第2章 踏み越えたライン/§2.1 二度目の研究室
前回の研究協力から数日後の火曜日。昼下がりの日差しの中、結衣は再び研究棟の3階へと向かう。
LINEで約束した時間より、少しだけ早く着いてしまった。
「水瀬研究室」のプレートの横にあるインターホンを押す。
『はい』
「……樹くん? 結衣だけど」
『あ、結衣さん。今開けるね』
電子音とともにドアのロックが解除された。
研究室に入ると、樹が笑顔で迎えてくれた。今日も研究室には二人きりのようだ。
「今日も誰もいないんだね」
何気なく結衣が尋ねると、
「うん、最近みんな忙しくて。学会シーズンだし、企業との共同研究で現地調査に行ってる人も多いんだ」
「へー、そうなんだ」
結衣は頷く。だが、脳裏には親友の言葉が蘇っていた。(『二人きりでしょ? 大丈夫なの?』)
「夏休み前のこの時期って、データ収集とか発表準備で研究室から人がいなくなりやすいんだよね」
樹は説明しながら、機器の準備を始めている。
「そうなんだ……」
少し警戒しながらも、結衣は前回と同じソファに腰を下ろした。(でも、樹くんは信頼できる……)そう自分に言い聞かせる。
「お茶飲む?」
樹が冷蔵庫から飲み物を取り出しながら尋ねた。
「うん、お願い」
前回と同じように、樹は機器をセットし始めた。スマートウォッチを渡され、結衣は先日と同じように手首に装着する。
ノートパソコンを開きながら、少し複雑な表情をしながら結衣に話しはじめる。
「ごめん実は先日、研究協力してくれることが嬉し過ぎて色々説明を忘れてたというか、すっ飛ばした部分が多々あって……」
頭を掻きながら話しを続ける。
「まず1つ目は、この研究協力には謝礼が出るんだ。企業との共同研究だから、協力者への謝礼も予算に入ってて。1回2時間で5,000円」
結衣は驚いた。
「そんな、レポート手伝ってもらってるのに?」
「それとこれとは別だよ。正式な研究協力だから、当然の事なのに先日はすっかり忘れていたんだ」
実際、企業との共同研究では協力者への謝礼は一般的なことだった。
「そうなんだ……、だからあんなに細かい書類があったんだね」
前回の研究前にタブレットで説明されたインフォームドコンセントの書類を思い出していた。
「二つ目は、こういう研究では第三者の立会人を置くのが望ましいんだ。倫理的な観点からね」
「え、そうなの?」
「うん。でも僕の判断であえてそうしなかった。知らない人がいる前で、恥ずかしい質問に答えるなんて、余計に緊張するだろうし、結衣さんの自然な反応が記録できないと思ったから」
彼は少し申し訳なさそうに続けた。
「だから、今回の研究はあくまで予備的なデータ収集という扱いにして、企業側に提出するのは、音声データそのものじゃなくて匿名化したテキストと心拍数なんかの生体データにする。なのでルール的にも問題ないんだ……けど……」
さらに、天井を見上げ目を細めてつぶやいた。
「実は、前回の研究の事を企業の担当者や教授に話したら――怒られた……『一歩間違えたらセクハラで問題になるぞ』って」
「あー、確かに。あの内容ならそうだね」
「そこは大目に見てもらえるかと思ってたら、まったくそんなことはなくてね。正式に依頼し直しというか……」
明らかに苦渋の表情をする樹の様子を見て(まだ何かありそう)と結衣は思った。
「そして最後に、同意書に署名してもらうことすらも忘れてた……。インフォームドコンセントの書類に再度目を通して、最後に署名欄があるのでそこに署名をお願いします」
「樹くん、ちょっとうっかりし過ぎじゃない!? 私も気付いてなかったけど」
丁寧な言葉使いでタブレットを差し出す樹に、結衣は笑いながらそう言って受け取る。
(あの細かくて堅苦しい文章か……樹くんが全部説明してくれたから別に読まなくてもいいよね)
結衣は倫理審査承認番号やタイトルの書かれた表紙部分から画面をどんどんスワイプし、一番最後の同意書部分のフォームに署名して樹にタブレットを返した。
***
「じゃあ、前回の続きから始めようか」
準備を終えて樹の表情が研究モードに切り替わった。深呼吸をして、結衣は心の準備をした。
「う、うん……」
返事が少し固い。結衣は既に緊張している様子だ。
「大丈夫? 緊張してる?」
「ちょっと……前回のこと思い出しちゃって」
優しく微笑んで樹はノートパソコンを操作し始めた。
「じゃあ、まず前回のデータの確認から始めよう。すぐに質問には入らないから」
樹はノートパソコンを結衣の方に向け、画面に表示されたグラフを指し示した。
「これを見て。結衣さんが恥ずかしさを感じた時の心拍数と皮膚電気反応のグラフなんだけど、この波形が本当にすごいんだ。これまでの被験者では、ここまで綺麗な相関データは一度も取れなかった――」
専門的すぎて結衣には完全には理解できない。だが、彼の早口で熱を帯びた説明から、自分の反応がどれだけ貴重なものだったのかは伝わってきた。
「この、質問内容の難易度と羞恥心が比例して上昇していくパターン。そして、医学的知識で答えようとする理性と、抑えきれない感情の反応がせめぎ合うこの部分……まさに僕が探し求めていたデータそのものなんだ。結衣さんのおかげで、研究が大きく進展するんだ」
熱心な樹の説明を聞いているうちに、15分ほど経った頃には結衣の緊張もだいぶほぐれていた。
「じゃあ、そろそろ本題に入ってもいい?」
結衣は覚悟を決めて頷いた。
次回「§2.2 没頭する研究者」
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