84話 領主夫人の心得 後編
84話 領主夫人の心得 後編
アイディーンの息子ファーガスはもうすぐ成人の儀を迎える。
こちらでは数えで13の年には見習いの仕事に就くのが習い。
ファーガスは領地の跡継ぎなので、まずは騎士見習いとして他領預かりとなる。
大抵は親戚筋の領地から預かり先が選ばれる。
その点で言えば、《トゥレニー領主であるウリエンスの第三子イヴァン》はアイディーンとは伯母甥の関係。
グリアンクル領は条件に当てはまるだろう。というのがアイディーンの弁だ。
――しかし。
天音は横目でユーウェインを盗み見る。
無表情のままかと思いきや、眉間に皺が寄っているのがわかる。
断りたい。面倒ごとは避けたい。
そんな雰囲気がぷんぷんするのだ。
(うーん……)
天音はアイディーンの申し出について考えを巡らせる。
領地同士は友好関係だ。
だが、領地の大きさや収益、他領への影響力はフィオナラが上。
となると、大事な跡継ぎを預かる、というのは……。
「名誉なことではあるが……」
「グリアンクルにとって、損なことではないはずよ」
なるほど、と天音は頷いた。
メリットはある。だが、ユーウェインは渋い顔だ。
グリアンクルにあるのは、大森林地帯。
開墾途中の平野。
森の奥には広大な荒地。
そして最奥にそびえ立つは死の山……。
――そうだ、死の山!
死の山の中腹にある洞窟から天音はこちらの世界にやってきた。
洞窟の中には水晶のように美しい、塩の塊。
塩の塊はこちらでは文字通り宝の山だ。
今はのどかな生活を送れるグリアンクルだが、一度情報が漏れてしまえば、あっという間に騒動の種になる。
騒動になるだけではない。有象無象の輩がグリアンクルへ群がってくることになるのだ。
天音はその考えにぞっとした。
そうなればグリアンクルの平和な生活はお先真っ暗。
移民だけならまだしも、フィオナラの次期領主がやってくるとなれば、どこから話が漏れるかわからない。
滞在日数は年単位だろう。
だからこそユーウェインは渋っているのか。
「今のグリアンクルは発展途上だ。
満足のいく教育が出来るかどうかも怪しい。
ファーガスにとって果たして益となるのか?」
胡乱な言い回しだが、真っ向から断るわけにいかないユーウェインは、探るように質問を続ける。
本人の気持ちが一番大事。そういうニュアンスが言葉尻からは伺える。
「若い領地で経験を積むのはファーガスにとって得がたい経験になるわ。
それにあの子はイヴァン、あなたの武勇に憧れている。
稽古を付けて欲しいと今からおお張り切りよ」
……すでに息子への根回しは済んでいる様子だ。
さらにアイディーンは言葉を重ねる。
「教育係についても侍女と従士を二人ずつつけるつもりよ。
うちの古参だから安心してちょうだい」
…………側近の準備も万端だ。
アイディーンがにこにこと不安要素を潰していく。
「……」
ユーウェインはううむと唸った。
眉間の皺は深くなる一方だ。
「ついでに言うと、兄上にはすでに話を通してあるわ」
「――相変わらず外堀を埋めるのが得意だな」
ぼそりと呟くユーウェインの声音は低い。
兄上というのは、ユーウェインの父親のことだろうか。
広い部屋に、ピリリと緊張感が走る。
天音は少し心配になったが……。
「使えるものは使うというだけよ。
自分の好悪は二の次ね。
自領のためになるのなら、泥も被ってみせましょう」
「領主夫人の務め、か」
「……そして、甥のためになるのなら。
貴方だってせっかく力を注いだグリアンクルを
このまま易々と奪い取られたいの?」
アイディーンの声音が心なしか柔らかくなった。
慈愛に満ちた表情。まるで出来の悪い弟を叱り付けるかのよう。
全くといっていいほど悪い印象を与えない。
第三者の天音にとっては充分な厚意に思える。
ユーウェインがグリアンクルの領主としていられるのは残り五年。
五年で指定された金額を支払えなければ。
さらには跡継ぎをもうけられなければ、ユーウェインはグリアンクルを去ることになる。
重い。天音はそう感じる。
領地の発展のみならず、期限まで設けられる。
発展に役立ちそうな塩の山はまだ手が出せない。
歯がゆい気持ちも多いだろう。
村の発展に不可欠な女手。金銭。特産品の販売。他領とのやり取り。
ユーウェインの前には様々な困難が立ちはだかっている。
そこにユーウェインの意思は介在しないのに、勝手にレールが引かれている。
かといって、どっしりと構えるユーウェインからは、後ろ向きなところはまったく伺えない。
ただ地道にやれることをやっている。
そこまで考えて、天音ははっとした。
誰しも同じだ。自分の手に抱えられるだけ抱えて、やっていくしかない。
天音もまた、ユーウェインと同じ。
こちらに来てから不安な毎日だった。
悩むこともあった。
けれど、頑張れる分だけ、頑張ってきた。
震えそうになる掌をぎゅっと握って。怖じ気そうになる心を叱咤して。
天音はここに座っている。
(……背筋、伸びてる)
――一瞬。天音はユーウェインの物怖じしない姿に見蕩れた。
そして即座に視線を前に向ける。アイディーンの方へ。
アイディーンもまた、美しい姿勢で凛とした風情を保っていた。
甥のためになるのなら、と彼女は言った。
それが詭弁でないのなら、アイディーンは味方と言えるのではないか。
「そんなはずはあるものか」
アイディーンに発破をかけられて、ユーウェインの瞳にかすかな光が灯った。
美味しいところだけ掠められる。
そのようなこと、許せるはずもない。
強い意志を込めた瞳がそう語っている。
環境に負けじと、前を向いている。
「なら、立場を強くなさい」
アイディーンの声が鋭く部屋に響き渡った。
「ファーガスの後見人となるのなら、トゥレニー北部の領主たちは貴方の頼もしい味方となるでしょう」
そう言ってアイディーンはユーウェインにピタリと視線を合わせた。
ユーウェインはその目を逸らさなかった。
天音は二人の対峙に息を呑んだ。
――瞬きひとつ出来ずに。
次回タイトル「夜会」




