SIDE∞-01 依頼
仲夏の太陽がギラギラと輝く中、風鈴の奏でる透き通った音色だけが心を涼しくさせる。
暇過ぎるとつい畳の目を数えてしまいそうな広い和室だった。開け放たれた障子戸の向こうは大層ご立派な日本庭園が広がっており、小プールほどもある池の中を高そうな錦鯉が優雅に泳いでいる。何匹いるのか数えてみたが、二桁を超えたところでごっちゃになって諦めた。
そんな景色を他にすることもなくぼけーっと眺めながら、少年――秋幡紘也は和室の中央で気だるそうに胡坐をかいていた。
「……はぁ」
本日何度目かの溜息が零れる。
空は全国的に晴天だというのに、紘也の気分は曇天だった。そろそろところにより大雨が降ってもおかしくないレベルで。
憂鬱の原因は今朝、携帯に残されていた留守電メッセージにあった。
『今日の十時に私の家まで来ること。あなたの契約幻獣たちも一緒にね』
たったそれだけの簡潔なメッセージだったが、たったそれだけで厄介事の臭いをこれでもかと漂わせていたら誰だって溜息の一つもつきたくなるだろう。
なにせメッセージは陰陽師の名家――『葛木家』の次期宗主候補様から送られてきたものだからだ。陰陽師からのお呼び出しの時点で非日常は確定と思っていい。
そうしてやってきた今現在、紘也はこのわびさび溢れる豪邸の客室にて待機している次第である。
「今度はなにをやらされるんだよ……」
例年ならば極々普通の一般高校生として平凡な夏休みを過ごしているというのに、なにが楽しくて毎度毎度こう非日常に巻き込まれなければいけないのか。紘也にM属性はない。
けれど、それも必然なのではないかと最近になって思ってきた。
秋幡紘也は大魔術師の息子である。
それ故に莫大な魔力と魔術の才能を受け継いでいるのだが、紘也に魔術は使えない。とある事件をきっかけに魔術師の道を捨て、十年間という期間を一般人として過ごしてきたからだ。
その十年は本当にオカルトとは無縁の生活で、普通に学校へ行き、普通に勉学に励み、普通に友人たちと馬鹿なことを繰り返す充実した日々だった。
だが、紘也の平凡は数週間前に崩壊してしまった。
全てはあの日、紘也の父親が無茶苦茶な魔術実験に失敗したことで、世界中に幻獣が無差別召還されてからだ。幻獣とは言わずもがな、ドラゴンやらペガサスやら吸血鬼やら、果ては日本妖怪やらといった空想上の生物全般の総称である。
幻獣たちはこの世界で魔力が尽きると消滅してしまう。それを防ぐために彼らは大きく分けて二つの方法を取らなければならなかった。
一つは魔術師と契約を交わして魔力を供給してもらうことだ。しかしこれを嫌う幻獣は少なくない。
そこで多くの幻獣がもう一つの方法を――人間を襲って魔力を奪い、補給することを選択した。つまり潜在魔力の高い者ほど襲われやすいことになる。よって紘也も幾度となく非日常で非現実な戦いに身を置くこととなってしまったわけで、非常に困っている現状だった。
もっとも、実際に戦闘を行うのは紘也ではないのだが……。
「紘也くん紘也くん、正直面倒臭いのはわかりますが、そんな露骨に溜息つかないでくださいよ。感染っちゃうじゃあないですか。タメイキハザードです」
横からにゅっと紘也の顔を覗き込んで意味不明なことを言ってきたのは、緩く波打ったペールブロンドの長髪にサファイアブルーの大きな瞳を持った少女だった。レースのレイヤーを重ねた夏用の半袖パーカーを纏い、一見すると外国人の美少女にしか見えない。
だが、コレは人間とは全く違う存在だ。
「このウロボロスさんの宇宙規模に広がった知識によりますと、溜息をつくと幸せが逃げるらしいですよ?」
「違う。幸せが逃げたから溜息をつくんだ」
幻獣ウロボロス。知っている人は知っている、〝永遠〟〝無限〟〝連続〟〝再生〟などを象徴とする身食らう蛇――その『人化』した姿が彼女なのだ。紘也は『ウロ』と呼んでいる。
彼女が契約幻獣になってくれなければ紘也はとっくに命を落としていた。その点については感謝してもし切れないが、こいつは性格に難がある。
「オゥ? ならあたしの幸せをわけてあげますよ! いえいえ遠慮はいりません妻として当然の行いですからさあ口を半開きにしてくださいあたしのお口からぶちゅっと幸せを注入してあげますよ舌とか絡め合ったりなんかしてうっひょー紘也くんの唇ゲーット♪」
――ガシッ!
