6.いま何年? 何年何月何曜日? ついでに何日?
例えるならば、泥の中に沈んでいく感じ。なんだか、生ぬるい。38度の風呂って感じ。
これが漫画なら、絶対、『ズブズブズブ』という効果音が書いてあったはずだ。
――なぁんて、悠長なことを考えられるあたり、俺はまだ死んでいないらしい。
だけど、いったい、どうなっちゃったんだ? 確か、霊が俺の体の中に入ってきて、……って、まさか、俺、体乗っ取られたとかぁ? んで、今頃、カマ言葉で数やゆずると対話してたりして。
わ、笑えねぇ〜。
そうこう考えているうちに、目の前の闇が薄らぎ、徐々に周りが見えてきた。きっと、数が何とかしてくれたんだな。霊を祓って。
だが、闇が完全に消えたそこに数久やゆずるの姿はない。代わりに目に映った人物は見知らぬ少女だった。
「誰?」
気付くと互いに問うていた。思わず、笑ってしまう。
どうやら少女にとって、直久の方が、突如現れた怪しい人物らしい。
「俺は直久。君は?」
床に膝を着いてしゃがみ込んでいた直久は、ゆっくり立ち上がり、辺りを見回した。
ここは?
一見、さっきまでいた場所となんら変わらないように思えた。だが、時々しか掃除しないさっきまでの廊下と違い、よく整い、埃一つない。薄暗く、全く人の気配がしなかったはずなのに、ここは明るく、どこからか人の声が騒がしく聞こえている。いかにも人が住んでいます、って感じである。
驚いて立ちつくしている少女に、直久は歩み寄った。一歩一歩近づくにつれ、その顔がはっきりと見えるようになる。
はっ、として直久は歩みを止めた。あの長い廊下に飾ってあった少女の絵と同じ顔をしていたのだ。
――どういうことだ?
直久はゴクリと咽を鳴らした。
「君、ツバキ……さん?」
少女は再び驚いたような顔をして、首を横に振った。
「私はアヤメ。ツバキは私の姉よ」
そこでようやく直久は、少女――アヤメの瞳が濡れていることに気が付いた。
「かわいそうで、哀れなツバキ。死ぬために生まれてきたの」
アヤメはふと、不思議そうな瞳を直久に送った。
「どうして、ツバキを知っているの? それに、あなた、いったいどこから現れたの?」
直久は言葉に詰まる。直久自身が聞きたい。
ここはどこなのか? 自分はどうなってしまったのか?
「ツバキさんの絵を見たんだよ。白い椿が咲く庭の」
「ああ、時也さんが描いている絵ね」
「時也……さん?」
「ツバキの絵描きよ。ツバキと私は双子なの。両親だって間違えるほどそっくりなのに、時也さんは間違えたりしないのよ。ツバキはツバキ、アヤメはアヤメだってね」
どっかで似たようなセリフ聞いたなぁ。
「もうすぐ、その絵が完成するでしょ。だから、みんな、儀式の準備に忙しいのね。あなたみたいな不審者が入り込んでも、まるで気付かないわ」
と、アヤメはくすくす笑う。
その不審者と平然と話しちゃっているあたり、世間知らずの深窓のお嬢さんって感じがする。
普通、突然、見知らぬ人が現れたら、驚いて騒ぎ立てるものじゃん。
驚くまではしたが、全く騒ぐ様子がない。その口調は旧知の友人と話しているようだ。
まっ、こっちも気楽でいいんだけど。
「儀式っていうと?」
「山の神様に生け贄を捧げる儀式よ」
「それ、いつ?」
「絵が完成したらよ。明日じゃないかしら?」
「明日!」
直久は拳を口元に押し当てる。
ツバキって、やっぱし、あの、最後に生け贄にされるはずだった少女のことだよなぁ。
そのツバキが生け贄にされる儀式が明日あるってことは……。
「なあ、いま何年? 何年何月何曜日? ついでに何日? ああああああああああああああ〜っ! もしかしたら、俺、タイムスリップってやつ? タイムスリップかよ! おい! しちまったのかよ! マジでぇ〜?」
突然叫ぶわ、頭を抱えて飛び回るわ、びどく取り乱した直久にアヤメは唖然とする。
「どうすりゃあ、帰れるんだ? なんかの映画だと雷に当たると車がウィ〜ンって動いて帰れるんだけどなぁ。そいや〜、なんかのドラマで同じ衝撃を受けたら帰れたって話があったな。同じ衝撃、同じ、って言ってもな〜。霊と衝突した場合はどうすりゃいいんだぁ? この場合同じ霊じゃなきゃいけないとか? すると、探さないといけないつーことだよな。あーっ、でも、ここではまだ生きてるんだっけ? しかも、ツバキなんだか、アヤメなんだか分からねぇーっ」
