81話 赤い山猫 後編
81話 赤い山猫 後編
――聞こえてくるのは木製の窓辺が軋む音だけ。
佐波先輩が居ない部屋で、天音はまんじりともせずに夜を明かす。
(佐波先輩……)
ゴワゴワとした毛布。
多少チクチクと肌に当たるが、カビもダニもいない。
毎日きちんと日干しされ、使用人たちがしっかりと手入れしているのだろう。
毛布から発せられるかすかな太陽の匂いにほっと頬を緩める。
だがすぐに、天音の表情は不安げに歪んだ。
(――大丈夫かな、佐波先輩……)
酷い目には合わない、とユーウェインは言っていた。
命の危険性も低い。おそらくは丁重にもてなわれていると。
それでも天音や佐波先輩にとって見知らぬ土地だ。
慣習ひとつ取っても……ちょっとしたことで取り返しのつかない失敗をしてしまうかもしれない。
心の奥底で天音はそんな風に恐れていた。
もし、何かの間違いで佐波先輩が戻って来なくなってしまったら。
もし、二度と会えなくなってしまったら……?
両親を事故で失ったことを思い出し、天音はぎゅうと瞼を瞑る。
(いま悩んだって、しょうがない。わかっているけど……)
言い知れぬ焦燥感に身を焦がしてしまう。
――ほんとに佐波先輩に危険が迫っているのなら、何としても助けなきゃ。
天音は震える手で身体をかき抱いた。
一人で使う寝台は、どうにも広くて寝心地が良くなかった。
◆◆◆
翌日。
昼食を終えたあと、すでにジリアンが衣裳部屋にて待機していた。
夜会の前に面会があるため、早めの身支度が必要のようだ。
午前中は何も手がつかず、かといってユーウェインはジャスティンと打ち合わせがあるとのこと。
仕方なく、天音は部屋でひとり、ぼうっとする以外なかった。
「よく眠れなかった、って顔ね」
くすりと笑われ、天音は困ったように表情を曇らせた。
鏡で確認したところ、少々クマが出来ている。
あとで化粧で誤魔化すしかない。天音はひとつため息をつく。
「そりゃあ、こんな状況じゃぐっすりなんてわけには行きません」
肩をすくめて唇を尖らせる。
天音にしては珍しい悪態。
だがジリアンは「それもそうね」と軽く流す。
柔らかな受け流し方に、天音は生前の母を思い出した。
(子供さんがいるって話だよね。何だか納得しちゃう……)
丹念に油をひかれた木製の櫛が天音の視界に入る。
ジリアンは机に置かれたその櫛を手に取り、天音の頭の位置を調整する。
柔らかな手が天音の髪を束ねては梳っていく。
ほんのり伝わる熱が心地よい。
尖った気持ちが少しずつ緩んで……。
「……背筋を伸ばしたほうがいいわ、アマネ」
そっとジリアンの手が天音の背中に添えられた。
てのひらの温もりが、じんわりと伝わる。
天音は言われるがまま、すっと背筋を伸ばした。
気が付けば心が怖気づいて、身体を縮こまらせていたようだ。
背筋を伸ばしたことで、長く細く息が出来ることに今更ながら気がついた。
「アイディーン……さまとは、どんな方なんですか?」
質問を投げかけながら、天音は鏡を見た。
目元にはクマ。肌は荒れていかにも弱弱しそうな自分の姿がある。
これではいけない。きっと誰に対しても、気持ちが負けてしまう。
天音の瞳に光が灯った。
「そうね……一言で言えば、厳しく優しい方……かしら」
「厳しく、優しい……」
まるで正反対の言葉だ。
「領主夫人としての責任感は人一倍ね。
妻として、母として、立派に責務を果たしておられる」
ジリアンの落ち着いた口調から得られるイメージは天音にとってピンと来るものではなかった。
まだ会ったことがない人間だから、というのもあるが……。
「会ってみればわかるけれど。
……大丈夫よ、破天荒な方だけれど、悪い方ではないから」
「はあ……」
「それよりも、粗相をしない方に意識を傾けるべきね。
さあ、髪は出来たわ。次は洋服ね」
作業のキリが良いところで、いったん話が終わる。
洋服は昨日着ていたものとは打って変わって、灰色の地味なものだ。
「貴族の側仕えは華美なものを身につけてはいけない決まりなの」
とはいえみすぼらしい物はNG。
従って綺麗で清潔、出来れば質の良い布地をたっぷりと使う。
そういう方向になる。
髪型も編みこみはされているがひっつめ髪に近い。
けれどジリアンはというと、側仕えの服装を身に付けてはいても長い緩やかな髪を後ろに流している。
「どうして私とは髪型が違うんですか?」
「ああ、これ? 結婚しているからよ」
疑問に思って問いかけると、あっさりと答えが返ってきた。
なるほどと天音が頷きかけたところで、更に一言追加される。
「……髪をほどく相手がいるってことね。
アマネも、旦那様以外に髪を触らせては駄目よ?」
「――っそういう相手はいないので、大丈夫です……」
一瞬で顔が真っ赤になる。
「あら、そうなの? へええ……」
「えっと、あと注意点とか何かあれば教えて下さいっ」
ジリアンの、何か物言いたげな視線と口調。
このまま話を続けていると、色々とドつぼにはまりそうだ。
そう思った天音は強引に話を変える。
ジリアンはにやにやとしながらも、天音の話にすんなりと乗ってくれた。
「そうね……アマネは直属の部下というわけではないのだから
命令をされてもすぐにうんとは頷かないことね」
「直接的な表現は避ける、ということですか?」