紘也は唇を突き出して迫り来る顔面を右手で鷲掴みにし、そのまま横に放り投げた。勢いを逸らされたウロは盛大に転んで畳と情熱的な口づけを交わし、
「にょわぁあああああああささくれが!? ささくれがあたしの唇をチクチク!?」
ごろごろと激しく転がった挙句、ゴチン! と柱に額を思いっきりぶつけていた。このノリとテンションについて行ける奴がいるなら是非とも代わって頂きたい。
「な、なにしてくれてんですかヒロインの顔を傷物にしたいんですか!」
「どうせ〝再生〟するだろ? 目潰ししても三秒で回復するくせに。あと誰がヒロインだって?」
「だからって普通こんな美少女に攻撃しますか!? 紘也くんに良心があるのは惚れるほど知ってますがもう少し躊躇ってもんを持ってほしいですね! もちろんあたしがヒロインです!」
「ウロ、蛇ってのは吠えたり鳴いたりしないんだぞ?」
「あたしはドラゴンです! ザ・ドラゴン! 蛇じゃあないんだよ!」
もはやこんな遣り取りも日常茶飯事になったが、激しく面倒臭いことには変わりない。
そして面倒臭い奴はウロボロス一体だけじゃないから、紘也は余計に頭を痛めている。
「……マスター、ウロボロスのが嫌でしたらウェルシュの幸せを貰ってください」
抑揚の少ない声でそう言ってきたのは全身真っ赤な少女だった。後ろで二つに結われた赤毛の長髪、無感情な赤い瞳、着ている服も真紅のワンピースといったどこにいても目立ちそうな容姿だ。
こちらも同じく紘也の契約幻獣――ウェルシュ・ドラゴンだ。またの名をア・ドライグ・ゴッホというウェールズの赤き竜である。
「ウェルシュの幸せを貰ってください。大事ですので二回言いました」
「いやいらんから」
「……遠慮は体に毒です」
ん~、と目を閉じたウェルシュが唇を寄せてきたところで――
「ふざけんじゃねーですよ腐れ火竜! その唇はあたしだけのものです!」
憤慨したウロが張り手で突き飛ばした。勢いよく畳を転がったウェルシュはウロと同じように柱に額を打ちつけた。
「痛いです……」
額を押さえて嘆くウェルシュ。さっきまでピコピコ揺れていたアホ毛が残念そうにしゅんと項垂れていた。性格的には真面目なのだが、ウロボロスに対抗意識を抱いているため事あるごとに張り合ってくるから困りものだ。
「……マスター、ウロボロスを燃やす許可をください」
「はん! やろうってんですか? 望むところです! 完全無敵のウロボロスさんは丁度暇してたとこなんですよ!」
「お前らやるのはいいがリアルファイト以外で決着つけろよ。あの辺の掛け軸とか破かれたら弁償できそうにないからな」
「む? それもそうですね。じゃあモンバロ……はないので『世界の幻獣TCG』で勝負です! 勝った方が紘也くんの唇ゲット!」
ウロはどことも知れない空間に手を突っ込み、そこから一束のカードを取り出した。『世界の幻獣TCG』……紘也もたまに遊ぶ世界的に流行中のトレーディングカードゲームだ。
「了解です」
ウェルシュも掌に真紅の炎を宿し、その中から同じくカードセットを出現させる。
「ですがそれを選んだことがウロボロスの敗因です。ウェルシュのデッキは世界ランク」
「フン、あたしだって幻獣界でも十指に入るトッププレイヤーですよ?」
「どうでもいいがキスはしないからな。絶対」
好意を寄せてくれるのは素直に嬉しいが、紘也には彼女たちと『そういう関係』になるつもりは毛頭ない。なにせ見た目こそ人の形を取っているが、中身は蛇(=ウロボロス)と蜥蜴(=ウェルシュ)なのだ。見た目に騙されてなるものか。
そして最も見た目に騙されてはいけない者は――
《ふん。なぜそのような汚物と接触したがるのか吾には理解できん》
そこで畳にだらしなく寝そべっている青い和服の少女である。いや幼女と言うべきか。目算年齢は十歳くらいで、紫がかった黒髪は結ってもないのに八つに割れている。顔の輪郭は幼女らしく丸みがあるものの、鬼灯のような不気味な赤色の瞳と様々な音階が重なり合った声音が可愛らしさを著しく軽減させていた。
察しの通りこいつの正体も幻獣、それもヤマタノオロチである。名前の由来にもなっている『八つの峰に跨る巨大さ』がどういう理屈で幼い少女の姿なのかと言うと、力の大半を失っているからだとしか紘也には答えられない。
かつては強大な敵としてぶつかったが、今では事のなりゆきで不本意なまま契約を交わしてしまったため仕方なく、本当に仕方なぁーく居候させてやっている秋幡家カースト制度の最下層住民だ。ちなみに紘也たちは親しみを込めて『山田』と呼んでいる。
「てか山田、お前は別に来なくてもよかったんじゃないか? あまり役に立たんし」
《『山田』言うな人間の雄! 吾も端から己らの役に立とうなどと思うておらんわ!》
