玲の本気
「はぁ、はぁ……」
頭がぼんやりする。
意識がはっきりとせず、何だか思考に靄がかかったような不思議な感覚。起きているのに、起きていないような、これが夢現というのだろうか。必死に思考を回転させようとしても、その意思が脳に伝わるまでにうやむやになってしまう。
にもかかわらず、体は自然と動いていた。唯一、頭の中に浮かぶ言葉。それは、逃げるということだけだった。訳も分からないまま、その唯一の言葉を実行しようと体が動く。
先程まではガタガタで動かなかった脚も、今ではしっかりと地面を踏みしめ、力いっぱい蹴っている。とても、今の今まで満身創痍だったとは思えない状態。微かな息切れ程度しか異常がないエルは、むしろ通常時よりも速く走ってすらいる。
「な……にが」
そんな体の状態に、自分のものにもかかわらず、エルは疑問を抱く。
何とか思い出せるのは、自分がセピアにやられたということだけ。何故、どのようにやられ、そして今
自分は如何にしてここにいるのか。思考のみならず、記憶にまで靄がかかっているようで、上手く記憶をさかのぼることができない。
逃げろ?
頭の中を響くその言葉の意味すらも、上手く理解することができない。
そもそも何から逃げ、なぜ逃げなくてはならないのか。
エルは、何もわからないまま走り続ける。
脚を止めようとしても、ピクリとも反応してくれない。今の自分にできることは、ただただ遠くに走り逃げることだけ。
エルは無駄に思考を巡らせながら、走り続けた。
******
「――っ!?」
一瞬。
自身の腹部にめり込む拳を見て、セピアは目を見開いた。が、その顔は瞬時に苦痛に彩られ、反射的に手は自身の腹部へと動く。
「ぐ、ぅ……ぁ……」
声にならない痛み、というやつだろうか。セピアは腹部に手を当てながら、かすれた声で嗚咽をもらしている。一歩、また一歩。セピアはじりじりと後退していくが、不意に力が抜けたように、ガクリと膝から崩れていく。元から猫背気味だった背が更に真ん丸くまるまり、地面にうずくまる様はまさしく猫の様だ。
そんな、いささかオーバーリアクションにもとれるセピアの様子を見ながら、玲は自身の拳を強く握り、ゆっくりと顔の前まで持ってくる。
玲は、その細い拳を開いては閉じて、開いては閉じてを繰り返す。まるで、その力を再確認するかのように。
「…………」
驚愕。
玲が抱いた感想は、まさにそれだった。攻撃を出した自分自身ですら信じられないような力。
玲には分かる。今のセピアは、とてもオーバーリアクションなどではない。事実ああなってもおかしくはない、いや、今のセピアのように意識を保っていられるのすらもおかしく思える程の、超高威力の攻撃。あまりの力に玲はゴクリと生唾を飲み込む。
――と。
「ぐっ……がぁ……!」
全身を、稲妻のような衝撃と痛みが襲う。まるで、筋肉がバチンと破裂するような感覚。
あまりの痛みに、セピアのように嗚咽を漏らす玲。両腕、両脚、腹筋、腰、人間を構成するすべての筋肉が、内側から膨張し破裂していく。痛い、なんてものではない。先程味わった以上の痛み、地獄の苦しみ。それが、一度で終わることなく何度も何度も栗化され続けるのだ。
それでも、玲はなんとか踏ん張る。破裂を抑え込むかのように、そして痛みを紛らわすかのように全身に力を入れる。本当はセピアのように、今にでも倒れ込みたい。全身を支える二本の脚は、あまりの痛みにガタガタと震え、限界を必死に訴えてきている。それでも、玲は決して倒れたりしないよう力強く地面を踏みしめる。一度地面に伏せようものなら、もう二度と立ち上がれないような気がしたのだ。それに……。
「分かってた、ことだ……」
玲は力一杯歯を食いしばりながら、何とか声を絞り出す。
そう、分かっていたことなのだ。
「ぐっ……何を、した」
すると、ようやく立ち上がれるまでに痛みが落ち着いたのか、セピアはふらつきながらも、どうにかその場に立つ。その表情には未だ苦痛の色が見えるが、今はそれ以上にこの状況への疑問と驚愕の色が濃い。
玲はセピアの問いには答えず、自身を襲う痛みをできる限り表に出さないよう努める。正直顔にも出さないというのは難しいのだが、それでも、できるだけセピアには悟られたくない。玲が今すべきことは時間稼ぎ。そのためには、セピアをできるだけ長くこの場に留まらせておかなくてはならないのだ。玲が弱点を見せれば、セピアはここぞとばかりに狙ってくるだろう。今は、セピアができるだけ玲に警戒している状況、まさに、現状を維持したいのだ。
「そうかい、やっぱり答える気はないか。いいよ。何をしたかは知らないけど、所詮はこの世界の人間。対した力でもないだろうさ」
「…………」
「……ちっ、じゃあとっととそこをどいてもらおうかなっ!」
