第1話 桜色の匂い
窓際のカーテンが揺れた。
宙に浮かぶ桃色の花びら。
それは、カタカタとキーボードを打ち込む手の、小指の爪先にふわりと触れた。
同時に、全身が感電するかのように。
もしくは、日溜まりの猫がまどろみから目覚めるように。
奥底からゆっくりと、徐々に、気泡と共に浮き上がってくる感情があった。
高井戸浩輔はその桜色を、目を細めて見つめた。ずいぶんと懐かしくて、小さい頃の宝物だった欠片を。指で弄んでいると、誰かに見られているような気がして、そっと周囲を見回した。
低いパテーションで区切られた事務机。その向こうには自分と同じように、スーツを着てパソコンの液晶画面に集中している会社員が数人並んでいた。どうやら全員、自分の作業で脇目を振る時間がないようだ。
空いている手でネクタイを緩めると、事務椅子の背もたれに体を預けた。升目状の天井を見上げる。それから、顔を正面に戻して瞼を軽く瞑り、自分の臓腑に高揚感が落ち着いていくのを、じっくりと味わった。
胸の中に満ちていく、鮮やかな桜色と、春の匂い。
溢れ出る過去の奔流に身を委ねるように肩から、ふっと力を抜いた。
そして思い出す。
幼かった時の自分自身と。
かけがえのない、旧友との想い出を。
第2話 春の来訪者 へ続く...