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第12話 桜色の匂い、再び

 窓際のカーテンが揺れた。

 宙に浮かぶ桃色の花びら。


 それは、コーヒーカップを握る手の、小指の爪先にふわりと触れた。

 浩輔はその桜色を、目を細めて見つめた。ずいぶんと懐かしくて、小さい頃の宝物だった欠片を。指で弄んでいると、開け放たれた窓から、さらに濃い匂いが吹き込んでくる。

 病院の一室。スツールに腰を掛けながら、白いサイドボードに肘を突いて、コーヒーカップを傾ける。レースのカーテンがはためいて、頬を柔らかく撫でた。


 あのときから、ずいぶんと時間が流れたと思う。今年でもう、三八歳になるのだから。


 浩輔は、病院の医療用ベッドに体を向けた。胸まで毛布をかけて、マットに横たわっている女性。薄く瞼を開いたまま、呼吸に合わせて胸を上下させている。後ろでまとめた長い髪はすっかりと白くなり、口元にはチューブの付いた透明なマスクを装着している。傍らには、等間隔で機械音を発している、心電図モニターが置かれていた。

 母はもうしばらく、この状態だった。会話もできない、食事もできない、なにを考えているのかもわからない。わずかに視認できる瞳だけは健在だが、そこに意識は感じられなかった。見えないなにかを眺めているようで、もしかするとそれは、空中に漂う黒い染みのようなものかもしれない。かつての自分自身を彷彿とさせるような、生気を失った容態を目にしていた。

 昨日の仕事終わりに、病院から母の危篤の連絡を受けた浩輔は、スーツ姿のまま駆けつけていた。母は今年になってから病院を移って、自宅からは数時間もかかる距離のため、以前よりも見舞いには来られなくなっていた。そして付き添ったまま一晩が経ち、今日の昼にやっと、回復の兆しが見え始めていた。午後にもなると、かなり安定したようだった。

 浩輔は、スツールに座ったまま身を乗り出すと、母の眼前に花びらを差し出した。見えているかは、わからない。でもせめて、季節の移り変わりぐらいは、教えてあげたかった。


「外では桜が咲いているよ。もう、春なんだね」


 そっと、耳打ちする。母に聞こえているかは、判別できなかった。だが心なしか、目の焦点が合ったような気がする。浩輔は、まさかと思った。

 母の乾いた唇が、もごもごと蠢く。呼吸器を付けているから、喋れないのだろう。浩輔は逡巡したが、手を伸ばして取り外した。母は、上体を辛うじて起こすと、口をぱくぱくと動かした。


「ああ、ああ、ああ」


 喉が渇ききっているのだろうか。言葉にならない息が漏れている。

 浩輔は、透明な吸い飲みに入っている水を、紙コップに注いだ。袋から取り出した脱脂綿を、その中に少し浸してから、母の口に沿って押し当てる。母は舌を伸ばして、付着した水分を舐めた。それを何度か繰り返すと、やっと落ち着いたようだった。母は、ピンク色の花弁をもう一度凝視して、言った。


「ああ、懐かしいねえ。この花びら、浩輔が持っていたものなのよ」


 比較的体調のいい日に、母は今のように語り出すことがあった。その内容は、大半が要領の得ない譫言や、わずかに覚えている昔話だった。それを周囲の人間を認識しないで、病室の隅に向かって独り言のように呟き続ける。

 それはアルツハイマーの症状では、よく確認されている言動だった。普通の人間には見えないなにかが、患者自身には認識できていて、その虚像に対して話しかけているんだと、以前に祐子が教えてくれた。患者に言わせると、それは黒い影や染みのようでいて、小さな子供のような姿ででもあり――もしかすると、イマジナリーフレンドのような存在かもしれなかった。


「小学生の浩輔は、病気で家から出られないはずなのに、どうしてか学習机の上に、桜の花を置いていてねえ。不思議に思って、家の中を調べたら、下駄箱のサンダルの位置も、いつもとは違っていたのよ」


