7話 Dangerous World Tour~マイケルさん危機一髪~
7話 Dangerous World Tour~マイケルさん危機一髪~
翌朝、天音は寝坊した。
扉の外は異世界――その事実に呆然としながら雪を集めて一晩。
布団の中で泣き通して気が付けば朝になっていた。
うっすらと窓辺から光が差している。
天音は無言で服を着込み、窓へと近寄った。
かすかな温もりが身体に染み入ってくる。
「……顔、洗わなきゃ」
いつまでもこうしているわけにはいかない。
天音は重い身体を引きずって自室を後にする。
――リビングにて。
栗の皮は一晩水に浸けたお陰でだいぶ柔らかくなっていた。
水を抜いて鬼皮だけ向いておく。
鬼皮は柔くなったとは言え結構硬い。
包丁で切れ目を入れて向く作業に手がじんじんとしてきたが、保存作業のためだと割り切るしかない。
指は真っ赤に染まり、ひっきりなしに痛みを訴えてくる。
けれどそのお陰か、沈んでいた気持ちが浮上して来た。
(気持ちを切り替えよう)
どうして異世界へ来ることになったのか?
原因究明はあとでも出来る。
まずは目の前のことを一つ一つ片付けて行こう。
天音はくじけそうな心を叱咤するように唇を噛み締めた。
◆◆◆
一晩明けて、干飯の乾燥は完了していた。
味見がてら使ってみることにして、メニュー内容を思案する。
気持ちが落ち込んでいる時はとにかく刺激があったほうがいい。
「和風が続いてるから、洋風がいいかな?」
意識的に声も出す。そうすると、気持ちも落ち着いてきた。
天音は深呼吸を何度か繰り返して、勢いよく冷蔵庫を開けた。
(牛乳を使っちゃおう)
シチュールウの在庫はある。
だが、調味料代わりにもなるのでどうせなら後に取っておきたい。
「クリームソースを作ってリゾットかな」
冷えた牛乳に小麦粉を加えてだまにならないようにしっかりと混ぜる。
岩塩、黒胡椒をたっぷりとミルで挽くと、ピリッとした香りが広がって、天音は思わずにんまりと微笑んだ。
少し頬が引きつるように感じられる。
天音は頬にそっと手を添えた。
そういえば遭難してからというもの、ろくに表情筋を動かしていない。
(落ち込むと表情も固くなっちゃうのかな。気を付けよう)
熱したフライパンにバターをのせるとあっと言う間に溶けてしまう。
香ばしい匂いが鼻腔をくすぐって、萎んでいた食欲がじわじわと復活していくのを感じた。
中火を弱火に変えて混ぜ込んだ牛乳を流し込み、木べらでじっくりと混ぜていく。
コンソメを加えて更に煮立てれば、クリームソースの完成だ。
肉は豚バラ薄切りを少々、野菜は冷凍野菜の残り少ないものを使用。
どちらも火が通ったら干飯をパラパラと入れていく。
そのままコトコト煮込めば完成だ。
テーブルを綺麗にして、食事の準備。
緊急時だから、もっと適当でもいいのかもしれない。
でも緊急時だからこそ天音は《日常》を心がけたいと思っていた。
(いつも通りにした方が、心も落ち着くし……)
「いただきます!」
威勢良く声を上げて、天音はスプーンで一口目を口に入れた。
温かい食事というのは冷えたものより殊更に美味しく感じられるものだが、数日の粗食に慣れた舌にはより敏感に伝わる。
火傷をしないようにふうふうと息を吹きかけながら、天音は無言で舌鼓を打つ。
ミルで挽いたお陰で、岩塩と黒胡椒の味がダイレクトに口の中に広がる。
まろやかなクリームソースととても良くあっていて食が進む。
一人だけの遭難生活は、話し相手がいないこともあって落ち込みやすい。
なるべく孤独感を解消するためには、生活のメリハリが必要なのかもしれない。
例えば今日のようにほんの少し贅沢をしてみたり、味を変えて五感を刺激したりするのも対応策の一つ。
(……燃料はあと半分だし、あまり使いたくないけど……)
何日かに一度だけ。
