SIDE100-11 記憶
吾輩はフェニックスである。名前はない。
何処で生まれたかとんと見当がつかぬ……と、図らずも、かの一匹の飼い猫を語り部とした、この国においては最も有名と言っても過言ではない小説の冒頭に倣ったような物言いになってしまったが、事実なのだからご容赦願いたい。
気が付いたら、吾輩は何処とも知れぬ砂の大地にざっくりと爪痕の如く奔る谷の底で、灰にまみれて天を仰いでいたのだ。
それ以前の記憶はない。
ただ在るのは、吾輩はフェニックスと呼ばれる不滅の鳥であるという自覚だけであった。
五百年の周期で自らを自らの焔で焼き尽くし、灰より復活する火の鳥。
涙は解毒、肉体は不老不死をもたらす妙薬になる。
吾輩自身についてこれだけの事は理解しているが、どうやら復活する以前の記憶は引き継がれぬようだ。
と、妙な理不尽さを谷の底にて羽ばたきの練習をしながら嘆いていると、不意に体が浮き上がった。
どうやら吾輩は空を飛ぶ如才に恵まれていたらしい。
勢いもそのままに、全身に炎を纏いながら吾輩は谷底から大空に飛び立った。
何処までも続く砂の大地。
地平線の先に炎よりも赤い太陽が沈んでいくところだった。
赤く照らされる空と大地を眺めながら、吾輩はゆっくりと羽ばたいた。
五百年はあっという間であった。
世界は広い。
吾輩はどうやら他の同胞と比べると好奇心に溢れていたらしく、己の翼で行けるところは行き尽くし、全てを見てきた。時には次元を渡り、文字通り違う世界を眺めることもあった。
様々な出会いもした。
人間のように五百年など途方もない年月に感じる種族もいれば、五百年如き瞬きにかける時間と大差がないと嘯く身喰らう大蛇もいた。
吾輩にとっても、五百年はあっという間に過ぎ去ったように感じた。
最期は存外呆気なかった。
いつもの如く勝手気ままに大空を翔けていると、唐突に「香草を集めねばならぬ」という意志が働いた。所謂本能という奴なのだろう。百を超えた辺りで灰より復活してから幾年月迎えたのか数えるをの止めたのだが、フェニックスとしての特性は髄の髄まで染み入っているのだった。
かくして、当て所もなく飛翔していた吾輩は付近の山野や人里より香草を失敬し、とある山峰の頂へと向かった。
その場所を選んだのに大した理由はない。谷の底にて復活した吾輩の最後が山頂というのも、乙な物ではなかろうかという考えによるものだった。
山頂の岩場に香草を積み上げ、吾輩はそこに蹲った。
夜も明けようという頃合いだった。
東の空が白み始め、山裾より徐々に太陽が昇り始めた。
吾輩は朝陽に負けぬと言わんばかりに全身に炎を纏わせた。
熱さはなかった。
少しずつ灰となっていくのを淡々と眺めていた。記憶にはないが、恐らくはこれまでにも幾度となく行って来た転生。そこに今更、感慨を持ち込むのもおかしな話だ。
吾輩は、今日死ぬ。
そして今日、新しい吾輩が生まれる。
それだけのことだ。
そう言えば吾輩が最初に見た太陽は、砂漠の彼方に今まさに沈もうと、赤々と燃えているようだったな、と思い出す。
始まりは夕日で、最後は朝陽。
それもまた一興。
山裾より出る白き太陽に目を細めながら、まあ楽しい生涯であった、と己が炎に焼き尽くされた。
気付けば吾輩は、灰にまみれて山頂の岩場より朝日を眺めていた。
意味が分からなかった。
あの日、谷の底で目覚めてからつい先ほど山頂にて灰になる直前までの記憶が、何一つ欠く事無く残っていたのだ。転生前の記憶が残っているなど、数少ないが存在する同族の話を聞く限り、ただの一体もいなかったはずだ。
己が肉体を焼く際に用いた香草を間違えたのか、はたまた場所が悪かったのか。
ともかく、転生は失敗したのだ。
しかし吾輩はそのこと自体をあまり深くは考えなかった。
これでもう五百年、世界中を好きに見て回ることができる。
吾輩は喜び勇んで羽ばたき、天へと翔け出した。
まずは前回の生涯では行けなかった世界を目指した。
空を、海を、次元を超えて旅をした。
時折吾輩の血肉を狙って人間共に狩られそうになったこともあったが、それすらも我が旅路を彩る出来事であった。
そして再び、五百年はあっという間に過ぎた。
今度は密林の中にそびえ立つ、恐らくはとうの昔に滅んだと思われる文明の遺跡内の大広間を転生場所とした。
もう今回のような二度目の生涯は存在しないのであろうと、少しばかり寂しく思うところもあったが、吾輩は粛々と摘んできた香草で己の肉体を覆い、火をつけた。
そして吾輩が次に目を開けた時には、再び灰にまみれ、辺り一面炎で黒く焦げた遺跡が目の前に広がっていた。
ああ、しまった、もっと広い場所にすれば良かった。
そう思って一瞬だけ後悔し、すぐにその程度の事などどうでもよくなった。
何故吾輩は覚えている。
あの日見た夕日も朝陽も遺跡にやって来た事も、全て覚えていた。
一度ならば偶然と軽んじることもできた。
しかし二度目ともなれば、些か違和感を覚えざるを得なかった。
これは転生の失敗なのではなく、吾輩が特別なのではないか?