「あなた、さっきから何言ってるの?」
その、アヤメの声で我に返ると、直久はきりりとしてアヤメに振り返った。
「アヤメさん、何かお困りではありませんか?」
「はぁ?」
「俺がここに来ちゃったのって、ここに原因があるからだと思うんだよね」
たぶん、あの霊がここに連れてきたんだ。ここに、この時間に何かしらの憂いがあるから。
それを解決してやれば、俺は戻れるし、霊も浄土に行けるはず。
「俺、アヤメさんを救いに来たんだ。だから困っていることない? 俺を助けるっと思って何でも言ってくれ」
「はぁ?」
アヤメは怪訝な顔をする。
「何それ。いったい、どっちがどっちを助けるのよ? ――それに、私、全然困ってないから。助けるのなら、ツバキの方でしょ。ツバキ、明日生け贄にされちゃうのよ。きっとツバキの方が救われたがっているわ」
「でも、泣いていたのは君だから」
直久の言葉に、アヤメの顔がカーと赤くなる。
「泣いてないわ!」
「君を、アヤメさんを助けたいんだ。必ず守るよ。例え、どんなものからも。だから、なんで泣いていたのか話してくれないかな?」
「泣いてないってば!」
アヤメは直久に背を向け、つかつかと歩き出す。
例の、妃緒が舜の部屋だと言い張った部屋に入ると、直久の目の前でバタンと音を立てて扉を閉めた。
「ちょっ、ちょっとアヤメさーん。開けてよぉ〜。俺、どうしたらいいんだよぉ〜っ」
しばらく直久の間延びした声が廊下に響いていたが、その後、再びパタンと扉が閉まった時には、直久の姿はそこからなくなっていた。
▲▽
「直久!」
「直ちゃん、しっかりして!ねぇ、直ちゃん!」
直久の身体は、ゆずるの腕の中でぐったりと横たわっている。 その顔は血の気がなく、蝋人形を思わせるほどに青白い。次第に冷たくなっていくその身体を、ゆずるは暖めるように力一杯に抱きしめた。
「なんで! なんで、俺の前にっ。この馬鹿!」
自分と直久が仲良しとは、けして言えなかったはず。――いや、それどころか、嫌われていたはずだ。
……なのに。なぜ?
「数、すぐに直久から悪霊を引き離せ。お前のポリシーなど聞かない。強制除霊しろ。抵抗したら、消滅させてしまえ!」
ゆずるに頷いて見せた数久だったが、霊を祓うだけの余力などなかった。 数久の頬を汗が伝う。それでも、できないなどと、今のゆずるに言えなかった。
数久が小刻みに震える手で印を結ぼうとした時、舜がそれを制した。
「やめておけ、今の君には無理だ。下手に霊を刺激すると、事態はよけいに悪化する」
そこでようやく、ゆずるは彼の存在に気付いたようで、彼を睨み付けた。
「黙れ、部外者が口を挟むな」
「ゆずる、この方は山の神だよ」
「それがどうした? 俺は九堂家次代当主だ。そこらの神々よりよほど強い力を持っている。昔、生け贄を捧げられていたらしいが、だからなんだって言う? それで、その程度の力か?」
「ゆずる、口が過ぎるよ!」
「いや、いい」
青ざめた数久に舜は柔らかく微笑んで、ゆずるに細くした目を向ける。
「なるほど、九堂家の方であったか。霊がその身体を器にしたがるのも分かる。だが、確かに九堂家の次代ならば、そこらの神々――吾などよりも強いであろうが、そなた、まことに次代か? 汚れた血の臭いがする。そなたはおん……」
「黙れ!」
顔を赤らめ、舜の言葉を遮るゆずる。
「それ以上、口にすることは許さない!」
肩で荒々しく息をするゆずる。舜はゆっくりと首を横に振った。
「何か訳があるようだ。ならば、聞くまい」
舜はゆずるの腕の中の直久に目を移す。
「そなたが次代ならば、知っているだろう? 彼は体内にいったい何を飼っているのだ?」
「……」
「彼の体内に侵入して来た異物――少女の霊をソレが徐々に吸収していっているようだ」
「どういうことですか?」
舜は問いかけてきた数久の方に振り向くことなく、直久の死人のような寝顔を見つめたまま、分からないと答えた。そして付け加える。
「彼はソレから少女の霊を守ろうとしているようだ」
▲▽
物語の主人公は、いつも可哀想なお姫様。
悪い魔女に虐められる哀れなお姫様。
お姫様は無垢で可愛らしい。
疑うことも、恨むことも、知らない。
愚かで無知なお姫様。
誰もが哀れむ。
私はお姫様ではない。
彼女を哀れむ立場であり、実際、彼女の不運に涙した。
だけど、なぜ?