気持ちの持ちようが変わるなら、そっちのほうがいい。
◆◆◆
食べ切れなかった分は次の食事にまわす事にして、天音は再び外の様子を見に行くことにした。
天音のいる洞窟は、山の中腹あたりに位置している。
木々は少なく、松の木が数本ある程度。
動物の姿も見当たらない。
このあたりは普段は水場もないのかもしれない。
足元に気をつけながら雪の上をさくさくと歩いて行く。
短距離なら問題ないように思えるが、やはり長距離だと今履いているレインブーツでは厳しい。
以前佐波先輩に貰ったお古の山歩きブーツがあったはずなので、あとで下ろしておくことにする。
雪道での移動を考えるとソリが一番だろうか。
日曜大工の腕が立つわけではないが、日曜大工セットは家にあるのでどうにか作成してみるしかない……。
そんなことをつらつら思い浮かべながら山脈や森の方面に目をやると、何やら煙らしきもやが見えることに気が付いた。
「………!!!!」
慌てて凝視すると、間違いなく煙のようだ。洞窟から向かって一時の方向に、かすかに煙が見える。
山火事でない限りは人為的なもの。
人がいるかもしれない。その推測に、天音の心は震えた。
昨日の落ち込みが嘘のように瞳を輝かせながら、素早く計算を働かせる。
洞窟から下に荷物を下ろすまで随分時間がかかるだろう。
恐らく、何回か往復しなければならない。
それだけで一日仕事だ。
雪原を渡り森までは軽く見積もっても二日。もしかするとそれ以上。
また、森を越えるためにも色々と工夫が必要になりそうだ。
天音は目は悪くないので、なるべく情報を得ようと森の方向をじっと見つめる。
森林地帯は広域に渡っているため、徒歩でとなると抜けるまでにどの程度かかるのかわからない。
先ほどの煙はあっと言う間に消えてしまったが方向はきっちり覚えている。
そして森の奥に目を向けると、ぼやけて見づらいが建造物らしき影も見え隠れしていた。
こんな大自然に人ひとりで生活出来るわけがない。
というのは、田舎暮らしをしたことがない天音を基準にしているからだろうか。
期待を持ち過ぎるのは危険だが、冷静に考えてみても集落があると考えたほうが自然だ。
今から慌てて向かったところで遭遇出来るとは限らない。
はやる心を抑えて、そう自分に言い聞かせた天音はそのまま部屋に戻った。
◆◆◆
「あああ……マイケルさん……っ」
換気のために佐波先輩の部屋に入った天音は悲痛な叫び声を上げた。
窓辺に鎮座しているのは、ウツボカズラ。
ウツボカズラのマイケルさんは佐波先輩が唯一生育に成功している食虫植物だ。
もちろん命名は佐波先輩。
『虫を落とすツボ型の罠が段々大きくなっていくところがたまらないっ』
と身悶えするほど可愛がっている。
長期不在の際にはいつも水遣りを頼まれているが……。
「ごめんなさい! マイケルさんごめんなさい!」
しおしおのマイケルさんを見て天音は思わず謝っていた。
鉢の半分あたりまであった水が随分乾いている。
慌ててジョウロに水を汲んで、ドボドボと土にかける。
最後の水遣りは遭難前日。枯れてはいないので、ギリギリ間に合うはずだ。
カーテンが分厚く夜はシャッターを閉めていたのが幸いした。
「ええっと…腰水ってこのあたりまでだよね」
ちょうど鉢の中間まで水位を上げたあと、天音はほっと一息ついた。
ウツボカズラは肥料いらずということなので水さえ与えれば枯れずに済む。
(でも、気温の変化が激しくないほうがいいよね?)
心配になった天音は夜は自室へ移すことにした。
防寒用に、ダンボールや発泡スチロールでカバーする。
一緒に遭難してしまった仲なのでなるべく愛情を込めて育ててやりたい。
旅は道連れ世は情け。助け合う気持ちって大事。
「ね、マイケルさん!」
天音は一人妙なテンションでうんうんと頷きながらマイケルさんに同意を求めてみるが、もちろん返事はなかった。