「それもあるけれど……本来、仕えている貴族以外の命令を聞く道理はないのよ。
今回はちょっと変則的。領主同士の付き合いがあればこそ。
あとは親戚だからというのもあるでしょうね」
「なるほど……」
その理屈で言うと、たとえ何がしかの命令を受けても、一旦はユーウェイン預かりとなる。
改めてユーウェインからの下知がない限り、天音や佐波先輩があちら側の要求をのむ必要はない。
――全てはユーウェイン次第。
天音はごくりと喉を鳴らした。
ユーウィンなら大丈夫。
そんな気持ちと、もしかしたら……という不安。
心の中でないまぜになって、揺れ踊る。
「さ、イヴァン様のもとへ参りましょ」
落ち着かない気持ちのまま、天音はただただ頷いた。
◆◆◆
応接室にて手順の確認を済ませた後、天音たちは早速アイディーンの館へ出向くことになった。
館の名義は夫ではなくアイディーンのもの。
アイディーンの母方の資産を引き継ぎ、里帰りの際に使用していると言う。
館まではそれほど遠くないことから、馬車は使わず徒歩だ。
(貴族でも、そんなものなのか……)
煌びやかな馬車で出迎え。
というのは理想に過ぎるが、もっと華美なやり取りを想像していた天音は少し拍子抜けしている。
「近ければ歩く。公都の法衣貴族は格式ばってどこへ訪問するにも馬車を使うらしいが、
鄙びた領地を頂く身とあっては、見栄をはったところで物笑いの種になるのが落ちだろうよ」
「そうは言いましても、今回は友好貴族だから問題ありませんが
そうではない相手ならば最低限の格式は必要になります」
補足説明はジャスティンが行う。
どうやら天音の知らない間にユーウェインとジャスティンの間で何かしらの折衷がはかられたようだ。
刺々しい気配はなりを潜めて、いつものように淡々とした口調に戻っている。
(良かった。どうなることかと思ったけど……)
「時間と金の無駄だ。と言い切りたいところだが、ある程度は仕方がない。
やれ田舎騎士がと罵られるのも業腹ものだしな」
「ご理解頂けて嬉しいです」
――とはいうものの。
時々冷んやりとした空気が漂っているのは天音の気のせいではない。
先導するのはジャスティン。次にユーウェイン。
そしてジリアンがしずしずと付き従って、最後に天音だ。
後ろからだとジリアンの表情は伺えないが、ジャスティンへの反応がまったくないところを見ると、無表情なのだろう。
時折感じる居心地の悪さを胸におさめながら、天音は黙って後ろをついていく。
異民族だということがおおっぴらになると、余計ないざこざがある。
というわけで、今回も天音は無地の帽子つきケープをかぶって髪や顔立ちを見られないようにしていた。
(後ろからついてきてるのは、従士さんたちだよね)
護衛のため、少し距離を取ってはいるものの、従士たちの姿がチラホラ見える。
もしかすると前にもいるのかもしれない。
背の高さから伺うに、ホレスは今回護衛役には入っていないようだ。
「そろそろ着くぞ」
ユーウェインの低い声が天音の耳に届いた。
◆◆◆
「グリアンクル領主、イヴァンさまのおなり!」
石造りの門構え。
鉄柵と木製の扉がゆっくりと開かれる。
意匠は素晴らしく、名うての職人が年月をかけて作り上げた。
そのような印象を受ける。
館はずいぶんと大きい。
天音はまじまじと見詰めてしまいそうになるのをぐっとこらえた。
(グリアンクルとはぜんぜん違うんだな……)
館の趣も印象も。
街と辺境とではずいぶん違う。
でも、天音はグリアンクルののどかな雰囲気が好きだ。
寒くて薄暗いが、ゆっくりとした時間が流れている。
人々は温かい。
――うん。グリアンクルのほうが、ずっと良い。
そんな風に妙な対抗心を燃やしていると、前を進むユーウェインから声をかけられた。
「アマネ。言っておきたいことがある」
唐突に投げられた言葉に反応出来ず、天音は無言で目を見開いた。
そしてユーウェインは天音の反応を待たずにそのまま言葉を紡ぐ。
「試されるのは、お前ではなくて、俺の方だ。
そして、佐波の身柄は取り戻す。
それだけ言っておく」
(……試される?)
天音は言葉の意味を頭の中で反芻するが、今ひとつ理解が及ばない。
佐波先輩の身柄をユーウェインが取り戻してくれる。
その言葉は嬉しいものの、前半が気になる。
何を試される?
誰に試される?
ユーウェインに意図を問いかけようとするが、時間切れだ。
館の扉が開かれ、階段の踊り場が目に入る。
「よくぞ参られた。……久方ぶりだね、イヴァン」
――女性にしては厚みのある声。
発せられた声に向けて、天音は自然と頭を上げた。
まず目に入ったのは、赤色。
ロウソクをふんだんに使われた踊り場で、ひときわ目立つ髪の色だ。
さらりと背中に美しい髪を流し、悠然と微笑みながらこちらに向かってくる。
(この人が、アイディーン……)
美しく力強い女性。だが、身長は天音が見上げるほど。
特筆すべきは、かっちりとした肩、すらりと伸びた背丈と……。
「あなたがアマネ? ……はじめまして、私はアイディーン。
それから、この子はグェンエイラ。ほら、挨拶をおし」
――にゃーん。
透き通った雪のように白い――大きな、猫だった。
本年は大変お世話になりました。
来年もどうぞよろしくお願い致します!