なぜ、物語の最後にきて、彼女を羨ましく思うのか?
物語の最後だけ、彼女と入れ替われたらと思ってしまうのは、なぜだろう?
▲▽
アヤメ――彼女の日常は、扉を叩くことから始まる。
屋敷の、他のどの扉よりも幾分も分厚く、重いその扉を恐々と叩く。
「ツバキ、いるの?」
アヤメがその扉を開くことはない。毎朝、毎朝、彼女はただその扉を叩くだけなのだ。
しばらくして、扉の向こう側からコンコンと返事が返ってきて、アヤメはホッと息を漏らした。
もし、返事が返ってこなかったら……。そう思って、叩くことを躊躇うこともある。
だが、もし、ツバキが逃げてしまっていたら……と思うと叩かずにはいられない。
もし、ツバキが逃げてしまったら、アヤメが生け贄にされてしまうのだから。
アヤメのドロドロした心を晴れさせるような声が高々と響いた。
まだ10歳にも満たない幼い弟――アカネが、自分の細腕を二十歳は超しただろう青年の腕に絡ませ、半ば引っ張るようにしてこちらにやってくる。
青年のスラリと伸びた背丈や、ごく整った顔立ちは、田舎娘の小さい心臓を易々と高鳴らせる。
「おはようございます」
アヤメの存在に気付いて青年は、ぺこっと頭を下げた。
アカネもアヤメに気付き、彼女に駆け寄るとその腰回りに抱きついた。
「おはよう、姉さん」
「おはよう、アカネ」
アカネを抱きとめたアヤメは赤らんだ頬で、青年を見上げる。
「時也さん、これからお仕事?」
「ええ」
青年――時也は上着のポケットを探り、銀色に輝く鍵を取り出した。
「あと、どのくらい? 今日には、描き終わるのかしら?」
知らず、声が上擦る。1秒でも長く彼と話していたい。彼を引き留めていたかった。 だが、時也は、
「ええ。今日中には、描き終わりますよ」
と、短く答え、扉を開け、中に消えていってしまった。ツバキの元へ。
仕方ないのだ。彼はツバキの絵描きなのだから。
以前、彼はアヤメにも絵を描いてくれていた。赤い椿の花が咲く庭を背景にしたその絵を父親が気に入り、ツバキの生前の姿を描くようにと時也に依頼したのだ。
絵が描き終われば、ツバキは死ぬ。生け贄にされるのだ。そのことを知る彼の筆はひどく遅かった。
アヤメは時也の背中を隠した扉にため息をついた。
時也がアヤメの熱い視線に気付くことはなかった。彼にはツバキしか見えていなかったのだから。
扉の中に入ると、すぐそこは階段となっている。部屋自体は地下にあるのだ。 窓のようなものは一切なく、時也が手にする明かりのみが部屋を照らしている。
一段一段降りていくにつれ、気温まで下がっていくようだった。一応、人が住めるような造りをしているが、そこはまるで牢獄であった。
「ツバキ」
時也が優しく名前を呼ぶと、その囚われの少女がふわっと微笑んで彼を迎えた。
生まれてから、一度もこの部屋から出たことのない彼女は、どんなに外の世界が汚れていようと、人の心がいかに醜かろうが全く関係なく、清らかにそこに存在している。
無垢で、可愛いツバキ。
ツバキを前にすると時也は堪らなくなる。
この少女を連れて逃げられたら……。
科学が進んだ近代で、やれ祟りだ、やれ呪いだと信じる者は少ない。まして、山の神に生け贄を捧げないと村が滅亡するなどと、本気で信じている者などいない。
儀式を主催者である彼女の父親自身さえ、信じていないだろう。
だが、家のため、利益のために実の娘を殺そうとしている。なんて馬鹿な話だろう。
助けたい。
ツバキを助けたい。
そして、自分の手で、今までの分までも、幸せにしたい。
時也は、自分の腕の中で、今でも十分の幸せだよ、とでも言い出しそうな顔をしている少女の額に甘く口付けた。
もう、ずっと前から知っていた。
気付いていたのに、認めたくなくって、目を閉じて、見ない振りして、耳を塞いで、聞こえない振りをして、そして、自分に嘘をついていた。
だけど、どうしようもない。彼はツバキを愛しているのだから。
だけど、でも、どうして! 私とツバキは双子なのに!
