§4.4 優しい嘘
しかし、生理的な欲求は待ってくれない。ついに結衣は覚悟を決めた。
「樹くん……!」
彼女は震える声でそう呼びかけると、ドアの向こうにいる樹に向かって言った。
「……トイレ行きたい……! トイレに行ってから……説明、聞かせて……!」
結衣の言葉を聞き、樹は安堵と申し訳なさが混じったような声で返事をした。
「わかった。見ないようにするから、バスタオル巻いたままトイレ行って」
彼の声は少し震えていた。
「あ、場所わかる? 部屋出て右ね。スカートは畳んで置いといたから。その横の乾燥機に……パ……下着入ってる」
樹の声は、最後の言葉で消え入りそうになった。
「はい……」
結衣は、立ち上がってバスタオルをギュッと体に巻き付けた。
重い足取りでドアに向かい、ゆっくりとドアノブを回した。
トイレに着くと、個室で一人になり、恐る恐る自分の身体を確認する。特に異常は見当たらず、ようやく安堵のため息をついた。
(よかった……。何もされてない……)
ふと足元を見ると、かかとと小指の付け根に絆創膏が貼られていることに気づいた。
(え? これ……いつ?)
記憶にない。まさか樹くんが……でも、なんで足に? 一体何があったの? 新たな不安が湧き上がる。
(まさか、私……暴れたりした?)
***
彼の震える声と、消え入りそうになった「下着」という言葉に、彼の動揺と、彼なりに必死に誠実であろうとしてくれている気持ちが伝わってきた。
結衣は着替えを済ませ、重い足取りで研究室に戻った。樹は気を遣うように距離を保って立っている。
「えっと、何から……どこから話そうか。結衣さん、どこまで覚えてる?」
樹は少し戸惑いながら口を開いた。
「あ、多分頭痛いでしょ。水はいっぱい飲んでね。あと、ブドウ糖は二日酔いにいいから、ラムネ食べて」
そう言って、樹は結衣の前にラムネを差し出した。
結衣は、樹の言葉に少しずつ昨夜の記憶をたどった。
「……バーを出て、タクシーに乗ったところまでは、なんとか……覚えてる……」
そう言って、結衣は差し出されたラムネをそっと受け取った。
「その後……なんか、樹くんがすごく心配してくれてたことと、ふわふわした感覚は、うっすらと……」
そこまで話すと、結衣は恥ずかしさで顔を赤らめた。
「でも……その後のことは……よく覚えてなくて……気がついたら、こんな格好で……何があったのか……」
結衣は言葉に詰まり、樹の方を見ることができなかった。
樹は少し間を置いてから、覚悟を決めたように話し始めた。
「えっと……結衣さんは水を飲もうとして、こぼしちゃったんだよ。それで、着替えもないしって言ったら、結衣さんが自分でバスタオル巻きつけて……自分で、スカートと……下着を洗って、乾燥機に入れたんだよ」
樹は少し言葉に詰まりながら続けた。そう言い終えると、彼は結衣から目をそらした。
その説明を聞きながら、結衣は彼の視線が不自然に泳いでいることに気づいた。
(樹くんは、嘘をついている……気がする……)
そう直感した。しかし、それは結衣の身を案じての、優しい嘘のように思えた。自分の保身のためではない、と強く感じた。
(スカートが畳んで置いてあったのに、下着だけ洗濯されているなんて……水をこぼしたという話とは合わない……)
あの時、自分が何をしようとしていたのか。記憶は曖昧だが、樹くんの説明は、どうにもしっくりこない。
(その種の間違いはない……医学的な知識からも、身体の状態からも、それは確実だ)
樹の真摯な態度、そして彼の必死な説明から、彼が結衣にひどいことをしていないことは、揺るぎない確信になっていた。
(でも……どう考えても、わたしがやらかしている……気がする……)
顔が熱くなるのを感じながら、結衣は恥ずかしさと樹への申し訳なさで、もう一度泣きそうになった。
「結衣さん、とりあえずシャワー浴びてきなよ。昨日はそのまま寝ちゃってるし。ちょっとはすっきりするんじゃない?」
樹の優しい言葉に、結衣は顔を赤らめた。
「あ、着替えがないから、すぐに近くのドラッグストアで買ってくるね。ゆっくりシャワー浴びてて」
「シャワー……うん……」
そう言って、結衣はバスタオルをぎゅっと握りしめた。樹が嘘をついてくれていることは分かっている。しかし、そのあまりにも不器用な優しさが、かえって結衣の心を締め付けた。
(わたし、どれだけ迷惑をかけちゃったんだろう……)
「ありがとう……」
結衣はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。彼の優しさに甘えて、シャワーを浴びることにした。
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