「じゃあなんでついてきたんだよ?」
怪訝に思って問いかける紘也に、山田は表情を企み顔にして口を開く。
《決まっておる。虫けらのように頑張る己らの足を横から引っ張って妨害するためだ》
「いや帰れよお前もう!?」
こいつは冗談抜きで足手纏いになりかねない。本人がそのつもりなのはもちろん、間違って死なれでもしたら紘也も道連れになってしまうからだ。そういう『呪』が契約という形で紘也と山田にかけられている。だから紘也たちは山田を殺せないし、山田も紘也を殺せない。そんな関係。
と、廊下の方から静かな足音が聞こえてきた。誰かがこの部屋に近づいている。
「ごめんなさい、待たせたわね」
そう言って開いた障子戸から姿を見せたのは、高校の制服を着た少女だった。肩ほどに伸ばした髪に特徴的な白と黒の勾玉型ヘアピン。顔立ちは端整で、猫のような吊り目が部屋に集った一同を見回している。
彼女は葛木香雅里。葛木家次期宗主候補にして、紘也たちを呼びつけた張本人だ。
「そっちから呼んどいてずいぶん待たすんだな、葛木」
このクソ暑い中を冷房もない部屋で小一時間待たされた鬱憤を紘也は言葉に乗せた。
「だから謝ったでしょ。風紀委員関係の用事で学校に行ってて、思ったよりそれが長引いたのよ」
「ああ、だから夏休みなのに制服なのか」
「そうよ。急いで戻ってきたから汗掻いたわ。気持ち悪いからちょっと着替えてきてもいいかしら?」
暑そうに手で顔を扇ぐ香雅里だったが、身なりは整っているし特に汗を掻いている感じもなかった。
だが自宅で制服というのも違和感があるのだろう。着替える時間くらいならば待ってあげてもいいと思う紘也である。
が――
「えー、かがりんそりゃねーですよぅ!」
そういう譲歩や我慢のできないKYがここにはいた。
「こっちは腐れ火竜とデュエってたくらい暇だったんですよ? デュエルはあたしの勝ちってことで中断しますから早く要件を済ませてください」
「……ずるいです、ウロボロス。負けそうだから逃げるのはずるいです。あとウェルシュは腐ってません」
《金髪に便乗するわけではないが。吾も憎き陰陽師の屋敷になどこれ以上留まりたくはない。早く言え。陰陽師の小娘》
「なんか今のヤマタノオロチに小娘呼ばわりされると腹立つわね……」
片眉をピクつかせながらも香雅里は部屋に入ってきた。
「わかったわよ。そこまで長くはならないと思うし、遅れた分も考慮してさくっと話すわ」
諦めたようにそれだけ言うと、香雅里は紘也の真正面に正座した。
背筋をピンと伸ばし、まっすぐに紘也を見て彼女は言の葉を紡ぐ。
「もう薄々勘づいてると思うけど、秋幡紘也、あなたとあなたの契約幻獣たちの力を借りたいの。主に戦闘力として」
「だろうな。他にこいつらの使い道なんてないだろうし」
「ちょっ!? 紘也くん紘也くん、あたし超便利ですよ! 未来の猫型ロボット並に便利ですよ! ウロボロス流錬金術でアイテム作れますし無限空間になんでも仕舞えますしなにより夜のご奉仕なんて得意中の得意!」
「つまり、ドラゴン族の幻獣が必要なほどヤバい敵がいるってことだな」
「ええ。私としては不本意だけれど、今回の件は葛木家だけじゃ手に負えないかもしれないのよ」
深刻に頷く香雅里に紘也は本気を感じた。下手すると土下座までしかねない真剣な目をしている。なんかそこで「紘也くん、スルーはやめて。せめてツッコんで……ぐすん」と涙の海に沈んでいるアホはアホなんで無視しておこう。
「正直、断りたいんだが……」
ウロやウェルシュはともかく、紘也と山田にはほとんど戦闘力なんてない。それほどの敵に狙われればまず間違いなく死ねる。だが全くの役立たずなら香雅里は紘也も指名したりはしない。対魔術師や対幻獣における紘也の力は自分でも自覚しているつもりだ。
「まあ、俺が断ったせいで葛木家が全滅――なんてことになったら目覚めが悪いしな」
「引き受けてくれるのね?」
ぱあぁ、と香雅里は顔を輝かせた。彼女は過去に一度紘也たちの協力を断って悲惨な目に遭ったことがある。だからその時以降、必要性を感じたならばプライドを折って紘也たちの協力を仰ぐようになったのだ。
《ふん。なんだかんだでお人好しだな。人間の雄よ。嫌ならやらなければよいのだ》
「うっさい」
くだらなそうに吐き捨てる山田に照れ隠しで悪態をつく紘也だった。
「できればもう少し詳しい話を聞きたいんだけど?」
今の情報だけでは漠然とし過ぎて素直に了承できそうにない。
「そうね。その辺は八櫛谷の時みたいに移動しながら話すことにするわ」
「……この街ではないのですか?」
アホ毛を『?』にして小首を傾げるウェルシュに、香雅里はどこか嫌そうな微妙な顔をして答えた。
「月波市――人間と妖魔が共存する世界でも有数の都市よ」