同じ顔、同じ声、同じ、同じ、同じ、同じ、同じ……。
なぜ、私じゃないの?
私のどこがダメなの?
私とツバキとどこが違うの?
可哀想で、哀れなツバキ。
それなのに、なぜ?
私がツバキを羨ましく思ってしまうのは、なぜ?
▲▽
泣き疲れたのか、寝入ってしまったアヤメの黒く長い髪を、流れに沿うようにそっと撫でて、直久はアヤメの部屋を出た。
途方に暮れたい気分だった。
長々とアヤメの恋愛相談に付き合わされ、本当に彼女を恋愛経験0の自分が救えるのかと不安になってきた。いや、それ以前に、自分をここに呼んだのは、本当に彼女だったのだろうか?
アヤメ自身が言っていた通り、ツバキだったのではないだろうか?
――ツバキって子の方にも、会っておいた方がいいな。
ツバキが屋敷のどこにいるのか? ……は考え悩む必要はない。あの部屋だ。
生け贄にされる少女が代々使っていたという、開かずの扉の部屋。
そこへ行くまでの間、直久は何人もの人々とすれ違った。
確かに、皆が皆、忙しそうに直久の脇を通り過ぎていったが、アヤメの言うように、ただ単に忙しすぎて直久が紛れ込んでいるのに気付かないと言うのと違うようであった。
そう、まるで、直久など存在しない、見えていないかのようにすれ違って行くのである。
やはり自分を見ることのできるアヤメが、自分をここに呼び寄せたのだろうか?
開かずの扉の前にたった直久は腕を組み、小首を傾げた。
この時代では、開かずの扉はその名の通りの『開かず』ではなく、鍵さえあれば開くのであるが、その鍵を持たない直久にとって、やはり扉は『開かず』なのである。
どぉ〜したもんだかなぁ〜〜〜。
ツバキが扉の向こう側にいる限り、当然、扉を開けないと会えないのである。
その時、急に直久は目眩を覚えた。
――なんだ?
全身に鳥肌が立つ。憎悪。拒絶。恐怖。
訳は分からないが、本能的にここから逃げなくてはと思う。だが、その思いとは裏腹に、直久の足は一歩も動かない。
どっ、と冷や汗が溢れた。
扉の向こう側から、かすかに少女の笑い声が聞こえる。嘲るような、そんな笑い声だ。
直久の目が扉に釘付けにされる。見たくないのに……。
すーっと、白く美しすぎる手が扉を突き抜けて現れた。続く腕が直久の方に伸ばされる。
がしっ、とその手に捕まれて直久は、バランスを失いその場に尻餅をついた。
引っ張られる!
前の晩、ゆずるがそうされたように、足首をもたれ、ズリズリと扉の方へ引き寄せられていく。
直久は自分の足首からその手を引き離そうと、上半身を折り、手を伸ばした。
直久の手がその白い手に触れた瞬間、青い火花が散り、ジュッという音と共に黒い煙が上がった。
そして、次の瞬間、フッと白い手が消えたのだ。
――な、なんだ?
恐る恐る自分の手のひらを見ると、直久は安堵のため息を深くつく。そこには数久の護符が描かれていた。