過去二回の転生後は何も考えずに飛翔した吾輩も、全身に灰を被ったままであることも忘れて思考した。
しかしこれと言って心当たりはなかった。
あるとすれば、一回目の転生の前、吾輩があの谷の底で復活する前の生涯で、何かがあったとしか考えられなかった。とは言え、綺麗さっぱり抜け落ちている零回目の生涯の記憶を探ることなど不可能である。
己で言うのも情けない限りではあるが、吾輩は深く考えるのが苦手であった。短絡的で楽観的。すぐに別段不便もなかろうと割り切り、三度目の生涯を楽しむこととした。
しかし、意識を改めることとなるのは意外とすぐであった。
五度の転生を迎え、流石の吾輩も焦りを覚えた。
吾輩は死ぬことができるのだろうか?
正確にはフェニックスたる吾輩に、他の生き物のように完全なる「死」は存在しない。
死ねば炎に包まれ灰より生まれ出る。
しかし本来は復活する度に記憶は消去され、新たな生涯を送ることを、吾輩たちフェニックスにおける「死」と呼ぶのであれば、吾輩は死なぬ。
本当の意味での不死身。
死ぬことも叶わぬ身。
二千年あまりも続いた生涯において、友と呼べる存在の大半は死んだ。長寿である種族の者もいることはいたが、それでもいつかは吾輩が看取る事となるのであろう。
そう思うと、吾輩は急に恐ろしくなった。
ただ友を見送るしかできぬことが。
友の元へと逝けぬことが。
最後には吾輩しか残らないのではなかろうかという焦燥が。
孤独が。
ただただ恐ろしかった。
気付けば、吾輩の旅路は「死」を求める物となった。
如何様にすれば死ぬことができるか探し回った。
ある時は海底にて肉体が燃えぬよう試みた。しかし我ながら馬鹿馬鹿しいほどの業炎が辺り一帯の水を瞬時に干上がらせてしまい、失敗に終わった。
またある時は強風吹き荒れる地にて身を焼き尽くし、灰を霧散させた。しかしこれも、気付けば吾輩は空高くを飛びながら転生していたという珍奇な経験を生んだに過ぎなかった。
考えうることは全てやった。
幾多の世界を飛び越え、それらしき手段があると聞けばひとつ残らず試した。
だが結局、吾輩が死ぬことはなかった。
もう幾十、否、幾百やもしれぬ転生を繰り返してもなお、吾輩は死ぬことが叶わずにいた。
そして、次なる手段を探しに、吾輩のような異能の獣が数多く存在する世界を訪れた時であった。
我が身がどこかに引っ張られるのを感じた。
見渡せば、他の獣共も一様に、吾輩と同様にどこかへ引っ張られているようであった。それも、吾輩の羽よりも軽く吹けば飛ぶような弱小な存在ならばともかく、吾輩と同等かそれ以上の強大な魔力を持っているであろう獣も、抵抗できずにその引力の方向へと引き摺られていった。
数千数万と生きてきて、初めての事であった。
元来、好奇心が翼を生やし炎を纏って飛んでいるような吾輩である。その力の先に何かを本能的に感じ取ったのか、吾輩は臆することなくむしろ己からそちらへと羽ばたいていった。
端的に言うと、その先に待っていたのは途方もない飢餓であった。
これまでは、呼吸をすれば存在を保てるだけの魔力が漂う世界にいた。しかしこの世界は、これまで吾輩が渡ってきた世界とは比べ物にならないほど、魔力が薄かった。
我が翼は一度羽ばたくごとに力を無くしていき、三日と経たず空も飛べなくなった。五日目には歩くこともままならず、七日目には視界も霞んできた。
そして訪れる、もう吾輩にしてみれば馴染となった、死の――転生の気配。
前回の転生からさほど時は経っていないように感じたが、どうにも今までとは少しばかり異なるようだ。これまでの転生で、我が身が焼かれようとも 何一つ苦痛など感じなかったが――今回は何と苦しいことか。
吾輩の身の事は、吾輩が最もよく知っている。吾輩の体内には、転生に必要な炎を生み出す魔力も残っていない。
故にこれは、死でも転生でもなく――消滅か。
正直どちらでも良かった。
むしろ都合が良かった。
消滅ならば、もう生き返ることもあるまい。永きにわたる生涯の最後としては、なかなかに乙な物であろう。全身から魔力が少しずつ霧散していく苦しみの中、吾輩は不思議と安堵していた。
これでようやく、吾輩も――
「おやおや、何気なしに朝の散歩と洒落込んでみたら、思わぬ収穫が! 遥か極東、日本という国では『早起きは三文の得』というらしいが、まさにその通りだ! 素晴らしい! 私の次の次のそのまた次くらいに素晴らしいぞ昔の日本人!」
不意に、全身から苦痛が消え去った。
まさか吾輩の予想を裏切り、再び転生に成功したのではあるまいな。
そう内心で悪態を吐き、目覚めたばかりのような胡乱な視界で目の前のソレを見上げた。
「君はフェニックスだね? 初めまして私は天才錬金術師、テオフラストゥス・ド・ジュノーだ。君の契約者だ。死にかけの君を救った上に、私の野望に協力できるのだ。感謝したまえよ、ん?」
……夢ならば覚めてくれ。
吾輩は心の底からそう思ったのだった。