セピアの挑発に対して、終始無言の玲。セピアはそれが癇に障ったのか、小さく舌打ちをしながら地面を蹴り向かってくる。まぁできるだけ話したくないのは確かだが、時間稼ぎが目的のこの状況では、話せるなら話していた方がいいだろう。玲がセピアの言葉に答えないのは、単に痛みに我慢するのが精一杯で、口を開く力も残っていないからだ。
その身軽な体躯を利用し、一気に玲との距離を縮めるセピア。
玲は意識を研ぎ澄まし、痛みにぼやける視界の中、必死にセピアの動きを見極める。そして――。
「何っ!?」
一瞬前まで玲がいた場所で、セピアの蹴りが空を割く。
避けられた。そう認識したセピアは、驚愕の声を上げる。するとその瞬間、セピアの腹部に再び衝撃が襲う。
「ぐぁ……!?」
「ちっ……」
先程動揺深くめり込む拳。いつの間に移動したのか、セピアの懐から出てくる玲はそのまま殴打と蹴りを一撃ずつ入れる。当然、尋常ではない痛みにセピアは苦名を漏らす。が、今度は倒れるようなことはなく、よそよそと数歩後退しただけにとどまった。
「くそ……らぁ!」
「くっ! はぁ!」
「なっ!? じゃあこれなら……って、ぐっぁ……!」
痛みに逆らい、何度も何度も攻撃を仕掛けてくるセピア。しかし、そんなセピアの攻撃を一瞬で回避し、玲は確実にカウンターを入れていく。明らかな玲の優勢。もう何度目かも分からないセピアの攻撃を腕で抑え、玲はみぞおちに一撃を入れる。しかし……。
「…………」
先程に比べて随分とパワーダウンした攻撃。玲は限界をこれでもかという程痛みで訴える手を見て、軽く目を細めた。
やはり、無茶に無茶を重ねたような今の状況では、そう長くは続かない。現に、筋肉が再生しきらず思ったように力を入れることができない。今も徐々にパワーダウンしてるであろうこの体では、セピアを押さえるだけの攻撃を与えることができなくなるだろう。それまでにエルが準備を終えてくれればいいが……。
今の玲。これは、言うまでもなく異能を使った状態だ。とはいえ、いつものように『身体能力向上』だけではない。今回は、それと同時に『不死身』の異能も使っているのだ。
『身体能力向上』の異能。これは自身の能力を向上させることができるが、如何せん貧弱な玲では力を向上させすぎると筋肉が耐え切れず自身の身を滅ぼしてしまう。これが、『身体能力向上』の弱点だ。しかし、逆を言えば、筋肉が破壊するのを気にしなければ上限なく身体能力を上げることができるのだ。とはいえ、筋肉が破壊してしまえば動かすことすらできず、戦闘にならないことは言うまでもない。
しかし、玲のもう一つの異能を使えばその弱点を補うことができるのだ。
『不死身』の異能。これについては、玲もまだ詳しいことはあまり分かっていないが、この異能、名こそ不死身と言ってはいるがどうやら一度死んでいるらしいのだ。玲も少し前に気づいたのだが、この異能の力は不死の体になることではなく、死ぬと自動的に異能が発動し、生き返るというものだ。たとえ首が飛ぼうが、心臓が潰されようが、異能により一瞬で治癒される。言い換えれば、超強力な治癒能力と言ってもいいかもしれない。
そして、『不死身』の異能は死、あるいは死に直結するような傷を負った場合のみ発動する。玲は正に、この点を利用したのだ。
『身体能力向上』の異能により、自身の筋肉の限界を大幅に超えるまで筋力を上昇させる。そして、耐え切れなくなり破壊された筋肉を、壊れるそばから『不死身』の異能で治癒していく。全身の筋肉が破裂すれば、それは確実に死に至る。故に、『不死身』の異能は発動するだろう。『不死身』の異能は『身体能力向上』の異能で治癒力を上げる時よりも、治癒力が強く、早く回復するのだ。
つまり、玲が今行っているのは筋力を上昇させて筋肉を破壊し、すぐに直す。このループだ。当然、幾度となく壊れる筋肉の痛みは尋常ではない。ある意味、拷問に近いかもしれない。そんな痛み、そうそう自分から飛び込めるものではないだろう。だが、玲はこの痛みを覚悟したうえで、実践に移したのだ。その結果、玲自身信じられない程恐ろしい身体能力を得た。
これが、今の玲の本気だ。
「はぁ、はぁ……」
しかし、言ってしまえば本来の無茶に重ねて無茶をし、無茶をできるようにしているようなもの。筋肉の破壊に治癒が付いていけなくなっていき、また、玲自身の体力も着実に削れていく。まさに満身創痍。
だが、何も満身創痍なのは玲だけではない。先程から何度も玲の攻撃を喰らったセピアは、肩を大きく上下させながらもゆっくりと玲に近寄ってくる。その動作はとても危なっかしく、今にでも力尽きてしまいそうだ。
「くっ……この僕が手も足も出ないかぁ。正直肉弾戦では惨敗だなぁ」
「…………」
「ならなんでそんなに余裕そうなんだ? って言いたそうな顔をしてるね。いいよ、終えてあげる」
セピア自身が言うように、セピアはそのボロボロの体と状況に反して随分と余裕そうな笑みを浮かべている。誰がどう考えてもセピアの劣勢は明らか。ここで笑うなど、到底理解できないだろう……普通ならば。
