§4.5 思い出した記憶
低い温度のシャワーを浴びながら、結衣は再び涙をこぼした。
「ううっ……」
シャワーが、顔に流れる涙と化粧を洗い流していく。ノーメイクになっていく自分の顔をぼんやりと見つめながら、結衣はふと考える。
(もういいか。樹くんになら、なにを見られても……)
そこまで思い、バスチェアに腰掛けた。その瞬間、昨夜の記憶の断片が、鮮明に蘇る。
(……っ!)
下着をはいたまま用を足した時の、あの下半身の温かさ。
「うっ……ひっく……」
結衣は、もう一度声を上げて泣いた。自分の恥ずかしさと、樹への申し訳なさで、ただただ涙があふれてきた。
「結衣さん、シャワー長いな。結衣さん大丈夫?」
中からすすり泣く声が聞こえてくる。
「ちょっと、結衣さん、結衣さん大丈夫? ちょっ!」
ノックをしながら、樹は何度も結衣の名を呼んだ。中から聞こえるのは、ただ小さな嗚咽だけ。樹は、どうすればいいか分からず、ただドアの前で立ち尽くすことしかできなかった。
***
結衣がシャワールームから出てきたのは、それから10分ほど経ってからだった。樹が買ってきた着替え(スウェットと下着、どちらもフリーサイズ)は、扉の前にそっと置かれていた。
スウェットを着てノーメイクの結衣は少し幼く見えた。そして一目でわかるほど落ち込んでいた。
「あの、結衣さん大丈夫?」
樹はそう言って、結衣の顔色をうかがう。結衣は、濡れた髪から水滴を垂らしながら、小さな声でつぶやいた。
「……私、昨日のこと……思い出した……」
樹は、結衣の言葉に息をのんだ。
(やっぱり思い出したか……)
彼の頭の中で、必死に次の言葉を探す。どう説明すれば結衣を傷つけずに済むだろうか。
「そうか、トイレで水をこぼしたことを思い出しちゃったのか。下着が見えてたから、隠しておこうと思ったんだけど……」
樹はそう言って、咄嗟の機転で状況を和らげようと試みる。
結衣は、樹の言葉を聞きながら、静かに涙を流していた。
「全部……思い出した……」
結衣は、樹の言葉に何も返せず、ただ静かに涙をこぼした。
(樹くん……どうして……)
彼女の心は、もう一度、彼の優しさと、彼が自分を傷つけたくない一心で嘘をついているという事実に、締め付けられるような痛みを覚えていた。
樹は、結衣の涙を見て、ついに観念した。
「ごめん、バーに連れて行ったの僕だし、カクテルの名前も知ってたから止めておけばよかった」
樹はそう言って、深く頭を下げた。
結衣は、樹の言葉に涙を拭った。彼の正直な言葉が、結衣の心を締め付ける。
「……樹くん……」
結衣は、濡れた瞳で樹を見つめた。
「……私、自分で飲むって決めたの。樹くんは、何も悪くない……」
結衣はそう言って、濡れた髪から水滴を垂らしながら、寂しそうに微笑んだ。
もう小細工はいらない、と樹は思った。
「……大丈夫、大丈夫だから」
樹はそう言って、濡れタオルで結衣の頬をそっと拭った。
「泣かないで。僕が全部悪かったから。僕が、ちゃんと止めておくべきだった」
彼はそう言って、結衣の頭を優しく撫でた。
「結衣さんは、何も悪くない。全部、僕のせいだから……」
樹は、結衣を宥めるように、必死に言葉を紡いだ。少し子供をあやすような、不器用で、でも優しい手つきだった。
「大勢の人に迷惑かけたわけじゃないから大丈夫だよ。僕だって、MITの時に研究室のパーティーではしゃぎ過ぎて、教授の前で醜態さらしたことあるし」
樹はそう言って、自分の失敗談を語り始めた。その言葉に、結衣は濡れた瞳を大きくした。
(樹くんのせいじゃないのに……)
結衣は、樹が自分を安心させようと、必死で言葉を紡いでくれていることを痛いほど感じていた。
「……樹くん……」
そう言って、結衣は樹の手にそっと触れた。
「……ありがとう……」
結衣は、樹の優しさに、再び涙をこぼした。
次回「§4.6 温かい味噌汁」
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