反省の色は見られなかった。

「やっぱり僕は出て行きますよ! 出て行きますとも!」

 高らかに宣言し、裾野は大股歩きで玄関の方に向かって行った。

「おい、そう感情的になるな。まだ危険だ」

 三嶋が注意しても、裾野は完全に頭に血が上ってしまっていた。リビングを出たところで振り返ると、荒い鼻息をあげながらみなを順々に睨んでいった。

「じゃあ、いつになったら危険でなくなると云うんです? この家の人だって本当に帰って来るのか怪しいもんだ! 最近までは此処にいたんだとしても、別荘なら、もう来年まで戻らないかも知れませんからね! 僕達には連絡手段もないっ、僕は熊から逃げるときに鞄を捨てました――食糧だってないんだ! これ以上、こんなところで侮辱を受け続けるなんて御免ですよ! 侮辱だ、貴方達は僕をストレスのけ口にしているんだ!」

「おお、見事な演説だな!」掛川がさらに逆撫でする言葉を発した。

 三嶋は裾野を追った。彼は玄関扉の錠を開けたところで、後ろまで三嶋がやって来るとキッと振り向いた。拳を振りかざし、殴りかかる一歩手前であった。それで怯む三嶋でもなかったが、どんな説得も無駄――何を云っても火に油を注ぐだけだと直感した。

「犯人はあの人ですよ、あの名探偵気取りのナルシストだ!」

 裾野はドアノブに手を掛け、憎悪のこもった口調で述べ立てた。

「おかしいでしょう? 長泉くんの死体が見つかって、あの人はすぐにトンチキ推理を喋り始めたんです。それこそ用意していたように、まだ誰も状況を上手く把握できていないうちからね! キル子さんをやらしい目で見ていたのもあいつですよ、あの気障きざ男! さっきの長広舌は自分のことを喋ってたんだ、それを僕に押し付けてね! 熊よりもあの殺人者の方がよっぽど恐ろしいや!」

 そして彼は扉を開けると、まず顔だけを外に出して神経質そうに左右を確認した後、飛び出して行った。果たして無事に逃げおおせるのか否か……三嶋は小走りでリビングに戻った。掛川は既に窓辺に立っていた。

「おや、転んだぞ」

 まるで画面越しのスポーツ観戦でもしている調子だ。三嶋も彼に並び、立ち上がって森の中へと駆けて行く裾野の後ろ姿を見守った。自然、鼓動が早まった。

 窓枠に四角く切り取られ、それはたしかにひとつの画面であった。左から突如として四本足で駆ける熊の影が現れた。裾野は振り返った。どんなに出来の良い映画でも拝めない、本物の恐怖に歪んだ人間の表情。彼はまた転んだ。両手をブンブン振り回しながら起き上がって、森に数歩這入ったばかりのところで、アウト――追い付かれた。

 茂みに隠されて見えないものの、その絶叫は長く長く、生々しく響き渡った。


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「なんて嘆かわしい……しかし殺人犯の最期に相応ふさわしい因果応報だね」

 掛川は感慨深げに独り言ちて、窓際からもとの椅子へ戻って行った。

「それにしても執念深い熊だ。もう立ち去ったんじゃあるいまいかとは、私も考えているところだったのだが」

「まさか、」裾野の悲鳴が聞こえている間ずっと両耳を塞いでうずくまっていたキル子が、何か思い付きに撃たれたらしく掛川を見た。「それを確かめるために、わざと裾野くんを挑発したんですか?」

 三嶋もこれには驚いて、掛川に視線を向けた。しかし彼は苦笑し、かぶりを振った。

「誤解しないでもらいたいな。私にそんな意図はなかったよ。裾野くんにあんな勇気があったとは思いもしなかったしね――もっとも、勇気と云うよりは自尊心を傷つけられムキになっていたに過ぎないか」

 キル子は疑り深そうな目つきでしばらく掛川を見据えていたが、

「もう嫌!」

 甲高い声で叫び、立ち上がった。大きな瞳から零れた涙をゴシゴシと拭った。

「この家を見つけたときは助かったって思ったのに、こんな……最悪よ! ひとりにしてください! 此処は煙草臭いし、気が滅入って仕方ないわ!」

 彼女はリビングから出てバタンッ!と乱暴に扉を閉め、続いて階段を上がって行く音がした。煙草のことを云われたせいもあって、三嶋はそれを制止できなかった。

「どうも我らがミステリ研究会はヒステリー患者が多いね。ドストエフスキーじゃあるまいし、歓迎できんことだよ」

 やれやれとばかりにオーバーリアクションする掛川。三嶋もまた、この家に来てから何度目になるか分からない溜息を吐いた。

「この状況のせいだろう。お前だって表れ方が違うだけで、気が立っているように見えるぞ」

「おや、自分じゃあ分からないものだな、気を付けよう。……しかし良かったじゃないか。長泉くんを殺した裾野くんが自滅してくれて、余計な混乱は終息してくれただろう」

「そうだな……」

 だが三嶋が気にしているのは、少し別の事柄だった。リーダーである彼は、六人中三人までもが死んでしまったという事実に人一倍の憂鬱を抱かされるのだった。自分の生還については心配していないが、これは後に責任問題となる。それに熊の件だけならまだしも、一風変わった殺人事件まで重なって、一体どう説明したらよいのか……。

 前髪を掻き上げ、三嶋は煙草に火を点けた。彼の気苦労に配慮することなく、掛川は飄々として喋り続けた。

「私が思うに、あの熊は子供を殺されでもしたんじゃないかな――この家の住人に狩られたのだよ。それで人間に対して敵愾心てきがいしんを持っているのだ。よほど空腹であるとも考えられるが、本来、熊は人間を獲物とはしないものさ。縄張りを荒らされたという意識でも、ここまで固執はされまい。だから復讐という線は大いにあり得るだろう。どうだい?」

「ああ、大した探偵ぶりだよ。熊の心理にも精通しているとはな」

「お褒めに預かり光栄の至りだ。ふむ……そうなると、私達は此処に逃げ込んでしまったがために、完全に子の仇の仲間であると見なされたかもしれん。実に厄介だよ」

「子を殺された親の恨みは凄まじいからな。長期戦か……」

 どうしても沈みがちになる三嶋だった。普段は自信に溢れているというのに。過去も、現在も、そして未来も、輝かしいものであったのに。

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