しかし、玲はセピアの異能について知っている。憶測ではあるが、恐らく間違ってはいないだろう。あれほどまでに強力な力を持っているのだとすれば、確かに余裕でいられるのも納得できてしまう。何せ、状況の優劣など関係ない。一瞬にしてどうにでもなってしまう力なのだから。
恐らく異能を使う気なのだろう。一歩一歩使づいてくるセピアに、玲は無意識のうちに後ずさる。やはり、だ。
セピアの異能を知っている玲は、どうにか嫌な想像をしないようにと意思に訴える。しかし、それが逆効果となり、まだセピアは何も言っていないにもかかわらずあの不気味な笑みだけで最悪の想像が容易にできてしまう。人間の心理に訴えてくる異能。セピアの異能を自力で攻略するのは、やはりほぼほぼ無理だ。だが……。
「はは、残念だなぁ。君はこの後、あっけなく死んでしまうのさ。そうだねぇ……この、僕の何のことない左手に刺されてね」
「…………」
そう言い、左腕をぷらぷらさせるセピアはついに玲の二メートルほど前までやってくる。今の玲ならば、この二メートルという距離だけで、セピアの動きを読みとり回避することは容易だ。だが、セピアの異能がそうさせてくれない。恐らく、今玲の想像するように回避が間に合わず刺されることだろう。あり得ないと分かっていながらも、思考は勝手に回転してしまう。
ぴったり二メートル先でピタリと止まったセピア。セピアは、その童顔をぐしゃりと歪めながら、ゆっくりと言い放った。
「じゃ、終わらせよっか」
ゾクリ。瞬間玲の全身に怖気が走る。
確実に殺せると思っているのだろう。セピアは馬鹿にしているのかという程ゆっくりな速度で、玲との距離を詰める。しかし、セピアのその考えは当たっている。玲の頭から、セピアの左腕が玲を貫く光景が離れてくれないのだ。この天までは確実に殺される。
玲は反射的に、セピアの異能に対抗できる唯一の手段であろう、赤塚に語り掛ける。無論、心の中で。
――赤塚っ、セピアが異能を使う! 何か思念を送って俺の意識を逸らしてくれ。
――えぇ!? 何かって……そういえば何を送ればいいの!?
――いいから早く! なんでもいい。とりあえず赤塚が想像しやすいもので、俺の意識がセピアから離れるような――。
と、赤塚の狼狽するような声をよそにセピアはすぐそこまで迫りくる。全身で感じる死という予感。『不死身』で生き返ると分かっていても、それでも容易には迎え入れることのできない現実。
セピアは玲の黒い瞳を見て、ニヤリと笑う。そして、その細い右腕を、ゆっくりと掲げて……。
――ダメか!?
そんな考えが玲の頭をよぎった途端、不安も、恐怖も、不気味さも、それらすべてを吹き飛ばすような思念が、玲の頭の中で広がった。
『――――――――』
「っ――!」
「なっ……!?」
すると、玲は半ば無意識のうちにセピアの左腕をするりと躱す。その、セピアからしたら信じられないような光景に、セピアは今までにない驚愕の表情を見せる。しかし、玲はといえばそんなセピアを一瞥もすることなく、ただただ目を見開いたまま硬直している。
何を……。
玲は、今しがた玲の脳内に響いた思念に、ただ唖然とすることしかできない。信じられない。そんな考えが浮かぶも、今脳内で聞いたばかりの赤塚の思念は本物だ。第一、それは赤塚本人の口から告げられていて知っていたではないか。玲は冷静に、落ち着こうとするも意思でどうなる話ではない。頭では理解していても、感情が動揺を隠せないのだ。
全身を襲う痛みすらも一瞬忘れて、玲はそのいつの間にか赤くなっていた顔を押さえる。
と、そんな玲の態度にいい加減我慢が限界を迎えたか、セピアは大きく口を開いた。
「何をしたんだ!? 僕の異能がきかなかった……!? そんな馬鹿なことあり得るわけないだろ!?」
そうまくしたてるセピアは、先程までの余裕はどこへやら、酷く焦っていた。まぁ、それも仕方がないことだろう。何せ、セピアという人物は自身の異能を絶対の力としていたのだ。過信し、依存していた。それは、セピアの異能程強力な力を持てば自らの力に全幅の信頼を置きたくもなるだろう。もはや、セピアの異能はセピア自身の一部とすらなっていたに違いない。そんな、絶対唯一の力が効かない、なんてことになってしまえば、信じたくないと思うのも仕方がない。
玲は未だ脳内に残る赤塚の思念をいったん頭の隅に追いやり、セピアにまっすぐ向かった。
思えば、本当に余裕のないセピアを見るのは初めてのことだ。その、向き合いたくない現実から顔を背けるようなセピアは、ある意味いつものセピアよりも子供っぽいと言える。
玲は、そんなセピアに意趣返しの意味も込めて、ニヤリと笑って言い放った。
「言ったろ? 本気で止めるって。お前を行かせはしない」