 浩輔は無心のまま、軽く頷いていた。この状態の母に、こちらから声を掛けると、途端に口を閉ざしてしまうことは、すでに経験していた。だから今回も、あまり反応はしないで聞き流すことにする。

 どうやら母は快調の様子で、昔語りはしばらく終わりそうになかった。やがて舞台は、小学校四年生の冬。二回目の引っ越しの直前に差し掛かった。


「あの時は、ずいぶんと浩輔には、ひどいことをしたわ。大切な友達と、離ればなれになってしまった上に、突然の事故で、大怪我を負ってしまったのだから。私がもっと、浩輔のことを注意していれば、よかったのに。あの子は私のことを、怨んでいることでしょうね」


 そんなことはなかった。当時を振り返ってみれば、そこまで大きな出来事のようには思っていなかった。気にしないで欲しいと伝えたかったが、そうすると母は話をやめてしまうだろう。だから今回はただ、首を振って否定を示すことにした。


「そう、そういえばあの時に、浩輔が大怪我をして入院したのも、ここの病院だったわね。家から一番近い、総合病院。お医者様が優秀で、よかったわ」


 浩輔は、思わずコーヒーカップを落としそうになった。

 自分が小学校四年生の時に、この病院に入院していた。もしそれが本当だとしたら、当時のカルテがあるはず。事故現場が判明すれば、あの一軒家の住所も、空き地の場所も、すぐにわかるはずだった。それは十四年前に、自分探しをしていた時期に切望していた答えだった。

 だが不思議と、心は波一つもなく、落ち着いていた。なんだか今さらだな、と感じていた。あの時に必死になって調べていたのは、一過性の熱のようなものだった。あれから時間が経ちすぎたし、もうあの子もいるはずがない。頭の中では、完全に整理がついて、すでに終わった出来事になっていた。

 浩輔は、冷めてしまったコーヒーを、少し口に含んだ。この昔話は、いつまで続くのだろう。そう考えていると、訥々と喋っていた母が、急に手を叩いた。


「そう、そうだったわ。たまたま通りかかった人が、すぐに救急車を呼んでくれて、浩輔は助かったのよ。遅かったら出血多量で、危なかったんだって。それでね、ここからが不思議なのだけれど」


 母がそっと、声をひそめる。


「あの通りは暗いから、誰かが倒れていても、普通は気が付かないの。でもその人の話だとね、細長い布がはためいていたらしいのよ。しかもそれは、浩輔のマフラーだったみたいでね」

「え?」


 瞬間、目の前が真っ暗になった。からからと、映写機が回るような音がして、そこにフィルムが映し出される。母の昔話をきっかけに、十四年振りの追憶が始まったようだった。

 道路には小さな男の子が、体をくの字にして倒れ込んでいる。そのすぐ傍では、細長くて青いなにかが、まるで誰かが振り回しているように、激しく揺れていた。視界がさらに、カメラのレンズのように絞り込まれていく。毛糸のマフラーの根本、その部分を握っていたのは、×××だった。空き地の中から出られない彼女が、懸命に振りかざしてくれていた。姿も声も、大人にはわからないから、拾ったマフラーを使って。彼女は本当の意味で、命の恩人だったんだ。


 はっと、意識を取り戻した。

 浩輔は、身を乗り出した。みるみるうちに硬くなっていく母の表情に焦って、つい訊いてしまう。


「母さん! その人が見たっていう、ぼくのマフラーは、どんな状況だったの? 誰かが振っていたようだったのか、それとも……いや違う、違うんだ」


 片手で押さえながら、頭を振る。母に聞きたいことは合っていたけれど、本当に伝えたかったことは。


「母さん、ぼくは少しも、母さんのことを怨んでなんていないんだ。むしろ、ぼくのわがままを聞いてくれて、本当に感謝しているんだ。だから、だからもう一度だけ呼んで欲しい。ぼくのことを見て、浩輔って呼んでくれよ……」


 浩輔は、縋るように母の胸もとに頭を寄せた。母はただ、桜の花びらが舞う窓辺の景色を、いつまでも眺めているだけだった。





 第13話 雪解け水 へ続く...

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