82話 領主夫人の心得 前編
82話 領主夫人の心得 前編
「俺の家臣との話は後でゆっくりと。お久しぶりです――叔母上」
アイディーンの視線を遮るようにユーウェインは天音の前へ立った。
広い背中にはかすかな緊張感。
だが天音にはほんの少し安心感を与えてくれる。
(……叔母上?)
天音は訝しげに眉を寄せる。
ユーウェインとの年齢差がそれほどあるようには思えない。
年頃は20代後半。
ユーウェインの母親は庶民だという話だから、父方の叔母……年の離れた妹ということになる。
「その呼び名は止めてと言ったはずだけれど?」
アイディーンは可愛らしく頬を膨らませて不服を言う。
「これは失礼致しました。」
ユーウェインはと言えば、大仰で慇懃無礼。
割と気安い間柄なのかもしれない、と天音は思う。
「さて、お客人をこんなところでお待たせするわけにはいかないね。
ついていらっしゃい」
アイディーンはそう言って猫を抱いたままくるりと背を向けた。
所作は洗練されていて、長いスカートは乱れずに綺麗にひるがえる。
衣服には美しい刺繍がふんだんに施されているが、天音は佐波先輩のことが心配で、観察どころではない。
(廊下には居ない……)
忙しなく目だけをきょろきょろとさせる。
だが佐波先輩の姿はやはり見当たらない。
しゅんとしょげ返った天音は、仕方なく前を向く。
すると……。
――なぉーん。
廊下に猫の鳴き声が響いた。
天音はアイディーンの肩に乗る猫の方を見遣った。
長い白毛は手入れされているようでたいへん艶やかだ。
瞳は透き通った翡翠色。
グェンエイラと呼ばれた白猫は、時折天音のほうをちらりと見るものの、すぐに興味なさげにそっぽを向いてしまう。
(……可愛い)
ほんの少しだけ、天音の緊張感が和らぐ。
肩肘を張っても仕方がない。
今ここに来て、あたふたと慌てるのは得策ではない。
長く息を吸って吐く。
廊下を歩く間、心を落ち着けながら進む。
そうこうしている内に、客間の前へと辿り着いた。
待ち受けていた使用人たちによって扉が開かれると、ユーウェインが案内される。
天音は予め聞かされていた通り、そのままユーウェインが客間へ入るのを見送った。
「私たちはこちらへ」
ジリアンの耳打ちに天音は頷いて、客間の隣部屋へと移動する。
扉の作りは質素なものだ。恐らく使用人部屋だろう。
(もしかして佐波先輩はこっちに……)
期待を胸に天音は扉の奥へと足を歩め――。
「――さもがっ」
佐波先輩、と叫びかけた口はジリアンによって即座にふさがれた。
天音が発することが出来たのは一文字分だけ。
だがジリアンの仕事の速さに関心を向けていられるほど、天音に心の余裕はなかった。
「やほー、一日振り?」
天音の目の前には佐波先輩が居た。
衣服は天音と同じような側仕えのもの。
見たところ健康そのもの。
――何だかこんな展開、前にもあった気がする。
けろりとした表情で手を上げる佐波先輩の元気な姿に、天音は思わず腰が砕けそうになった。
(良かった……無事だった……)
命の危険性はない、と言われていた天音だったが、それとこれとは別。
必要のあるなしは関係ない。ただ心配だったのだ。
けれど、と天音は唇を噛む。
気を揉んでいたのに、このあっけらかんとした様子はどうだろうか。
ついつい、咎めるような視線を注いでしまう。
すると佐波先輩は驚いたように猫のような大きな瞳をまん丸と見開いた。
「……心配掛けてごめん。ちょっといろいろあって」
何らかの事情があったのは状況から見て明らかだ。
こちらでは明確な身分差がある。
グリアンクルでは緩やかな丘陵のような差でしかなかったものが、トゥレニーではまるで傾斜の激しい崖のよう。
色んな物事が怒涛のように重なった結果、こうなっているに過ぎない。
――そう、佐波先輩のせいではない。
佐波先輩の無事を確かめたことで、天音はぐっと感情の波を押さえ込んだ。
今ここで騒ぐわけには行かない。
何しろ見知らぬ貴族の館。
先ほど口を塞がれて良かった、と今更ながらほっとする。
一呼吸入れて、佐波先輩へと近付く。
今度は声量をなるべく抑えることを忘れずに。
「いったい何があってこうなったんですか?」
「アイディーン様にお話したいから館に来なさいって言われて
拒否権なさそうだから来た」
「……わかりやすい説明ありがとうございます」
内容はデリックの説明と一致しているため、天音は納得して次の質問に切り替える。
「それで、アイディーン様とのお話って……?」
「うーん……」
――佐波先輩が煮え切らない返事とは珍しい。
もしかして何か強引な要求があったのだろうか?
天音がそんな思いに駆られた矢先、すっと佐波先輩の人差し指が上がる。
(内緒ってこと?)
「口止めされてるんだ。でも、悪いことにはならない、と思う。
確かめたいだけみたいだから」
天音は佐波先輩の言葉を一生懸命頭の中で反芻してみたが、さっぱり意味が掴めない。
ユーウェインも佐波先輩も、天音に大事なピースを隠しているのではないか。
暖簾に腕押ししたような、奇妙な感覚に囚われて二の句が告げない。
「あら、来たのね」
天音が次の言葉に迷っていると、別の部屋からアビーがひょいと顔を覗かせた。
いつの間にか、ジリアンは忙しく動き回っている。
天音たちが騒ぐことはないと判断されたのだろう。
アビーは部屋に入るとすぐに天音の傍に来て、手を取った。
「アマネはこちらへ。サヴァはこの部屋にいてちょうだい」
「え、佐波先輩も一緒じゃないんですか?」
天音は驚いて声を上げた。
異民族に話が聞きたい。そういう話ではなかったのだろうか。
「アイディーン様はサヴァとは昨晩話されたから、
じゅうぶん満足しておいでよ」
「で、でも」
手をぐいぐい引っ張られるが、天音としては再開したばかりの佐波先輩とすぐに離れるのは避けたかった。
そもそも情報交換もろくに済んでいないのだ。
なるべく事前情報を手に入れてから……天音はそう思う。
だがアビーは一歩も引かない。
「さ、早く!」
ぐい、っと背中を押される。
随分と強引だ。もしかして時間がおしているのだろうか?
天音は助けを求めるように佐波先輩に視線を向けるが……。
「行ってらっしゃい、武運を祈る!」
――戦いに行くわけじゃないんですけど!?
どうやら佐波先輩は味方をしてくれないようだ。
アビーに引きずられるまま、仕方なしに天音は覚悟を決めてぎゅっとこぶしを握った。
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。